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四季織々〜景望綴

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 9

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
   笙子

 笙子は、桐生屋の店先に座っていても、いつも柾彦のことを考えていた。柾彦の爽やかな笑顔が目に浮かんで離れなかった。
「笙子、先程から何度も呼んでいるのに返事をしないけれど、どうしたのかね」
 桐生弦右衛門が、笙子の前に立った。
「父上さま、申し訳ございません。何かご用でございますか」
 笙子は、我に帰って弦右衛門を正視した。
「先程から、その反物にばかり触れているけれど、気に入ったのかね」
 弦右衛門は、笙子がここ一週間ばかり、接客にも身が入らず、夢うつつの表情をしているのが気になっていた。大人しい性格の笙子ではあったが着物の見立てには定評があった。店は、長男の颯一朗が継ぐ事になっているが、着物好きの笙子に婿を取って暖簾を分けてもいいと常々考えていた。
「申し訳ございません、考え事をしておりました」
 笙子は、弦右衛門の厳しい表情に恐縮して、頭を下げて謝った。
「お嬢さま、そちらの反物は、私が棚に戻しましょう」
 すぐに見兼ねた倉三郎が助け舟を出してきた。
「お願いします」
 笙子は、倉三郎に反物を差し出した。
「考え事があるのならば、今すぐ奥に下がりなさい。お客さまに失礼になるからね」
 弦右衛門は、厳しく笙子を諭した。
「はい、父上さま」
 笙子は、涙ぐんで奥に下がった。
 弦右衛門は、妻の紗和に目配せをした。紗和は、笙子の後を追って呼び止めた。
「笙子、お話を聞きましょう」
 紗和は、奥座敷に笙子を招き入れて正座した。笙子は、一粒の涙を流して俯くと、紗和の前に正座した。
 その時、心配顔の弦右衛門が奥座敷に入ってきた。笙子に厳しい注意をしたものの笙子のことが気になって、店を颯一朗に任せて顔を出したのだった。
「父上さま、母上さま、どのように申し上げたらよろしいのか・・・・・・」
 笙子は、弦右衛門に反対されると思い、恋する胸のうちを明かす事に抵抗を感じていた。それに笙子が慕っているだけで、柾彦の気持ちが分からなかった。華道展以来、柾彦からの音信は途絶えたままだった。
「笙子、どなたか好きな方が出来たのですね。最近の笙子は、恋をしているようですもの。そろそろ、縁談のお話が出てもおかしくない年頃ですものね」
 紗和は、弦右衛門の表情を覗いながら、笙子の恋する瞳をしっかりと見つめた。
「笙子、それはまことかね」
 弦右衛門は、身を乗り出して大きな声をあげた。その声に驚いて、笙子は、俯いて身を縮めた。
「旦那さま、そのように大きな声を出されては、笙子が何も申し上げられなくなってしまいます。さぁ、笙子、あなたの気持ちを聞かせてちょうだい」
 紗和は、弦右衛門を抑えて、穏やかな微笑を笙子に向けた。
「萌先生のお知り合いの方で、二度しかお会いしておりませんし、私がお慕い申し上げているだけでございます」
 笙子は、俯いたまま小さな声で返答した。
「二度も会っておるとは、いったい、何処のどなたなのだね」
 弦右衛門は、大切に育ててきた笙子が自分の知らないところで、男性と会っていたことで、裏切られた気分になって強い口調で問い質した。
「本当に私がお慕い申し上げているだけでございます」
 笙子は、消え入るような小さな声で返答した。
「何処のどなたなのだね。名前を言いなさい」
 弦右衛門は、世間知らずの笙子が相手に騙されているのではないかと考えて声を荒げた。
「旦那さま、もう少し、やんわりとお話をしてくださいませ。笙子、お相手は、どなたですか。萌先生のお知り合いでしたら、それなりのお方でしょう」
 紗和は、弦右衛門が落ち着くように緩やかな優しい声で笙子を促した。
「あの、鶴久病院の柾彦先生でございます。最初は、萌先生とご一緒にお車で送っていただきました。次は、先日の華道展にいらしてくださいましたので、会場をご案内申し上げました」
「鶴久病院・・・・・・」
 弦右衛門は、思ってもみなかった名前を笙子から聞き、驚いて言葉を失った。紗和もお門違いの病院の名を聞き、驚きを隠せなかった。笙子と同級生だった鶴久志子と母の結子の鮮やかな印象を思い出していた。同じ絹でも洋装の結子は、いつもモダンな雰囲気で煌いていた。そのような家に和装暮らしの娘が通用できるのかが疑問でならなかった。
「笙子、今日は店に出なくていいから奥にいなさい」
 弦右衛門は、返す言葉が見つからず、そそくさと立ち上がって奥座敷を出て行った。
「柾彦先生だなんて。あちらは、大きな病院ですし、笙子の片思いでは仕方がありません。世間には、つり合いというものがございます。今日は、奥でゆっくりなさい。そろそろ、倉三郎と笙子の縁談話を進める潮時なのかもしれませんね」
 紗和は、小さな溜め息をついて店に戻った。
店では、浮かぬ顔の弦右衛門が帳場に座り、接客をしながら笙子を気にしている颯一朗や奉公人たちが落ち着かない様子だった。
笙子は、自室に戻り、柾彦の笑顔を思い出しながら、溢れる想いを抱えて涙ぐんだ。
窓の外では、笙子のこころを映して、時雨が降り出していた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 8

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
   紫乃〈しの〉

 柾彦は、往診の帰りに桜河のお屋敷に車を停めた。紫乃が、柾彦を迎えた。
「柾彦さま、いらっしゃいませ。奥さまと祐里さまは、外出中でございますが、ちょうど、栗の渋皮煮が出来あがったところでございますので、召し上がっていかれませんか」
 豊かな微笑を湛えて紫乃は、柾彦を招き入れた。
「そろそろ、おやつの時間だと思って、寄ったところです。勿論、いただきます。今日はお屋敷の中が静かですね」
 柾彦は、台所に入って椅子に腰かけた。
「午後の休憩時間でございます。私は、台所を一番好いてございますので、いつもここにおります」
 紫乃は、手際よくおやつの膳を用意して、柾彦の前に差し出した。
「美味しそうですね。いただきます」
 柾彦は、手を合わせて栗の渋皮煮を口に入れた。ほろ苦さと甘さが合わさって、秋の豊かな香りが口の中に広がった。
「奥庭で採れた栗でございます。本当に柾彦さまは、美味しそうに召し上がられますね」
 紫乃は、柾彦の食べ振りから元気をもらっていた。
「紫乃さんの作るものが美味しいからですよ。お屋敷の方がたは、しあわせですね。毎日、紫乃さんの美味しいご馳走が食べられるのですから。ところで、紫乃さんは、どうして結婚しなかったのですか」
柾彦は、はじめて紫乃と二人きりになり、紫乃のことを聞いてみたくなった。
「私のことでございますか。恥ずかしゅうございますね」
 紫乃は、柾彦の真剣な眼差しを受けて、顔を赤らめながら昔を思い出すように話し始めた。
「私が、東野のお屋敷にご奉公に上がったのは、十二歳の時でした。奥さまは、五つで、本当に可愛らしいお嬢ちゃまでございました。紫乃、紫乃と私に懐いてくださいまして、私がお世話をする事になりました。桜河の旦那さまは、東野のご長男の圭一朗さまと同い年の十で、奥さまがお生まれになられた時からの許婚でございましたので、よく遊びにいらしていました。旦那さまも、私のことを姉のように慕ってくださいましてね。私は、何処に行くにも奥さまのお供をいたしました。奥さまが十八で、こちらにお嫁入りの時には、貧血ぎみの奥さまのことが心配で、桜河のお屋敷にお供してご奉公することになりました。お暇をいただいて、結婚も考えたのでございますが・・・・・・その頃に柾彦さまのようなお方と巡り合っておりましたら、私もきっと結婚してございました」
紫乃は、柾彦に微笑みかけて話を続けた。
「でも、奥さまのご希望もございましたし、私自身が奥さまと離れとうございませんでした。その頃、祐里さまの産みの母の小夜さんがお手伝いに来ていました。小夜さんは、素直な働き者でございましてね、私も小夜さんとすぐに仲良くなりました。東野の籐子奥さまに家事を習い、こちらでは、厳しい方ではございましたが、大奥さまの濤子さまにお料理を丁寧に教えていただきました。桜河のお屋敷のお料理は、大奥さまから全て教えていただきましたので、祐里さまに私からお伝えいたしました。光祐さまがお生まれになり、産後の肥立ちがお悪い奥さまと光祐さまのお世話をすることが嬉しゅうて、結婚など考えられませんでした。そのうち、可愛い祐里さまも来られて、旦那さまの代になリまして、いつの間にか、ここが私の家のように思えまして、私は、死ぬまで桜河のお屋敷にご奉公するつもりでございますのよ」
 紫乃は、しあわせな微笑を湛えながら、懐かしむように話をした。
「ここが紫乃さんの家ですし、桜河のお屋敷では、紫乃さんは、かけがえのない家族です」
 柾彦は、紫乃のしあわせをともに感じていた。
「はい、もったいのうございますが、私は、勝手にそのように思ってございます。柾彦さまは、そろそろ、ご結婚でございますね。奥さまからお話をお聞きいたしました。どうぞ、おしあわせになられてくださいませ」
紫乃は、柾彦の晴れ晴れとした笑顔を自分のことのように嬉しく思っていた。光祐の弟のように感じていた柾彦が良縁に恵まれたことが嬉しかった。
「まだまだですよ。出会ったばかりですから。紫乃さん、ご馳走さまでした。病院に戻ります」
柾彦は、照れ笑いをして手を合わせると、時計を見て立ち上がった。紫乃は、玄関横の車寄せまで柾彦を見送り、茜色に染まった庭の桜の樹を見上げた。桜の樹は、華やいだ茜色の葉を揺らし、紫乃を労ってくれていた。
「婆や、ただいま帰りました」
優祐と祐雫が、石畳を駈けて学校から戻って来た。
「優坊ちゃま、祐嬢ちゃま、お帰りなさいませ」
 紫乃は、玄関前で二人を抱きしめた。
「婆や、今日のおやつは、何」
 優祐と祐雫が、同時に問いかけた。
「さぁ、何でございましょうね。お着替えをなされて手を洗われましたら、食堂にいらしてくださいませ。それまでのお楽しみでございますよ」
「はい。婆や」
「祐里さまは、お留守でございますが、お二人で大丈夫でございますね」
 紫乃は、日本家屋に向かう優祐と祐雫の背中に伝えた。優祐と祐雫が生まれてから光祐と祐里は、日本家屋に移り住んでいたが、平日の朝食から夕食までの時間は、ほとんど洋館で過ごしていた。紫乃は、あどけない二人から元気をもらっていた。
「はぁーい」
 優祐と祐雫は、着替えをするために日本家屋の玄関へ競って走っていった。
「紫乃さん、ただいま帰りました」
 祐里は、石畳を静かに歩いて、紫乃の背中を優しく見つめていた。
「祐里さま、お帰りなさいませ。柾彦さまと入れ替わりに、今、優坊ちゃまと祐嬢ちゃまがお帰りになられたところです」
「声が聞こえてございました。柾彦さまとは、途中の道でお会いしました。紫乃さんの美味しいおやつに、ご満足のご様子でございました。紫乃さん、今日のおやつは、何」
 祐里は、子どもたちの真似をして問いかけた。
「さぁ、何でございましょうね。可愛い祐里さま、手を洗われましたら、食堂にいらしてくださいませ。それまでのお楽しみでございますよ」
「はい。紫乃さん。おいしそうな匂いがしてございますね」
 紫乃は、子どもたちに答えるように返事をした。祐里は、子どもの時から優しく見守り続けてくれる紫乃に感謝の気持ちで微笑んで、子どもたちの後を追った。
夕方になって、薫子が帰って来た。
「奥さま、お帰りなさいませ」
「紫乃、ただいま帰りました。今日は、少し疲れました」
 薫子は、迎えてくれる紫乃の穏やかな笑顔を見るだけで、疲れが癒されていた。
「お疲れでございましたら、お部屋でゆっくりなさってくださいませ。すぐに熱めのおしぼりと甘いものをお持ちいたしますので」
 紫乃は、幾つになっても薫子のことが可愛くて仕方がなかった。東野の籐子から、よく『薫子の身体が弱いのは、紫乃が甘やかすからでございます』と叱られたものだった。それでも、つい手を出さずにはいられなかった。
「静かでございますね。祐里さんと子どもたちはどちらに」
「おやつを召し上がられて、木の実探しに奥庭へお出かけでございます」
紫乃は、扉を開けて薫子を部屋に入れた。
「紫乃、とても嬉しそうな顔をしているけれど、何かございましたの」
 薫子は、長椅子に座りながら紫乃をまじまじと見つめた。
「午後に柾彦さまがお寄りになられて、私の料理を誉めてくださったものでございますから。それにもったいないことでございますが、私のことをかけがえのないお屋敷の家族だとおっしゃってくださいました」
紫乃は、満ち足りた気分で、自然に微笑みが溢れていた。
「さようでございますとも。わたくしは、いつもそのように思っていてよ。紫乃、いつまでも元気でわたくしの側にいてくれなければ、嫌でございますよ」
 薫子は、今まで紫乃が側に居たからこそ、恙無く暮らしてこられたことを改めて感謝した。身体の弱い自分の代わりに、厳しい義母の濤子とも上手く接して助けてくれた。光祐と祐里の世話や広い屋敷の家事一般、奉公人の取り纏め及び出入人の采配を引き受け、家族が気持ちよく暮らせるように心配りをしてくれた。薫子は、啓祐に寄り添い、紫乃に甘えて、今日までこられたのだった。
「坊ちゃまと祐里さまがおしあわせになられましたので、今の紫乃は、奥さまとご一緒させていただけることが何よりのしあわせでございます」
紫乃は、温かな微笑みを湛えて、台所におやつを取りに行った。

夜になって、啓祐と光祐が一緒に帰って来た。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
 車の音がすると家族が一斉に玄関に集まり、声を揃えて啓祐と光祐を迎えた。
「美味しい匂いがしているね。紫乃、今夜の夕食は何だろうね」
 啓祐が鞄を薫子に渡しながら、後ろに佇む紫乃に問いかけた。
「本日は、旦那さまの好物にいたしました。ご用意が出来ておりますので、食堂にいらしてくださいませ。もちろん、デザートは、坊ちゃまの好物をご用意いたしております」
 紫乃は、啓祐と光祐に微笑んで、お屋敷の家族の一員であることでこころが満ち足りて、ただただしあわせだった。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 7

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
  笙子〈しょうこ〉

 笙子は、忘れ物のように華奢な身体を小さくして、ちょこんと後部座席に座っていた。その姿が柾彦にはなんとも可愛らしく感じられた。
「鶴久先生、お仕事の途中に送っていただきまして、申し訳ございません」
 俯き加減のまま、笙子は、小さな声で呟いた。
「柾彦でいいですよ。帰り道だから、気にすることはありません。笙子さんは、東野まで帰るの」
 柾彦は、笙子を寛がせようと明るい声で話しかけた。
「はい」
 笙子は、思いがけず柾彦と二人だけになり、恥ずかしくてどきどきしていた。今まで殿方と二人だけになることなどなく、まして車内の空間は、笙子の高鳴る鼓動が柾彦に聞こえてしまいそうに接近していた。
「この時間だとあと一時間近く、列車が来ないはずですよ。一度、病院に戻って急患が無ければ、このまま、東野まで送りましょう」
 柾彦は、笙子の返事を待たずに、病院の方角へ曲がった。
「それでは、柾彦さまにご迷惑でございます。私は、待つのには慣れてございますので、ご心配なさらないでくださいませ」
 笙子は、驚いて、申し訳なさで尚更瞳を潤ませた。
「今日は気持ちのいい晴天なので、気分転換に車を走らせてみたくなっただけで、笙子さんを送っていくのはついでですから、気にしないで」
柾彦は、病院玄関の車寄せに駐車して、受付係の倭子(しずこ)に一時間ばかり出てくることを伝えると、白衣と上着を交換して車に戻ってきた。笙子は、申し訳なさそうに後部座席に静かに座って待っていた。
「お待たせしました。急患は、ありませんでした」
 柾彦は、運転席に座ると振り向いて、笙子が打ち解けるように、元気な笑顔で声をかけた。笙子は、白衣を脱いだ柾彦に少し寛いだものを感じた。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
 笙子は、瞬きをしながら柾彦の瞳を見つめて、少しだけ微笑んだ。柾彦は、笙子と一緒に居ることでほんのりとした気分を味わっていた。車内には和やかな空気が流れていた。
「ぼくには、六つ下の妹がいましてね。この秋に嫁いだのですが、笙子さんは、幾つくらいですか。あっ、女性に歳を聞いては失礼でしたね」
 柾彦は、妹の志子(ゆきこ)と笙子を比べていた。志子は、母の結子によく似た明るく活発な性格だった。
「志子さまでございますね。同い年でございます。女学校では組が違っておりましたが、志子さまは、はきはきとされてございましたので存知上げております」
 笙子は、柾彦が志子にとって、自慢の兄ということも知っていた。
「志子と同じ年だったのですか。桐生というと呉服屋の桐生屋さんなの」
 市松人形のようにしっくりと着物が馴染んでいる笙子を車内の鏡で見ながら、柾彦は問いかけた。
「はい、さようでございます」
 笙子は、姿勢を正したまま静かに頷いた。
「どうりで着物がしっくり似合っているわけですね。いつも、着物を着ているの」
 対向車を避けるために片側に停車して、柾彦は、鏡越しの着物姿の笙子をゆっくりと見つめた。柾彦は、日常的に洋装の結子と生活しているので、着物姿の笙子が新鮮に感じられた。
「はい。物心ついた頃からでございます」
 笙子は、柾彦の質問に答えながら、少しずつ、柾彦に打ち解けていった。
 柾彦は、偶然に出合った笙子とこれほど会話が出来るとは思ってもみなかった。それどころか、東野に近付くにつれて、笙子のことを愛しいとさえ思っている自分に驚いていた。こころなしか車の速度がゆるやかになっていた。
「笙子さん、着きましたよ」
 柾彦は、桐生屋の手前で車を停め、後部座席の扉を開けて、笙子を降ろした。
「柾彦さま、本日は、誠にありがとうございました。お礼と申しましては失礼かと存じますが、華道展のご招待券でございます。よろしゅうございましたら、是非、お母さまとご一緒にいらしてくださいませ」
 笙子は、巾着袋から華道展の招待券を二枚取り出して、柾彦に手渡した。そして、深々とお辞儀をして、柾彦に笑顔を向けた。
「こちらこそ、楽しいドライブでしたよ。また、縁があるといいですね」
 柾彦は、爽やかな笑顔を笙子に向け、車を発進させた。柾彦の車が角を曲がるまで、笙子は、その場に佇んで見送りながら、色白の頬を紅色に染め、胸が高鳴るのを感じていた。柾彦は、角を曲がると腕時計に目をやり、思いのほか時間が経っていることに気付き、慌てて車の速度を上げて帰路に着いた。笙子は、しばらく、柾彦の車が去った方角を見つめて佇んでいた。偶然の巡り合わせで、初恋の感情が芽生えていた。今まで、笙子にとって、結婚相手は、父が決めるものとばかり思っていた。現に父は、口には出さなかったが、桐生屋の奉公人の倉三郎と笙子を結婚させて、暖簾分けをするつもりでいるらしかった。
「お嬢さま、お帰りなさいませ。車でお帰りでございましたか」
 倉三郎が、車の音を聞きつけて店先に顔を出した。
「ただいま帰りました。萌先生のお知り合いの方が、お送りくださいましたの」
笙子は、紅潮した顔を倉三郎に気付かれないように俯き加減で返答した。
「お嬢さま、お荷物をお持ちいたします」
 倉三郎は、笙子の花包みを受け取った。今の今まで、笙子は、倉三郎と結婚することに、何の疑問も持ち合わせていなかった。父の意向は絶対的なもので、倉三郎は働き者で客受けもよく、何よりも笙子に優しかった。けれども、笙子は、この瞬間、柾彦に恋をした自分に気が付いた。

 翌週の日曜日に、東野の久世華道会館で、盛大な華道展が催された。柾彦は、母を誘って、笙子に会う為に華道展に出かけた。
 久世春翔と萌は、来客の応対で忙しく会場を飛び回っていた。
 柾彦は、受付の後方に佇む笙子を見つけて会釈した。笙子は、柾彦の笑顔に見つめられ、恥ずかしげに俯いて、柾彦に近付いた。
「柾彦さま。いらしてくださいまして、ありがとうございます」
 笙子は、丁寧に感謝の気持ちを込めてお辞儀をした。
「こちらこそ、ご招待ありがとう。母上、久世のお弟子さんで、本日ご招待してくださった桐生笙子さんです。笙子さん、母です」
 柾彦は、笙子を結子に紹介した。
「はじめまして。鶴久結子でございます」
 結子は、珍しく柾彦から華道展に誘われ不思議に思いながら、恋愛において堅物の柾彦から女性を紹介されるとは思いもよらず驚いていた。驚きながらも、結子は、笙子を観察していた。見事な錦秋文様の振り袖姿の笙子は、頬を染め、柾彦を恋する瞳で見つめていた。娘の志子が同級生の笙子のことを『祐里に雰囲気が似ている』と言っていた事を思い出していた。
「はじめてお目にかかります。桐生笙子でございます」
 笙子は、緊張しながら、結子に深々とお辞儀をした。
「母上、笙子さんに会場を案内していただきましょう。笙子さん、お願いするよ」
柾彦は、笙子の瞳を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「はい。お母さま、柾彦さま、こちらからご案内申し上げます」
 笙子は、春翔の作品から順に案内していった。
 その少し後に薫子と祐里は、華道展を訪れた。
「萌さん、ご招待ありがとうございます。ご立派な作品展でございます」
 薫子は、会場で忙しく動き回っている萌を見つけ、労いの言葉をかけた。
「萌さま。ご招待ありがとうございます。ご盛況で何よりでございます」
 祐里は、盛況ぶりを薫子と一緒に喜んでいた。
「叔母さま、祐里さま、ご来場ありがとうございます。祐里さま、あちらをご覧になってくださいませ。お似合いでございましょう」
 萌は、薫子と祐里に礼を述べ、柾彦と笙子が並んで楽しそうに話をしているところを微笑みながら指し示した。
「柾彦さまと桐生屋さんのお嬢さまでございますね。微笑ましゅうございますね」
 祐里も萌同様、柾彦がしあわせそうな笑顔でいることが嬉しかった。そして、柾彦に恋の春が訪れたことを感じていた。
「柾彦さんもその気になられたようでございますね。結子さまもこれで、一安心でございましょう」
 薫子は、結子の気持ちになって喜んでいた。
 しばらくして、薫子は、柾彦と笙子の熱気に当てられている結子に声をかけ、恋する二人に配慮した。
「柾彦さん、私は、薫子さまとお食事をして帰りますので、ここで失礼しますね。笙子さん、ご案内ありがとうございました。是非、遊びにいらしてくださいね」
「はい、喜んで伺わせていただきます。本日はお越しくださいましてありがとうございました」
 結子は、笙子に挨拶をして、薫子と祐里とともに会場を後にした。柾彦は、祐里と同じ会場にいながら、祐里の姿に気付かなかった。柾彦と笙子は、一緒に会場を回るだけで楽しく感じていた。大勢の来場者の中にあって、そこは二人だけの世界が広がっていた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 6

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
   萌〈もえ〉

 霜月に入り、桜の樹の葉が茜色に染まり、静かな華やぎを見せていた。
「萌さん、こんにちは。春翔は、相変わらずですか。よろしければ、送りましょうか」
 柾彦は、往診の帰りに星稜時代からの悪友・久世春翔(くぜはると)の妻・萌を見かけて声をかけた。萌は、女学校を卒業すると同時に幼馴染みの華道家・久世春翔と結婚し、一女二男の母になっていた。春翔は、久世家の一人息子、萌は、東野家の一人娘の結婚ということで、二男は東野家の後継ぎとして東野姓を名乗っていた。
「柾彦先生。ごきげんよう。春翔は、相変わらず、あちらの華、こちらの華と、女性の間を飛び回ってございます。ひとつの華では、満足できないらしくて。これから、銀杏亭の生け込みでございますの。銀杏亭までお送りいただいて、よろしゅうございますか。こちらは、桐生笙子さんで、いつも私のお供をしてくださいますの」
 東野地所の一人娘として絢爛豪華に育てられた萌は、結婚してからも生家の後ろ楯を享受し、華道家の妻としての華やぎを醸し出していた。春翔の女好きは評判だったが、萌は、妻としてしっかりと春翔を支えていた。萌の大輪の菊と牡丹の艶やかな着物姿は一際目を惹いた。柾彦は、萌の陰に隠れて気付かなかった、笙子の姿を初めて目にした。
「桐生笙子でございます」
 若い笙子は、紫苑色の振り袖姿で、恥ずかしそうに萌の後ろに佇んでいた。
「鶴久柾彦です。さぁ、どうぞ」
 柾彦は、車から降り、後部座席の扉を開けて、萌と笙子を車に乗せた。
「柾彦先生、私を銀杏亭で降ろしてくださった後に、笙子さんを桜川の駅までお願いしてもよろしゅうございますか」
 萌は、遠慮なく柾彦に頼んだ。
「ちょうど帰り道ですから、お任せください」
 柾彦は、気軽に応じた。
「ありがとうございます。柾彦先生は、ますます、ご立派になられましたね。いつまで、独身を通されるのでございますか」
 萌は、それとなく笙子に、柾彦が独身であることを示した。先日より、おせっかいやきの杏子から、柾彦の縁談について相談を受けていた。萌は、立派な頼もしい柾彦が、どうして結婚しないのか不思議でならなかった。
「別に独身を通しているわけではありませんよ。縁が無いだけです」
 柾彦は、萌の唐突な質問に、ハンドルを切りながら苦笑した。
「柾彦先生が、お気づきになられてないだけではございませんの。ねぇ、笙子さん、素敵な男性でございましょう」
 萌は、隣に黙って座っている笙子に、意味ありげに囁いた。
「はい」
 笙子は、薄っすらと頬を染めて、俯き加減で同意した。
「萌さん、誉めていただいてありがとうございます。さあ、銀杏亭に着きましたよ」
 柾彦は、車を降りて、後部座席の扉を開けた。
「柾彦先生、ありがとうございます。笙子さんのことをよろしくお願いします。笙子さん、それでは、ごきげんよう」
 萌は、自身の見立ては間違いではなかったと、こころ踊る気分になった。柾彦の好みは、祐里のように慎ましやかな女性と心得ていた。
「萌先生、私も銀杏亭にお供いたします」
 笙子は、萌が車から降りると、初対面の柾彦と二人きりになることが心細く感じられて、慌てて萌の後を追った。
「今日は、銀杏亭で杏子さまとお話がございますので、笙子さんは、ご遠慮していただけるかしら」
 萌は、ここで笙子に車を降りられては大変と思い、慌てて車の扉を閉めた。
「萌先生・・・・・・」
 笙子は、心細さで瞳を潤ませた。
「それでは、萌さん、杏子によろしく伝えてください。笙子さんのことは、任せてください」
 柾彦は、萌に会釈をして、運転席に戻った。
 萌の姿を見つけた杏子が銀杏亭から出てきて、二人は、柾彦の車を見送りながら、手を取り合って歓声を挙げた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 5

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
   祐雫〈ゆうな〉

 祐雫は、白百合女学院小学校の六年生に進級した。父の光祐よりまっすぐな性格を受け継ぎ、成績優秀で(どうして長女の私は、桜河家の後継ぎにはなれないのかしら)と不思議に感じていた。同級生たちは、流行の洋服や髪型のこと、星稜学園小学校の誰某が素敵という話ばかりで、話を合わせてはいたがどこか物足りなさを感じていた。
 土曜日の放課後、祐雫は、よき理解者である柾彦を頼って、鶴久病院を訪れた。祐雫が病院の扉を開けると、受付係の倭子(しずこ)が笑顔を向けた。
「祐雫さん、こんにちは。柾彦先生は、今、ご自宅へ戻られましたよ」
「こんにちは。ごめんくださいませ」
 祐雫は、受付係の倭子にお辞儀をして、自宅へ続く廊下を進んだ。柾彦は、自宅前で秋の和かな日差しに輝く桜の樹を見上げていた。十数年前に桜河のお屋敷から譲り受けた挿し木は見事な枝振りに成長していた。それとともに鶴久病院は、益々発展していた。
「こんにちは、柾彦先生。お腹が空いたので来てしまいました」
 祐雫は、にっこり笑って柾彦に駆け寄った。
「雫姫(しずくひめ)。ようこそ、鶴久城へ。母上さまに断ってきたの。また、内緒にして来たのでしょう」
 柾彦は、祐雫の頭を撫でて微笑み返した。祐雫は、初めて出会った頃の祐里に顔立ちがよく似てきていた。ただ、祐雫は、はきはきとした性格で、生まれながらにして桜河のお嬢さまとして誰にも臆することなく育った風格を備えていた。柾彦は、玄関の扉を開けて、祐雫を自宅に通した。
「ただいま、母上。雫姫も一緒なのだけれど」
「こんにちは。おばさま。おいしそうな匂いに釣られて来てしまいました」
 玄関の扉を開けると、昼食の美味しそうな匂いが立ち込めていた。
「お帰りなさいませ、柾彦さん。祐雫ちゃん、いらっしゃいませ。ちょうどよかったですわ。お昼を作りすぎてしまって困っていたところでしたのよ。祐雫ちゃんの鼻は、よく利きますのね」
 結子は、祐雫の鼻に軽く手を当てた。
「また、姫に内緒で来ているから、母上、電話を入れてください。姫が心配している頃だろうから」
「祐里さんを心配させてはいけませんものね」
 結子は、祐里に電話をかけてから、昼食を食卓に並べた。
「柾彦さん、祐里さんがよろしくお願いしますとのことでした。祐雫ちゃん、どうぞ、たくさん召し上がれ」
「いただきます」
 祐雫は、結子の作る洋食が大好きだった。
「優祐くんは、家に戻ったの」
「はい。午後から、剣術のお稽古でございます。優祐は、母上ご自慢のよい子でございますもの」
「まぁ、祐雫ちゃんがお姉さまのようですわね」
 結子が声高に笑う。
「おじいさまが、優祐を兄とお決めになられたので、祐雫は妹でございますが、双子なので、祐雫が姉でもよろしゅうございましたのに」
 祐雫は、口を尖らせた。
「雫姫は、ご機嫌斜めだね。何かあったの」
 柾彦は、食事を終えて、祐雫を居間の長椅子に座らせた。
「祐雫は、なんだかつまりません」
 柾彦は、祐雫のことを姪のように感じていた。
「祐雫は、今の学校では退屈ですの。優祐のように、もっともっと勉強がしたいのです」
 祐雫は、自身の宿題を終えると、優祐の教科書を借りて勉強し、向学心に燃えていた。
「そうだったの。雫姫は、勉強が好きだったのか」
 柾彦は、祐雫を抱きしめた。
「柾彦先生の匂いがいたします。消毒液の匂い。お医者さまになるのもよろしゅうございますね」
 祐雫は、柾彦の腕の中で、小さな希望を見出していた。
「まぁ、それはよろしゅうございますわ。柾彦さんときたら、相変わらずの堅物で鶴久病院の後継ぎができませんもの。祐雫ちゃんが後継ぎになってくだされば、鶴久病院も安泰ですわ」
 結子は、食卓を片付けながら、喜びの声をあげた。
「母上は、また、そのような夢の話をされて。雫姫は、桜河家の大切な姫ですよ。光祐さんから叱られます。雫姫、進路については、父上さまとよく相談をするといいよ」
 柾彦は、母の発言を窘めながら(ぼくが、もう少し若ければ、雫姫に恋をしていたかも知れない)と祐雫の中に受け継がれる祐里の面影に、こころの中で呟いていた。

 その夜、光祐は、祐雫の部屋の障子越しに声をかけた。剣術の稽古で疲れた優祐の部屋の明かりは消えていた。
「祐雫、まだ、起きているの」
「父上さま」
 祐雫は、机から立ち上がり、障子を開けて、光祐を部屋の中に入れた。
「勉強をしていたのかね。祐雫は、勉強熱心だものね。この頃、祐雫がつまらなそうにしているのが気になっていたのだよ」
 光祐は、長椅子に座り、隣に祐雫を座らせた。
「祐雫のことを気にかけてくださったのでございますか」
「もちろんだとも。可愛い私の子どもだからね」
 光祐は、優しい笑顔で大きく頷いてみせた。
「祐雫は、優祐のようにもっともっとお勉強がしとうございます。母上さまは、いつも女の子らしくが口癖で、祐雫にお手伝いばかり仰せになります」
 祐雫は、光祐の深い愛情を感じて、こころに陽が差し込んだ気分になった。
「そのようなことはないだろう。祐雫のことを一番心配しているのは、母上だよ。母上は、心配を表情に出さないひとだからね。それに、手伝いは勉強と同じように生きていくためには大切なことなのだよ。母上は、祐雫だけではなく、優祐には男らしくと他の手伝いをさせているし、祐雫は、これから様々な体験をして、日々成長していくのだから焦ることはないのだよ」
 光祐は、自己主張をするようになった祐雫の成長を感じていた
「おじいさまもおばあさまも優祐も婆やも爺も、母上さまのことばかり。祐雫のことなんて誰も気にしてくださらない」
 祐雫は、口を尖らせた。
「なんだ、祐雫は、母上にやきもちをやいていたのか。ほら、そのような顔をしていると可愛い顔が台無しだよ」
 光祐は、幼さの残る祐雫の肩に手をまわして抱き寄せてから、瞳を見つめて話をした。
 「母上は、家族皆の宝物だからね。その母上が一番気にしているのが、祐雫のことなのだから。となると、祐雫こそが家族の宝物の中の宝物ではないのかね」
 光祐は、祐里と競おうとする祐雫の女性としての成長の早さに驚いていた。
「祐雫が、宝物の中の宝物。父上さまのおっしゃることはよく分かりません」
 祐雫は、不思議な顔をして光祐を見つめた。光祐は、優しく祐雫の黒髪を撫でた。
「学問では、教えてくれないことだからね。祐雫、外の桜の樹を見てご覧。三百年以上ここにいて、ずっと桜河の家を見守ってくれているのだよ。嬉しいことも楽しいことも、怒りや悲しみさえ、一緒に感じてくれている。母上は、この桜のようなひとなのだよ。祐雫もそのうち、母上のようになれるのだからね。焦ることはない。優祐は、優祐らしく、祐雫は、祐雫らしく、育っていけばいいのだよ。そして、何かあれば、私や母上に相談してくれると嬉しいね」
「祐雫は、祐雫らしくでございますか」
「そうだよ」
 光祐は、大きく頷いて、しばらくの間、祐雫を黙って抱きしめていた。祐雫は、光祐の広い胸の中で、満開の桜の花に包まれているような優しい心地を感じていた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 4

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  美月〈みづき〉

鶴久病院の職員出入り口に、美月は、大きな鞄を手に佇んでいた。
「柾彦さま、来てしまいました。柾彦さまのいない日々は、私には耐えられません」
 教授の娘の檜室美月だった。柾彦を真っ直ぐに見つめる美月の瞳には、大粒の涙が溢れていた。
「美月さん、突然にどうしたのですか」
 柾彦が医師として鶴久病院に戻って来てから、八ヶ月が経とうとしていた。柾彦は、ただただ驚いていた。教授の家には、数回招待されて伺ったことがあり、もちろん美月ともその時に会話を交わしたことはあったが、交際をしていたわけではなかった。柾彦にとっては、教授の娘という認識しかなかった。
「お見合いのお話がすすんでおります。私は、柾彦さまに嫁ぎたく思います。檜室の家には、もう戻らぬ覚悟で参りました」
 美月は、熱い想いを柾彦にぶつけて、柾彦の広い胸に飛び込んだ。
「美月さん、ぼくには、おっしゃっている事がよく理解できないのですが、落ち着いて話をしてください。とにかく、ここでは話ができませんので、家へどうぞ」
柾彦は、美月の大きな鞄を受け取り、自宅に招き入れた。母の結子が所用を済ませて帰って来るまでに話を終わらせたかった。美月を居間の長椅子に座らせて、落ち着くように熱い紅茶を入れた。柾彦自身も熱い紅茶を飲んで落ち着きたい心境だった。柾彦は、紅茶を一口飲んで深呼吸をした。
「美月さん、ぼくは、あなたの名前と教授の娘さんであることくらいしか知りません。それなのにぼくと結婚するなど理解に苦しみます」
 柾彦は、美月を傷つけないようにするにはどうしたらいいのか、頭の中で考えていた。
「美月では駄目ですか。それとも、既にどなたかいらっしゃるのですか」
 美月の瞳からは、ぽろぽろと真珠のような涙が、次から次へと零れていた。柾彦は、不思議な気分でその様子を眺めていた。どなたかと問われて、想い描くのは祐里の顔・・・・・・柾彦は、突然の美月の想いに戸惑うばかりだった。
「美月さん、ぼくは本当にあなたのことを何も知らないのです。とにかく涙を拭いてください。目が腫れてしまいますよ」
 柾彦は、白衣のポケットからハンカチを取り出して美月に渡した。
玄関の呼び鈴が鳴り、柾彦があたふたと扉を開けると、祐里が立っていた。
「柾彦さま、こんにちは。紫乃さんの作ったお彼岸のおはぎを御裾分けにお持ちいたしました。おばさまは、いらっしゃいますか」
 祐里は、玄関に揃えられた女性の靴に目を落とした。
「姫、ありがとう。母上は、外出していて、もうすぐ戻ってくると思うのだけれど」
柾彦は、祐里に助けを求めたい気持ちと美月のことをどのように紹介すればいいのか分からない気持ちの中で戸惑っていた。
「柾彦さま、お客さまでございましたら、私は、ここで失礼いたしましょうか」
 祐里は、柾彦の決まりの悪そうな様子に配慮した。
「姫、どうか、帰らないで。とにかく、どうぞ、上がってください」
 柾彦は、慌てて祐里を招き入れて、美月の前に案内した。
「こちらは、教授のお嬢さんの檜室美月さんです。美月さん、桜河祐里さんです」
 祐里は、泣いている美月と困惑している柾彦を見つめた。
「この方が、柾彦さまの婚約者ですか」
 美月は、ハンカチで涙を拭きながら、挑むような瞳を祐里に向けた。
「そうですよ。だから、美月さんは、落ち着かれたら、家に戻ってください」
 柾彦は、美月の勘違いを肯定して、とっさに嘘をついていた。祐里は、その場の状況がよく呑み込めずに佇んでいた。一途な美月の想いがその視線から感じられた。柾彦は、今ようやくその想いに気付いた様子だった。祐里は、柾彦から美月に視線を移した。真っ直ぐに祐里を見つめる瞳からは、大切に育てられた雰囲気と勝ち気な性格が感じられた。
「ただいま帰りました。祐里さんがいらしているの。ちょうど、美味しいケーキを買ってきましたのよ」
 結子は、玄関に揃えられた女性の靴に目を留めて、祐里が来ているのだと思い込んだ。恋愛において堅物の柾彦に女性の影は皆無だった。結子は、居間の扉を開けると言葉を失った。知らない女性が柾彦の前で涙を流し、祐里が側に佇んでいた。
「おばさま、お留守にお邪魔しております」
 祐里は、結子に挨拶をして、再び柾彦に視線を向けた。
「母上、あの、この方は、檜室教授の娘さんで、美月さんです」
 柾彦は、結子の声に驚いて、赤面しながらあたふたと美月を紹介した。
「お母さまですか。初めまして、檜室美月と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
 美月は、ハンカチを瞳に当てながら、立ち上がって結子にぺこりとお辞儀をした。
「祐里さん、いらっしゃいませ。美月さん、柾彦の母の結子でございます」
 結子は、落ち着きのない柾彦と泣いている美月を交互に見つめて、この場の状況の理解に苦しんでいた。
「お母さま、お見合いの日に家を出て、柾彦さまの元へ参りました。私には柾彦さましか頼る方がいないのに、祐里さんという婚約者がいらしたのですね」
 美月は、再び、大粒の涙を零した。驚く結子に柾彦は、大きく首を横に振った。理解に苦しみながらも結子は、柾彦の態度で状況が読めてきた。それから、ゆっくりと美月に目を留めた。柾彦を頼ってきた美月がいじらしく思えた。
「まぁ、びっくり。そんなに泣いては、可愛いお顔が台無しですわ。柾彦さんのことをこれほどに慕ってくださって、母として嬉しいばかりです。お父さまやお母さまが心配されてございましょうが、折角いらしたのですから、ゆっくりお話をいたしましょう」
「母上、それは」
 柾彦は、母の対応に驚いていた。
「柾彦さん、女性を泣かせるなんて殿方のなさる事ではございませんわ。すぐに美月さんを追い返しても何も解決いたしません。美月さんが落ち着くまで、いていただきましょう。そうと決まれば、美味しいケーキを皆でいただきましょうね」
 結子は、美月に優しく微笑んで、ケーキの箱を抱えて台所へ向かった。
「おばさま、お手伝いをいたします」
 祐里は、おはぎの重箱を抱えて、結子の後ろに続いた。
 柾彦は、美月と結子の波長に巻き込まれたように感じていた。六つ下の妹の志子(ゆきこ)は、美月と同い年で、この秋に嫁いだばかりだった。志子を嫁に出して平気な顔をしていた結子だったが、やはり淋しさを感じていたのだろうか。好き嫌いをはっきりさせる結子が、美月を追い返さなかったことを不思議に思っていた。結子は、あの祐里を抱きしめた日、なにも気付かないそぶりを見せながら、やはり、自分の祐里への恋慕に気付いたのだろうか。柾彦は、結子のこころの内を推量しながら、今まで教授の娘としか認識していなかった美月を女性として改めて見つめた。不自由なく育ち、自己主張をしっかりと表現出きる女性。そのような女性は、大学時代にいくらでもみてきた。しかし、柾彦の求めている女性ではないような気がしていた。
「祐里さん、紫乃さんのおはぎですね。ありがとうございます。それにしても、柾彦さんも隅におけませんね。柾彦さんには、押しかけ女房がお似合いなのかもしれませんわ」
 結子は、祐里から重箱を受け取り、笑顔を見せながら、居間の様子を覗った。

夕方になり、美月は『今日のところは家に帰って教授と話し合うように』と柾彦に説得され、祐里を迎えに来た車に同乗して、後ろ髪をひかれる想いで桜川の駅に向かった。
「祐里さんは、柾彦さまとは幼馴染みなのですか」
 美月は、柾彦がずっと祐里に恋して過ごしてきたことを感じていた。柾彦の視線は、いつも祐里に注がれていた。それに結子も、祐里に好感を抱いているのが感じられた。そして、祐里は、その場に然るべく存在していた。
「柾彦さまとは、十六の時にはじめてお会いしました。それからは、何時も優しく見守ってくださる大層頼もしいお方でございます」
 祐里は、一途な美月の強い想いを感じていた。
「私は、はじめてお会いした時から、柾彦さまが好きになりました。でも、柾彦さまは、私を教授の娘としか見てくださらなくて。片思いなのに押しかけてきてしまいました」
 祐里の前では、美月は、自身が色あせていくように感じていた。
「さようでございましたの。ご自分のお気持ちを大切になさって、お父上さまとよくお話し合いをされるとよろしいかと存じます。美月さまのしあわせをお祈り申し上げます」
 祐里は、優しい微笑を湛えて、美月の今後のしあわせを願った。
桜川の駅で、美月は、祐里に礼を言い、都への帰途についた。
 美月は、帰りの列車の中で、違和感を覚えていた祐里の左の薬指に光る指輪を思い出して、桜河という名字から、数年前に都で人気を博しながら、里の娘と結婚した桜河光祐の妻だということに気付いた。そして、美月を帰す為に柾彦が嘘を付いた事を真摯に受けとめた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 3

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   恋慕

 毎週水曜日の午後、祐里は、鶴久病院の入院患者を見舞う奉仕活動をしていた。以前に祐里が知人の見舞いに訪れた病室で『祐里さまが病室にいると、気分がよくなり痛みが和らぐようだ』という入院患者の声を聞きつけた結子が、試しに祐里に依頼したところ、不思議なことにどの病室からも歓迎されたのだった。祐里も入院患者が楽しみにしているのを知り、喜んで見舞っていた。
「ご機嫌いかかでございますか」
 祐里は、病室を廻り、手を握ったり、痛いところを撫でたりして、ひとりひとりに優しく話しかけた。祐里の慈悲のこころは、入院患者を元気付け、しあわせな気分にしていた。その評判は、口から口に広がり、鶴久病院は、ますます、受診者が増えていた。
祐里は、見舞いを終えて、副院長室前の廊下で柾彦に出会った。
「姫、お疲れさま。珈琲をご馳走しますよ」
 白いワンピース姿の祐里は、病院の廊下に差し込む秋の和かな陽射しに輝いていた。柾彦は、昨夜から急病の患者にかかりきりで、心身ともに疲れていた。杏子から結婚話を突かれたことも影響してか、こころが祐里の優しさを求めていた。
「柾彦さま、お疲れさまでございます。お心遣いありがとうございます」
祐里は、柾彦の後から副院長室に入って、静かに扉を閉めた。突然、柾彦は、我を忘れて力強く祐里を抱きしめた。祐里は、消毒液の匂いに包まれた。柾彦は、祐里の温もりと甘い香りに包まれながら、しあわせを感じていた。
「柾彦さま、何かございましたの」
 祐里は、柾彦の今までにない行為に驚きながらも、母のような優しい声で柾彦を包んだ。柾彦からは、心身の疲労と激しい恋慕が感じられた。
「姫、しばらくの間、このままでいてもいいですか」
柾彦は、祐里の耳元で囁き、自分の行為を恥じながらも(姫を離したくない。今だけでもぼくの姫なのだから)と強く思っていた。窓の外では、桜の樹が心配して、秋風にさわさわと葉音をたててそよいでいた。
「はい」
 祐里は、柾彦の心労を感じ、柾彦の背中に手を回して (いつも、優しく守ってくださる柾彦さま。いかがされたのでございますか)とこころの中で呟いた。祐里は、柾彦が大好きだった。光祐への愛とは全く違う愛情を感じており、失いたくない存在だった。柾彦が自分を好いていることは感じていた。勿論、光祐の妻として、それに応えることは出来なかった。それでも、柾彦との楽しい時間を失いたくはなかった。祐里は、自分のその想いが柾彦を苦しめていることを改めて感じ(柾彦さまの優しさに甘えてばかりの私がいけないのでございます)と自身を責めていた。
 柾彦は(このまま時間よ止まっておくれ)と強く念じていた。
その時、扉が叩かれた。
「はい。どうぞ」
 柾彦は、驚いて反射的に祐里を離し、返事をした。
「祐里さん、こちらでしたのね。お茶にお誘いしようと思って捜しておりましたのよ。柾彦さんも一段落したらいらっしゃい」
 結子は、柾彦の動揺した顔に気付きながらも、明るく祐里に声をかけた。
「はい、おばさま。お誘い、ありがとうございます。柾彦さまとのお話が終わりましたら、すぐに伺います」
 祐里は、落ち着いた笑顔を結子に向けた。
「それでは、お茶の準備をして待っていますね」
 結子は、すぐに扉を閉めて廊下へと消えた。廊下に出ると、しばらくの間、壁に凭れて、柾彦の一途さを不憫に思い、柾彦の祐里に対する恋慕を憂慮していた。
 柾彦は、扉が閉まると同時に長椅子に崩れるように座り込んで、両手で顔を蓋った。
「柾彦さま。いつもお元気な柾彦さまがそのようなお顔をなさると、私も元気がなくなってしまいます。柾彦さまは大層お疲れでございますのね」
 祐里は、長椅子の隣に座って、柾彦をふんわりと優しく抱きしめた。柾彦の激しい恋慕と祐里の穏やかな慈悲のこころが交錯して、二人を切なく包んでいた。そのうちに祐里の慈悲のこころが、柾彦の疲れたこころをゆっくりと癒していった。
「姫、大変失礼な事をしました。本当に申し訳ない。どうか許してください」
「柾彦さま、私は何も気にしてございません。大丈夫でございますね。おばさまがお待ちでございますので、お茶に参りましょう」
しばらくして、柾彦は、我に帰ると祐里に深く頭を下げて非礼を詫びた。そして、祐里に促されて、自宅で結子と共にお茶の時間を過ごした。

 祐里が鶴久病院を出ると、珍しく、学校帰りの優祐が佇んでいた。
「母上さま。そろそろ、お帰りの時間ではないかと待っていました」
 優祐は、学校が終わると、急に胸の内が葉の擦れるようなさわさわとした気分に陥り、祐里のことが気になって、通学路から外れた鶴久病院に足を向けた。
「優祐さん、ありがとうございます。ご一緒に帰りましょう」
 祐里は、微笑んで、優しい母の表情を優祐に向けた。優祐の気遣いが嬉しかった。優祐は、成長期に入り、いつの間にか祐里と同じくらいの背丈になっていた。祐里は、優祐と並んで、桜川の土手沿いの道を歩いた。
「母上さまは、柾彦先生と友だちだから、病院のお手伝いをされているのですか」 
 優祐は、微かに消毒液の匂いの残る祐里に思いきって問いかけた。大好きな祐里を柾彦や入院患者に横取りされたように感じながらも、そのように思うこころの狭い自分を恥じていた。
「優祐さんは、柾彦先生を好きでございますか」
「はい。お会いすると、楽しいお話をたくさんしてくださって、元気付けられますので大好きです」
 祐里は、微笑みながら優祐に問い返した。優祐は、青空のように清々しい柾彦を思い出していた。
「私も柾彦先生にいつも元気をいただいてございます。柾彦先生は、お友だちと申し上げるよりも、兄妹のような・・・・・・優祐さんにとっての祐雫さんのような感じでございますね」
 祐里は、優祐に答えながら、自身の胸にも言い聞かせていた。
「それに、病院のお手伝いをさせていただいているのではございませんのよ。ただ、入院されている方とお話をさせていただいてございますの」
 優祐は、自身の狭いこころを反省し(母上さまは、神さまのようなお方です)と祐里の慈悲深いこころに感じ入っていた。

 その夜、子どもたちが就寝してから、光祐は、祐里の横に座って優しく声をかけた。
「祐里、何かあったの」
「いいえ・・・・・・何もございません。光祐さま、祐里は、いつもと違うてございますか」
 祐里は、普段通りに振る舞っていたつもりが、光祐に気付かれたことに困惑していた。
「いや、いつもの祐里だよ。何もなければそれに越したことはないけれど、ひとりで辛い事を抱え込む性分の祐里のことだから、心配事でもあるのかと少し感じたものだから。ぼくの大切な祐里だもの、誰よりも祐里のことは分かっているよ。ぼくは、いつでも祐里を信じて見守っているから、祐里が信じる道を行きなさい」
 祐里は、静かに光祐の肩に頭を擡げて寄り添った。光祐の深い愛情が感じられた。
「祐里は、光祐さまのお側に居させていただくだけで、しあわせでございます」
 祐里は、こころがしあわせで満たされていくのを感じていた。
「ぼくのしあわせは、祐里がしあわせでいてくれることだよ」
 光祐は、それ以上は何も追及せずに、祐里の肩に手をまわして力強く抱きしめた。祐里は、光祐の愛に包まれて自信を取り戻していた。(光祐さま、祐里は自身を信じて、そして、柾彦さまを信じて、いままで通りのお付き合いをして参ります)とこころに誓った。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 2

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   杏子〈きょうこ〉

 銀杏通りの並樹が色付き始めていた。
 柾彦は、久しぶりに銀杏亭で昼食をとることにした。銀杏亭は、幼馴染みの林杏子が婿を取って、父と共に洋食レストランとして、名をあげていた。店内は、落ち着いた茶色で統一され、銀杏色の明るいテーブルクロスが挿し色として使われていた。柾彦が扉を開けると、杏子がすぐに気付いて、笑顔で近寄ってきた。
「柾彦先生。いらっしゃいませ。特別席にご案内します」
 昼食時の店内は、客で賑わっていた。杏子は、衝立の奥の特別席へと柾彦を案内した。中庭の大きな銀杏の樹に面した大窓側の特別席は、店内の賑わいから離れてゆったりとした空間を演出していた。
「特別席は、ぼくの貸し切りみたいだけれど、相変わらず、賑わっているね」
 柾彦は、椅子に腰かけて、杏子に笑顔を向けた。
「それは、勿論、看板娘がいいからに決まっています。お時間がおありなら、貸し切りのお客さまには、お昼のおまかせコースがお勧めです」
 杏子は、胸を張って柾彦に微笑むと、メニューを開いて『おまかせコース』を指し示した。
「それにするよ」
「かしこまりました。少々、お待ちくださいませ」
 杏子は、厨房へ消え、すぐに、おしぼりと水の入ったグラスを持ってきた。
「柾彦先生、そろそろ、お見合いでもされて、結婚なさいませんか」
 杏子は、急に真面目な顔になって、柾彦に問いかけた。
「杏子は、結婚してしあわせそうだね」
 柾彦は、杏子の不意をついた言動に戸惑っていた。
「ええ、しあわせですよ。結婚してから徐々に築いていくしあわせもあるのですもの。柾彦先生は、あまりに真面目に考え過ぎていらっしゃるのですわ。一途ですものね」
 杏子は、意味ありげに『一途』を強調した。
「ただ結婚に縁がないだけだよ」
 柾彦は、慌てて訂正した。
「あら、杏子は、子どもの時からずっと柾彦先生が好きだったのに、全然気付かずにどこかのお姫さまを一途に想っていたのは誰かしら」
 杏子は、挑戦的な瞳で、柾彦を見つめた。
「杏子は、ぼくのことが好きだったの」
 柾彦は、不思議な顔をして、杏子を見上げた。考えたこともなかった。
「ええ。今の今まで、お気づきではなかったでしょ。本当に柾彦先生は、女心が少しもわからないのですから。まぁ、そこが柾彦先生の魅力でもあるのだけど」
「まるで、ぼくが鈍感な男みたいじゃないか」
「あら、鈍感に決まってますわ」
 杏子は、幼馴染みの柾彦との会話を楽しんでいた。柾彦は、小学校の入学祝に父母と妹と銀杏亭で食事をした日から杏子とは顔見知りになり、こころ置きなく話せる間柄だった。それ以来、いつでも口が達者な杏子から言い包められていた。
「杏子には敵わないな」
 柾彦は、降参して手を挙げて見せた。
「私のことはさて置き、手の届かない姫を追いかけるよりも、現実をご覧になられてください。柾彦先生を好いてくださる方は、沢山いらっしゃるはずでございますよ。今度ご紹介しましょうね。では、銀杏亭おまかせの世界一美味しいコースをお持ちします」
 杏子は、にっこり笑って、厨房へ消えた。柾彦は、結婚について考えてみた。(これから先、結婚したい女性に巡り合えるのだろうか・・・・・・)考えれば考えるほど、現実味がなかった。こころに浮かぶ女性は、唯一祐里だけだった。手が届かないと分かっていても時々祐里と会って話ができるだけで、柾彦は、しあわせだった。
 その日の午後、杏子は、銀杏亭へ生花の生け込みに訪れた萌を「待っていました」とばかりに捉まえて相談を持ちかけた。
「萌さまのお弟子さんで、柾彦先生とお見合いをされる方は、いらっしゃらないかしら。お節介をやかなければ、柾彦先生のことだから、このまま独身を通しそうなのですもの。素敵な殿方なのにもったいのうございましょう」
 杏子のお節介は、子どもの頃から変わらなかった。
「柾彦先生とお似合いの方でございますか。柾彦先生がその気になられたのでしたら、善は急げでございますわ」
 萌は、独身の弟子たちの顔を思い浮かべていた。
「その気にはなられていないのですが、こちらから策を講じて、その気になっていただきたくて・・・・・・お好みは、祐里さまのように慎ましくて可憐な方でございますよ」
 杏子は、萌に念を押した。
「祐里さまは、母になられても昔のまま可憐で、光祐お兄さまは、相変わらずくびったけでございますし、柾彦先生にとっては、永久に理想の姫でございますものね。女好きの春翔でさえ、祐里さまの前に出ると見惚れて何も言えなくなってしまいますのよ」
萌は、声をたてて笑った。そして、一人の弟子の顔を思い出した。
「杏子さま、私に考えがございます。おまかせくださいませ」
萌は、胸を叩いて笑顔で引き受けた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 1

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     柾 彦 の 恋


  追憶

 鶴久柾彦は、車窓から夕暮れの秋桜の川原を眺めていた。
 茜色に染まる秋桜は、愛しい初恋の姫・桜河祐里の笑顔と重なる。
 儚げでありながら、強い意思を持った気高き姫。
 守り人として側に居ながら、手の届かなかった姫。
 それでも、同じ時間を共有できるだけで嬉しかった。
 その姫も、今は、幼き頃から慕い続けていた光祐さまと結婚して桜河家の若奥さまとなり、双子の母となっていた。
 手が届かないと分かっていても、恋して止まないのは姫だけだった。
 初めて会ったのは、図書館。姫は、一番高い書架に背伸びして本を引き出していた。その横顔の聡明で美しかったこと。一目で恋をした。
 次に会ったのは、銀杏亭の昼食会。女学生の中で一際可憐で目を惹いた。それでいて慎ましく側に居るだけでしあわせな気分にしてくれた。
 そして、新緑の美術館。陽だまりの中で白いワンピースが似合って、よそ風に揺れる黒髪がきらきらと輝いていた。『柾彦さま』と澄んだ瞳で見上げられて、名前を呼ばれる度に姫の美しさに言葉を忘れて見惚れていた。
 真珠晩餐会では、榛文彌の非礼な言動に遭いながらも、毅然とした態度を保っていた姫。怖くて震えながらも、決して自分には、涙を見せなかった強き姫。
 夏の強い陽射しの中では、光祐さまの力強い愛に抱かれて安心していた姫。二人の側に居ることが喜びでもあり哀しみでもあった。
 秋桜の花咲く川原では、まるで天女が羽衣を纏うように佇んでいた美しき姫。茜色に染まる美しい横顔を見つめて、思わず愛してしまいそうになる気持ちを懸命に押さえた。
 姫から毎年贈られる桜の落ち葉は、木箱の中に大切に保存した。
 十八の春にめでたく光祐さまと婚約し、ますます、美しく輝いた姫。手の届かない女性だと解っていながら、柾彦のこころは恋する気持ちで溢れていた。
 それからも、高等学校を卒業するまでの一年間、柾彦は、ずっと守り人として側で姫を見守り続けた。
 大学時代は、離れた里から「素晴らしいお医者さまになられますようにお祈り申し上げます」と手紙で励ましてくれた姫。
 柾彦は、光祐さまの妻となった現在でも、姫以外の女性は考えられなかった。

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 10

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
  陽光

お屋敷の桜の樹が今年も華やかに満開の時期を迎えた暖かな春の午後、祐里は、五歳になった双子の優祐と祐雫と桜の樹の下で過ごしていた。奥さまは自室の窓から、紫乃は台所の窓から、その様子を微笑ましく見守っていた。
「優祐ばかり、母上さまのお膝に座ってずるうございます」
 祐里の膝の上には、そこが居場所のように何時も優祐が陣取っていた。
「祐雫は、父上さまのお膝でしょう。毎日、お仕事に連れて行っていただいてはどう」
 光祐さまが家に居る時は、祐雫は、光祐さまの膝の上に座っていた。
「祐雫さん、こちらへいらっしゃい。おはなしをして差し上げましょうね」
 祐里は、にっこりと微笑んで祐雫に手を差し出した。膨れっ面の祐雫は、祐里の手に飛びつくと横にぴったりと寄り添って座った。祐雫は、祐里の香りに包まれてしあわせな笑顔を浮かべた。
「むかし、むかし、桜河のお屋敷に旦那さまが、住んでおりました。ある日のこと、旦那さまは、桜山に出かけて、桜山から折れた一本の桜の枝を拾ってきて庭に植えました。毎日、毎日、旦那さまは桜の樹に話しかけては水をやりました。すると、桜の樹はぐんぐん大きくなって、毎年春になると綺麗な花を咲かせるようになりました。そのうち、旦那さまは桜池のお祭りで美しい娘に出合いました。娘は旦那さまの奥さまになって、旦那さまと一緒に桜の樹を大切にして暮らしました。桜の樹は喜んで、いつまでもいつまでも、桜河のお屋敷を守ってくださいました。とっぺんはらりのひらひらふるる」
 祐里のはなしに優祐と祐雫は、目を輝かせながら聞き入っていた。
「母上さま、その桜の樹が、この樹でございますか」
 祐雫は、桜の樹を見上げて祐里に問いかけた。
「さようでございますよ。曾おばあさまが、よく父上さまと私にこのおはなしをしてくださいました。優祐さんも祐雫さんも桜の樹を大切にいたしましょうね」
 祐里は、濤子おばあさまが幼い光祐さまと自分をこの桜の樹の下で優しく抱きしめてくれたように優祐と祐雫を一緒に抱きしめた。
「ぼくは、母上さまの次に桜の樹が大好きです」
 優祐は、祐里の胸の中で桜の甘い香りに包まれて呟いた。
「祐雫だって」
 祐雫も負けじと大きな声を出して、祐里の胸に顔を摺り寄せた。
「ありがとうございます。優祐さん、祐雫さん。桜の樹が枝を揺らして喜んでございますよ。私は、可愛い優祐さんと祐雫さんが大好きでございます」
 祐里は、満開の桜と共にしあわせいっぱいだった。
 
 月日は廻り、光祐さまは、三十二歳の桜の季節を迎えていた。光祐さまが桜河電機に入社して十年が経ち、工場長を経て、現在では副社長としての貫禄を示していた。
 土曜日の春の夜、光祐さまは、家族を連れて都の音楽会に出かけた。音楽ホールのロビーで取引先の重役と顔を合わせた光祐さまは、優祐と祐雫をロビーに待たせて祐里を伴って席を立った。
「祐雫、手洗いに行ってくるけれど、ひとりで大丈夫ですか」
「ええ、優祐こそ、迷子にならないように」
 優祐は、祐雫を気遣いながら手洗いに席を立った。祐雫は、双子の優祐に大人びて注意して、ロビー中央の熱帯魚の大きな水槽を見つめていた。
「もしかして、桜河の・・・・・・」
 突然、白髪の紳士が声をかけてきた。
「はい、桜河祐雫と申します」
 名前を呼ばれて、祐雫は、椅子から立ち上がり礼儀正しく会釈を返した。
「母上さまは、祐里さんですか」
 紳士は、驚愕の表情で祐雫に問いかけた。
「はい。おじさまは、母をご存知でございますか」
 祐雫は、はじめて会う紳士を見つめて(どなたなのかしら)と頭の中で考えていた。
「ずっと以前に、父上さまと母上さまにお会いしたことがあります。祐雫さんといわれたね、母上さまにそっくりですね」
 榛文彌は、かつて恋した祐里の子と巡り合った。こころの枯れ木が一斉に芽吹いたように感じられ心臓が高鳴っていた。目の前に立っている祐雫は、はじめて祐里を見初めた年頃くらいだろうか。口元の愛らしさが祐里にそっくりだった。
「さようでございますか。どちらかと申しますと、祐雫は、父に似ていると言われます」
 祐雫は、紳士的な物言いの文彌にこころを許して気兼ねなく受け答えをした。
「そう、父上さまに」
 文彌は、祐雫の中に光祐さまの存在を感じた。真っ直ぐに瞳を見つめて物怖じなく話す姿は、生まれながらに桜河の血筋をひく光祐さまそのものだった。
「おじさまは、お一人でございますか」
「うむ、一人だよ」
 文彌は、小鳥が囀るように話す祐雫の愛らしい口元を見つめてしあわせな気分に浸っていた。文彌は、十数年近く自ら閉ざしていた感情の扉に鍵を差し込んで開錠した。
「父上さまが戻っていらしたわ。おじさま、ここでお待ちくださいませね。父上さまと母上さまを連れて参ります」
 祐雫は、光祐さまの姿を見つけ駆け寄って行った。文彌は、祐雫の後姿を追いながら、光祐さまと祐里に気付いてロビーの柱の陰に身を隠した。
「祐雫、待たせたね。話が長引いてしまってすまなかった。優祐はどうしたの」
 光祐さまは、愛らしく駆けて来た祐雫の頭を撫でた。
「お手洗いでございます」
「一人で淋しくなかったかね」
「あちらのおじさまがお相手をしてくださいましたので、大丈夫でございました」
 祐雫は、文彌と今まで話をしていた椅子を振り返った。
「どの方」
 光祐さまは、辺りを見回した。
「あら、いらっしゃらない。ホールに入られたのかしら。父上さまと母上さまのお知り合いと申されてございましたので、お目にかかって頂きとう存じましたのに」
 祐雫は、狐に抓まれた気分になっていた。
「どなただろうね。祐雫、知らない人にお菓子をあげるからって言われて、気軽に付いて行かないでくださいよ」
 光祐さまは、祐雫を優しく諭した。
「本当にどなたさまでございましょう」
 祐里は、心配顔で辺りを覗ったが、見知った顔は見当たらなかった。
「そのように怖いおじさまではございませんでしたし、祐雫は、お菓子に釣られる子どもではございません」
 祐雫は、声をたてて笑った。光祐さまと祐里は、一緒に微笑みながら一抹の不安を感じていた。文禰は、立派になった光祐さまとしあわせに包まれている美しい祐里を哀愁の思いで、柱の陰からそっと窺っていた。
「父上さま、母上さま、祐雫、お待たせしました。遅くなって申し訳ありません」
 優祐が慌てて走って戻ってきた。
「そろそろ、開演の時間だ」
 光祐さまは、家族の背中を押して音楽ホールに入った。その姿を背にして文彌は、音楽会の鑑賞券を傍らの屑篭に捨てるとロビーを後にした。闇夜に包まれながら文彌は(もし、あの時に祐里を我がものにしていたならば、私の横には祐里がいた筈だ)と思い、花冷えの寒さに外套の襟を合わせながら(しかし、祐里を私の妻にしていたならば、果たしてあのようにしあわせな微笑を湛える女性にできただろうか)と苦笑して考えていた。

 それから数日後の暖かな午後に執事の遠野が副社長室の扉を叩いた。
「失礼いたします。お約束をなされておりませんのでお断り申し上げたのですが、銀行の方が是非とも、坊ちゃま・・・・・・失礼いたしました、副社長にお目にかかりたいとのことでございますが、どういたしましょうか」
 遠野は、光祐さまを幼少の頃から「坊ちゃま」と呼び親しんで来たので、口を滑らせて赤面し、少々困った顔を光祐さまに向けた。
「銀行の方ならば、経理部か社長に伝えておくれ」
 光祐さまは、企画書から遠野に視線を移した。遠野は、総合職では社長の右腕の役割を担っており、光祐さまも学生時代に別邸で世話になって信頼をおいていた。
「社長は、商工会に外出中でございます。それに取引先の銀行の方ではございません。是非とも副社長にと申されております」
「営業で来られたのであれば、尚更経理部か社長でなければ・・・・・・何処の銀行なの」
 光祐さまは、腕時計に目をやり企画会議の時間が迫っているのを確認した。
「予定が詰まっていると何度もお断り申し上げたのですが、榛銀行本店営業部長の榛文彌様でございます」
 遠野は、十数年前の身辺調査を思い出して恐縮しながら光祐さまに名刺を差し出した。
「榛・・・・・・わかった、ここに通しておくれ」
 光祐さまは、複雑な気分でその名刺に目を走らせた。祐里の見合い相手として突然現れた時の不敵な勝ち誇った笑みを思い出していた。遠野は、光祐さまに恭しく一礼すると、間もなく、榛文彌を案内して戻って来た。
「突然に伺いまして、申し訳ありません。本店に十数年ぶりに戻って参りましたので、ご挨拶に伺いました」
 扉を入るなり文彌は、白髪の頭を深々と下げて丁寧にお辞儀した。光祐さまは、文彌の落ち着いた態度に接して違和感を覚えていた。祐里と見合いをした時の大蛇のような敵意を剥き出しにした激しさはどこからも感じられなかった。風の便りで聞いた遭難事件からの性格の変化は、本当だったらしい。
「ご丁寧にありがとうございます。どうぞ、おかけください」
 光祐さまは、机から立ち上がると、文彌に椅子を勧めた。文彌は、桜河家の輝かしい君を見つめていた。仕立てのよい濃紺の背広姿の光祐さまは、若さと逞しさと自信を覗わせていた。正道を真っ直ぐに歩んできた清さが漲っていた。十数年前の高等学校を卒業したばかりの庇護された青さはどこにも見当たらなかった。しかし、この桜河家の君は、幼少の頃から庇護されながらも運命を手中にする強さを内に秘めていた。
 遠野が紅茶を運んできて、一礼するとすぐに部屋から出ていった。
 しばらくの間、沈黙が副社長室を占めていた。文彌は、紅茶から立ち上る湯気が部屋の空気に溶け込んでいく様子を静かに見つめていた。そして、意を決して口を開いた。
「ご立派な後継ぎに成長されましたね。随分と迷いましたが、一度、お詫びに伺いたいと存じまして、本日参りました。私も若かったとはいえ、何時ぞやは大変失礼をいたしました。特に奥さまには誠に申し訳なく思っております」
 文彌は、椅子から立ち上がって深々と頭を垂れた。光祐さまは、文彌の突然の来訪と恭しい態度に驚いていた。
「榛様、どうぞ、頭をあげてください。突然のご来訪でどのようにお答えしたらよろしいのか、正直なところ考えあぐねています。ただ、過ぎたことは、過ぎたこととして水に流すこともできましょう。私も祐里も現在を大切に暮らしておりますので」
 光祐さまは、現在のしあわせに思いを巡らし、愛しい祐里を想いながら優しい微笑みを湛えた。文彌は、その微笑を受けてこころが洗われていくように感じていた。
「十数年前、酒宴の帰りに行ったつもりのない山で遭難しましてね。一晩、山中でさ迷ったのですが、それはもう言葉に表せないほどの怖ろしい思いをしました。樹木が襲いかかって来ましてね。一晩中、走って逃げ回りました。逃げても、逃げても追いかけられて、捜索隊に発見された時には、麓の桜林でこのように白髪になって気を失っておりました。たぶん、罰が下ったのでしょうね。お恥ずかしいことですが私のこころの闇が妄想となって現れたのかもしれません。突然伺って妙な話をいたしまして、申し訳ありません」
 光祐さまの優しい笑顔に包まれて、文彌は、思わず恐怖の体験を話していた。話し終えると青ざめた顔色で身震いしながら苦笑した。
「そのようなことがあったのですか。さぞ辛かったことでしょうね。しかし、榛様、これからは、きっと、よい方に向かいますでしょう」
 光祐さまは、既にこころの中で文彌を許していた。そして、優しい祐里のことだから、丁重に詫びている文彌を許すだろうと確信していた。
「本日は、意を決して伺ってよかったです。これから先、桜河さまが必要とあれば、榛銀行は、協力を惜しみません。貴重なお時間を私の為に割いていただいて誠にありがとうございました。失礼いたします」
 文彌は、椅子から立ち上がって、再び、深々とお辞儀をすると部屋を辞して行った。光祐さまは、玄関先まで文彌を送って出た。
「桜、本当にありがとう。何時何処にいても守護してくれているのだね。これからもよろしくお願いするよ」
 玄関前の桜の並樹が午後の陽光を受けて、満開の花をそよ風に靡かせてその隆盛を物語っていた。光祐さまは、青空に輝く満開の桜にこころから感謝の気持ちを伝えた。桜の並樹は、光祐さまの言葉に春の溢れる陽光の中できらきらと輝いて応じた。

〈 桜物語 桜の章 完 〉




  ***みなさまが気がかりな柾彦さまのその後につきましては、
  「柾彦の恋」で再びお目にかかりとう存じます***
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