笙子〈しょうこ〉
笙子は、忘れ物のように華奢な身体を小さくして、ちょこんと後部座席に座っていた。その姿が柾彦にはなんとも可愛らしく感じられた。
「鶴久先生、お仕事の途中に送っていただきまして、申し訳ございません」
俯き加減のまま、笙子は、小さな声で呟いた。
「柾彦でいいですよ。帰り道だから、気にすることはありません。笙子さんは、東野まで帰るの」
柾彦は、笙子を寛がせようと明るい声で話しかけた。
「はい」
笙子は、思いがけず柾彦と二人だけになり、恥ずかしくてどきどきしていた。今まで殿方と二人だけになることなどなく、まして車内の空間は、笙子の高鳴る鼓動が柾彦に聞こえてしまいそうに接近していた。
「この時間だとあと一時間近く、列車が来ないはずですよ。一度、病院に戻って急患が無ければ、このまま、東野まで送りましょう」
柾彦は、笙子の返事を待たずに、病院の方角へ曲がった。
「それでは、柾彦さまにご迷惑でございます。私は、待つのには慣れてございますので、ご心配なさらないでくださいませ」
笙子は、驚いて、申し訳なさで尚更瞳を潤ませた。
「今日は気持ちのいい晴天なので、気分転換に車を走らせてみたくなっただけで、笙子さんを送っていくのはついでですから、気にしないで」
柾彦は、病院玄関の車寄せに駐車して、受付係の倭子(しずこ)に一時間ばかり出てくることを伝えると、白衣と上着を交換して車に戻ってきた。笙子は、申し訳なさそうに後部座席に静かに座って待っていた。
「お待たせしました。急患は、ありませんでした」
柾彦は、運転席に座ると振り向いて、笙子が打ち解けるように、元気な笑顔で声をかけた。笙子は、白衣を脱いだ柾彦に少し寛いだものを感じた。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
笙子は、瞬きをしながら柾彦の瞳を見つめて、少しだけ微笑んだ。柾彦は、笙子と一緒に居ることでほんのりとした気分を味わっていた。車内には和やかな空気が流れていた。
「ぼくには、六つ下の妹がいましてね。この秋に嫁いだのですが、笙子さんは、幾つくらいですか。あっ、女性に歳を聞いては失礼でしたね」
柾彦は、妹の志子(ゆきこ)と笙子を比べていた。志子は、母の結子によく似た明るく活発な性格だった。
「志子さまでございますね。同い年でございます。女学校では組が違っておりましたが、志子さまは、はきはきとされてございましたので存知上げております」
笙子は、柾彦が志子にとって、自慢の兄ということも知っていた。
「志子と同じ年だったのですか。桐生というと呉服屋の桐生屋さんなの」
市松人形のようにしっくりと着物が馴染んでいる笙子を車内の鏡で見ながら、柾彦は問いかけた。
「はい、さようでございます」
笙子は、姿勢を正したまま静かに頷いた。
「どうりで着物がしっくり似合っているわけですね。いつも、着物を着ているの」
対向車を避けるために片側に停車して、柾彦は、鏡越しの着物姿の笙子をゆっくりと見つめた。柾彦は、日常的に洋装の結子と生活しているので、着物姿の笙子が新鮮に感じられた。
「はい。物心ついた頃からでございます」
笙子は、柾彦の質問に答えながら、少しずつ、柾彦に打ち解けていった。
柾彦は、偶然に出合った笙子とこれほど会話が出来るとは思ってもみなかった。それどころか、東野に近付くにつれて、笙子のことを愛しいとさえ思っている自分に驚いていた。こころなしか車の速度がゆるやかになっていた。
「笙子さん、着きましたよ」
柾彦は、桐生屋の手前で車を停め、後部座席の扉を開けて、笙子を降ろした。
「柾彦さま、本日は、誠にありがとうございました。お礼と申しましては失礼かと存じますが、華道展のご招待券でございます。よろしゅうございましたら、是非、お母さまとご一緒にいらしてくださいませ」
笙子は、巾着袋から華道展の招待券を二枚取り出して、柾彦に手渡した。そして、深々とお辞儀をして、柾彦に笑顔を向けた。
「こちらこそ、楽しいドライブでしたよ。また、縁があるといいですね」
柾彦は、爽やかな笑顔を笙子に向け、車を発進させた。柾彦の車が角を曲がるまで、笙子は、その場に佇んで見送りながら、色白の頬を紅色に染め、胸が高鳴るのを感じていた。柾彦は、角を曲がると腕時計に目をやり、思いのほか時間が経っていることに気付き、慌てて車の速度を上げて帰路に着いた。笙子は、しばらく、柾彦の車が去った方角を見つめて佇んでいた。偶然の巡り合わせで、初恋の感情が芽生えていた。今まで、笙子にとって、結婚相手は、父が決めるものとばかり思っていた。現に父は、口には出さなかったが、桐生屋の奉公人の倉三郎と笙子を結婚させて、暖簾分けをするつもりでいるらしかった。
「お嬢さま、お帰りなさいませ。車でお帰りでございましたか」
倉三郎が、車の音を聞きつけて店先に顔を出した。
「ただいま帰りました。萌先生のお知り合いの方が、お送りくださいましたの」
笙子は、紅潮した顔を倉三郎に気付かれないように俯き加減で返答した。
「お嬢さま、お荷物をお持ちいたします」
倉三郎は、笙子の花包みを受け取った。今の今まで、笙子は、倉三郎と結婚することに、何の疑問も持ち合わせていなかった。父の意向は絶対的なもので、倉三郎は働き者で客受けもよく、何よりも笙子に優しかった。けれども、笙子は、この瞬間、柾彦に恋をした自分に気が付いた。
翌週の日曜日に、東野の久世華道会館で、盛大な華道展が催された。柾彦は、母を誘って、笙子に会う為に華道展に出かけた。
久世春翔と萌は、来客の応対で忙しく会場を飛び回っていた。
柾彦は、受付の後方に佇む笙子を見つけて会釈した。笙子は、柾彦の笑顔に見つめられ、恥ずかしげに俯いて、柾彦に近付いた。
「柾彦さま。いらしてくださいまして、ありがとうございます」
笙子は、丁寧に感謝の気持ちを込めてお辞儀をした。
「こちらこそ、ご招待ありがとう。母上、久世のお弟子さんで、本日ご招待してくださった桐生笙子さんです。笙子さん、母です」
柾彦は、笙子を結子に紹介した。
「はじめまして。鶴久結子でございます」
結子は、珍しく柾彦から華道展に誘われ不思議に思いながら、恋愛において堅物の柾彦から女性を紹介されるとは思いもよらず驚いていた。驚きながらも、結子は、笙子を観察していた。見事な錦秋文様の振り袖姿の笙子は、頬を染め、柾彦を恋する瞳で見つめていた。娘の志子が同級生の笙子のことを『祐里に雰囲気が似ている』と言っていた事を思い出していた。
「はじめてお目にかかります。桐生笙子でございます」
笙子は、緊張しながら、結子に深々とお辞儀をした。
「母上、笙子さんに会場を案内していただきましょう。笙子さん、お願いするよ」
柾彦は、笙子の瞳を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「はい。お母さま、柾彦さま、こちらからご案内申し上げます」
笙子は、春翔の作品から順に案内していった。
その少し後に薫子と祐里は、華道展を訪れた。
「萌さん、ご招待ありがとうございます。ご立派な作品展でございます」
薫子は、会場で忙しく動き回っている萌を見つけ、労いの言葉をかけた。
「萌さま。ご招待ありがとうございます。ご盛況で何よりでございます」
祐里は、盛況ぶりを薫子と一緒に喜んでいた。
「叔母さま、祐里さま、ご来場ありがとうございます。祐里さま、あちらをご覧になってくださいませ。お似合いでございましょう」
萌は、薫子と祐里に礼を述べ、柾彦と笙子が並んで楽しそうに話をしているところを微笑みながら指し示した。
「柾彦さまと桐生屋さんのお嬢さまでございますね。微笑ましゅうございますね」
祐里も萌同様、柾彦がしあわせそうな笑顔でいることが嬉しかった。そして、柾彦に恋の春が訪れたことを感じていた。
「柾彦さんもその気になられたようでございますね。結子さまもこれで、一安心でございましょう」
薫子は、結子の気持ちになって喜んでいた。
しばらくして、薫子は、柾彦と笙子の熱気に当てられている結子に声をかけ、恋する二人に配慮した。
「柾彦さん、私は、薫子さまとお食事をして帰りますので、ここで失礼しますね。笙子さん、ご案内ありがとうございました。是非、遊びにいらしてくださいね」
「はい、喜んで伺わせていただきます。本日はお越しくださいましてありがとうございました」
結子は、笙子に挨拶をして、薫子と祐里とともに会場を後にした。柾彦は、祐里と同じ会場にいながら、祐里の姿に気付かなかった。柾彦と笙子は、一緒に会場を回るだけで楽しく感じていた。大勢の来場者の中にあって、そこは二人だけの世界が広がっていた。
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投稿日 2008-10-06 10:48
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投稿日 2008-10-06 19:54
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