◇◇◇桜物語◇◇◇ ◆柾彦の恋◆ 9
10月
8日
笙子は、桐生屋の店先に座っていても、いつも柾彦のことを考えていた。柾彦の爽やかな笑顔が目に浮かんで離れなかった。
「笙子、先程から何度も呼んでいるのに返事をしないけれど、どうしたのかね」
桐生弦右衛門が、笙子の前に立った。
「父上さま、申し訳ございません。何かご用でございますか」
笙子は、我に帰って弦右衛門を正視した。
「先程から、その反物にばかり触れているけれど、気に入ったのかね」
弦右衛門は、笙子がここ一週間ばかり、接客にも身が入らず、夢うつつの表情をしているのが気になっていた。大人しい性格の笙子ではあったが着物の見立てには定評があった。店は、長男の颯一朗が継ぐ事になっているが、着物好きの笙子に婿を取って暖簾を分けてもいいと常々考えていた。
「申し訳ございません、考え事をしておりました」
笙子は、弦右衛門の厳しい表情に恐縮して、頭を下げて謝った。
「お嬢さま、そちらの反物は、私が棚に戻しましょう」
すぐに見兼ねた倉三郎が助け舟を出してきた。
「お願いします」
笙子は、倉三郎に反物を差し出した。
「考え事があるのならば、今すぐ奥に下がりなさい。お客さまに失礼になるからね」
弦右衛門は、厳しく笙子を諭した。
「はい、父上さま」
笙子は、涙ぐんで奥に下がった。
弦右衛門は、妻の紗和に目配せをした。紗和は、笙子の後を追って呼び止めた。
「笙子、お話を聞きましょう」
紗和は、奥座敷に笙子を招き入れて正座した。笙子は、一粒の涙を流して俯くと、紗和の前に正座した。
その時、心配顔の弦右衛門が奥座敷に入ってきた。笙子に厳しい注意をしたものの笙子のことが気になって、店を颯一朗に任せて顔を出したのだった。
「父上さま、母上さま、どのように申し上げたらよろしいのか・・・・・・」
笙子は、弦右衛門に反対されると思い、恋する胸のうちを明かす事に抵抗を感じていた。それに笙子が慕っているだけで、柾彦の気持ちが分からなかった。華道展以来、柾彦からの音信は途絶えたままだった。
「笙子、どなたか好きな方が出来たのですね。最近の笙子は、恋をしているようですもの。そろそろ、縁談のお話が出てもおかしくない年頃ですものね」
紗和は、弦右衛門の表情を覗いながら、笙子の恋する瞳をしっかりと見つめた。
「笙子、それはまことかね」
弦右衛門は、身を乗り出して大きな声をあげた。その声に驚いて、笙子は、俯いて身を縮めた。
「旦那さま、そのように大きな声を出されては、笙子が何も申し上げられなくなってしまいます。さぁ、笙子、あなたの気持ちを聞かせてちょうだい」
紗和は、弦右衛門を抑えて、穏やかな微笑を笙子に向けた。
「萌先生のお知り合いの方で、二度しかお会いしておりませんし、私がお慕い申し上げているだけでございます」
笙子は、俯いたまま小さな声で返答した。
「二度も会っておるとは、いったい、何処のどなたなのだね」
弦右衛門は、大切に育ててきた笙子が自分の知らないところで、男性と会っていたことで、裏切られた気分になって強い口調で問い質した。
「本当に私がお慕い申し上げているだけでございます」
笙子は、消え入るような小さな声で返答した。
「何処のどなたなのだね。名前を言いなさい」
弦右衛門は、世間知らずの笙子が相手に騙されているのではないかと考えて声を荒げた。
「旦那さま、もう少し、やんわりとお話をしてくださいませ。笙子、お相手は、どなたですか。萌先生のお知り合いでしたら、それなりのお方でしょう」
紗和は、弦右衛門が落ち着くように緩やかな優しい声で笙子を促した。
「あの、鶴久病院の柾彦先生でございます。最初は、萌先生とご一緒にお車で送っていただきました。次は、先日の華道展にいらしてくださいましたので、会場をご案内申し上げました」
「鶴久病院・・・・・・」
弦右衛門は、思ってもみなかった名前を笙子から聞き、驚いて言葉を失った。紗和もお門違いの病院の名を聞き、驚きを隠せなかった。笙子と同級生だった鶴久志子と母の結子の鮮やかな印象を思い出していた。同じ絹でも洋装の結子は、いつもモダンな雰囲気で煌いていた。そのような家に和装暮らしの娘が通用できるのかが疑問でならなかった。
「笙子、今日は店に出なくていいから奥にいなさい」
弦右衛門は、返す言葉が見つからず、そそくさと立ち上がって奥座敷を出て行った。
「柾彦先生だなんて。あちらは、大きな病院ですし、笙子の片思いでは仕方がありません。世間には、つり合いというものがございます。今日は、奥でゆっくりなさい。そろそろ、倉三郎と笙子の縁談話を進める潮時なのかもしれませんね」
紗和は、小さな溜め息をついて店に戻った。
店では、浮かぬ顔の弦右衛門が帳場に座り、接客をしながら笙子を気にしている颯一朗や奉公人たちが落ち着かない様子だった。
笙子は、自室に戻り、柾彦の笑顔を思い出しながら、溢れる想いを抱えて涙ぐんだ。
窓の外では、笙子のこころを映して、時雨が降り出していた。