陽光
お屋敷の桜の樹が今年も華やかに満開の時期を迎えた暖かな春の午後、祐里は、五歳になった双子の優祐と祐雫と桜の樹の下で過ごしていた。奥さまは自室の窓から、紫乃は台所の窓から、その様子を微笑ましく見守っていた。
「優祐ばかり、母上さまのお膝に座ってずるうございます」
祐里の膝の上には、そこが居場所のように何時も優祐が陣取っていた。
「祐雫は、父上さまのお膝でしょう。毎日、お仕事に連れて行っていただいてはどう」
光祐さまが家に居る時は、祐雫は、光祐さまの膝の上に座っていた。
「祐雫さん、こちらへいらっしゃい。おはなしをして差し上げましょうね」
祐里は、にっこりと微笑んで祐雫に手を差し出した。膨れっ面の祐雫は、祐里の手に飛びつくと横にぴったりと寄り添って座った。祐雫は、祐里の香りに包まれてしあわせな笑顔を浮かべた。
「むかし、むかし、桜河のお屋敷に旦那さまが、住んでおりました。ある日のこと、旦那さまは、桜山に出かけて、桜山から折れた一本の桜の枝を拾ってきて庭に植えました。毎日、毎日、旦那さまは桜の樹に話しかけては水をやりました。すると、桜の樹はぐんぐん大きくなって、毎年春になると綺麗な花を咲かせるようになりました。そのうち、旦那さまは桜池のお祭りで美しい娘に出合いました。娘は旦那さまの奥さまになって、旦那さまと一緒に桜の樹を大切にして暮らしました。桜の樹は喜んで、いつまでもいつまでも、桜河のお屋敷を守ってくださいました。とっぺんはらりのひらひらふるる」
祐里のはなしに優祐と祐雫は、目を輝かせながら聞き入っていた。
「母上さま、その桜の樹が、この樹でございますか」
祐雫は、桜の樹を見上げて祐里に問いかけた。
「さようでございますよ。曾おばあさまが、よく父上さまと私にこのおはなしをしてくださいました。優祐さんも祐雫さんも桜の樹を大切にいたしましょうね」
祐里は、濤子おばあさまが幼い光祐さまと自分をこの桜の樹の下で優しく抱きしめてくれたように優祐と祐雫を一緒に抱きしめた。
「ぼくは、母上さまの次に桜の樹が大好きです」
優祐は、祐里の胸の中で桜の甘い香りに包まれて呟いた。
「祐雫だって」
祐雫も負けじと大きな声を出して、祐里の胸に顔を摺り寄せた。
「ありがとうございます。優祐さん、祐雫さん。桜の樹が枝を揺らして喜んでございますよ。私は、可愛い優祐さんと祐雫さんが大好きでございます」
祐里は、満開の桜と共にしあわせいっぱいだった。
月日は廻り、光祐さまは、三十二歳の桜の季節を迎えていた。光祐さまが桜河電機に入社して十年が経ち、工場長を経て、現在では副社長としての貫禄を示していた。
土曜日の春の夜、光祐さまは、家族を連れて都の音楽会に出かけた。音楽ホールのロビーで取引先の重役と顔を合わせた光祐さまは、優祐と祐雫をロビーに待たせて祐里を伴って席を立った。
「祐雫、手洗いに行ってくるけれど、ひとりで大丈夫ですか」
「ええ、優祐こそ、迷子にならないように」
優祐は、祐雫を気遣いながら手洗いに席を立った。祐雫は、双子の優祐に大人びて注意して、ロビー中央の熱帯魚の大きな水槽を見つめていた。
「もしかして、桜河の・・・・・・」
突然、白髪の紳士が声をかけてきた。
「はい、桜河祐雫と申します」
名前を呼ばれて、祐雫は、椅子から立ち上がり礼儀正しく会釈を返した。
「母上さまは、祐里さんですか」
紳士は、驚愕の表情で祐雫に問いかけた。
「はい。おじさまは、母をご存知でございますか」
祐雫は、はじめて会う紳士を見つめて(どなたなのかしら)と頭の中で考えていた。
「ずっと以前に、父上さまと母上さまにお会いしたことがあります。祐雫さんといわれたね、母上さまにそっくりですね」
榛文彌は、かつて恋した祐里の子と巡り合った。こころの枯れ木が一斉に芽吹いたように感じられ心臓が高鳴っていた。目の前に立っている祐雫は、はじめて祐里を見初めた年頃くらいだろうか。口元の愛らしさが祐里にそっくりだった。
「さようでございますか。どちらかと申しますと、祐雫は、父に似ていると言われます」
祐雫は、紳士的な物言いの文彌にこころを許して気兼ねなく受け答えをした。
「そう、父上さまに」
文彌は、祐雫の中に光祐さまの存在を感じた。真っ直ぐに瞳を見つめて物怖じなく話す姿は、生まれながらに桜河の血筋をひく光祐さまそのものだった。
「おじさまは、お一人でございますか」
「うむ、一人だよ」
文彌は、小鳥が囀るように話す祐雫の愛らしい口元を見つめてしあわせな気分に浸っていた。文彌は、十数年近く自ら閉ざしていた感情の扉に鍵を差し込んで開錠した。
「父上さまが戻っていらしたわ。おじさま、ここでお待ちくださいませね。父上さまと母上さまを連れて参ります」
祐雫は、光祐さまの姿を見つけ駆け寄って行った。文彌は、祐雫の後姿を追いながら、光祐さまと祐里に気付いてロビーの柱の陰に身を隠した。
「祐雫、待たせたね。話が長引いてしまってすまなかった。優祐はどうしたの」
光祐さまは、愛らしく駆けて来た祐雫の頭を撫でた。
「お手洗いでございます」
「一人で淋しくなかったかね」
「あちらのおじさまがお相手をしてくださいましたので、大丈夫でございました」
祐雫は、文彌と今まで話をしていた椅子を振り返った。
「どの方」
光祐さまは、辺りを見回した。
「あら、いらっしゃらない。ホールに入られたのかしら。父上さまと母上さまのお知り合いと申されてございましたので、お目にかかって頂きとう存じましたのに」
祐雫は、狐に抓まれた気分になっていた。
「どなただろうね。祐雫、知らない人にお菓子をあげるからって言われて、気軽に付いて行かないでくださいよ」
光祐さまは、祐雫を優しく諭した。
「本当にどなたさまでございましょう」
祐里は、心配顔で辺りを覗ったが、見知った顔は見当たらなかった。
「そのように怖いおじさまではございませんでしたし、祐雫は、お菓子に釣られる子どもではございません」
祐雫は、声をたてて笑った。光祐さまと祐里は、一緒に微笑みながら一抹の不安を感じていた。文禰は、立派になった光祐さまとしあわせに包まれている美しい祐里を哀愁の思いで、柱の陰からそっと窺っていた。
「父上さま、母上さま、祐雫、お待たせしました。遅くなって申し訳ありません」
優祐が慌てて走って戻ってきた。
「そろそろ、開演の時間だ」
光祐さまは、家族の背中を押して音楽ホールに入った。その姿を背にして文彌は、音楽会の鑑賞券を傍らの屑篭に捨てるとロビーを後にした。闇夜に包まれながら文彌は(もし、あの時に祐里を我がものにしていたならば、私の横には祐里がいた筈だ)と思い、花冷えの寒さに外套の襟を合わせながら(しかし、祐里を私の妻にしていたならば、果たしてあのようにしあわせな微笑を湛える女性にできただろうか)と苦笑して考えていた。
それから数日後の暖かな午後に執事の遠野が副社長室の扉を叩いた。
「失礼いたします。お約束をなされておりませんのでお断り申し上げたのですが、銀行の方が是非とも、坊ちゃま・・・・・・失礼いたしました、副社長にお目にかかりたいとのことでございますが、どういたしましょうか」
遠野は、光祐さまを幼少の頃から「坊ちゃま」と呼び親しんで来たので、口を滑らせて赤面し、少々困った顔を光祐さまに向けた。
「銀行の方ならば、経理部か社長に伝えておくれ」
光祐さまは、企画書から遠野に視線を移した。遠野は、総合職では社長の右腕の役割を担っており、光祐さまも学生時代に別邸で世話になって信頼をおいていた。
「社長は、商工会に外出中でございます。それに取引先の銀行の方ではございません。是非とも副社長にと申されております」
「営業で来られたのであれば、尚更経理部か社長でなければ・・・・・・何処の銀行なの」
光祐さまは、腕時計に目をやり企画会議の時間が迫っているのを確認した。
「予定が詰まっていると何度もお断り申し上げたのですが、榛銀行本店営業部長の榛文彌様でございます」
遠野は、十数年前の身辺調査を思い出して恐縮しながら光祐さまに名刺を差し出した。
「榛・・・・・・わかった、ここに通しておくれ」
光祐さまは、複雑な気分でその名刺に目を走らせた。祐里の見合い相手として突然現れた時の不敵な勝ち誇った笑みを思い出していた。遠野は、光祐さまに恭しく一礼すると、間もなく、榛文彌を案内して戻って来た。
「突然に伺いまして、申し訳ありません。本店に十数年ぶりに戻って参りましたので、ご挨拶に伺いました」
扉を入るなり文彌は、白髪の頭を深々と下げて丁寧にお辞儀した。光祐さまは、文彌の落ち着いた態度に接して違和感を覚えていた。祐里と見合いをした時の大蛇のような敵意を剥き出しにした激しさはどこからも感じられなかった。風の便りで聞いた遭難事件からの性格の変化は、本当だったらしい。
「ご丁寧にありがとうございます。どうぞ、おかけください」
光祐さまは、机から立ち上がると、文彌に椅子を勧めた。文彌は、桜河家の輝かしい君を見つめていた。仕立てのよい濃紺の背広姿の光祐さまは、若さと逞しさと自信を覗わせていた。正道を真っ直ぐに歩んできた清さが漲っていた。十数年前の高等学校を卒業したばかりの庇護された青さはどこにも見当たらなかった。しかし、この桜河家の君は、幼少の頃から庇護されながらも運命を手中にする強さを内に秘めていた。
遠野が紅茶を運んできて、一礼するとすぐに部屋から出ていった。
しばらくの間、沈黙が副社長室を占めていた。文彌は、紅茶から立ち上る湯気が部屋の空気に溶け込んでいく様子を静かに見つめていた。そして、意を決して口を開いた。
「ご立派な後継ぎに成長されましたね。随分と迷いましたが、一度、お詫びに伺いたいと存じまして、本日参りました。私も若かったとはいえ、何時ぞやは大変失礼をいたしました。特に奥さまには誠に申し訳なく思っております」
文彌は、椅子から立ち上がって深々と頭を垂れた。光祐さまは、文彌の突然の来訪と恭しい態度に驚いていた。
「榛様、どうぞ、頭をあげてください。突然のご来訪でどのようにお答えしたらよろしいのか、正直なところ考えあぐねています。ただ、過ぎたことは、過ぎたこととして水に流すこともできましょう。私も祐里も現在を大切に暮らしておりますので」
光祐さまは、現在のしあわせに思いを巡らし、愛しい祐里を想いながら優しい微笑みを湛えた。文彌は、その微笑を受けてこころが洗われていくように感じていた。
「十数年前、酒宴の帰りに行ったつもりのない山で遭難しましてね。一晩、山中でさ迷ったのですが、それはもう言葉に表せないほどの怖ろしい思いをしました。樹木が襲いかかって来ましてね。一晩中、走って逃げ回りました。逃げても、逃げても追いかけられて、捜索隊に発見された時には、麓の桜林でこのように白髪になって気を失っておりました。たぶん、罰が下ったのでしょうね。お恥ずかしいことですが私のこころの闇が妄想となって現れたのかもしれません。突然伺って妙な話をいたしまして、申し訳ありません」
光祐さまの優しい笑顔に包まれて、文彌は、思わず恐怖の体験を話していた。話し終えると青ざめた顔色で身震いしながら苦笑した。
「そのようなことがあったのですか。さぞ辛かったことでしょうね。しかし、榛様、これからは、きっと、よい方に向かいますでしょう」
光祐さまは、既にこころの中で文彌を許していた。そして、優しい祐里のことだから、丁重に詫びている文彌を許すだろうと確信していた。
「本日は、意を決して伺ってよかったです。これから先、桜河さまが必要とあれば、榛銀行は、協力を惜しみません。貴重なお時間を私の為に割いていただいて誠にありがとうございました。失礼いたします」
文彌は、椅子から立ち上がって、再び、深々とお辞儀をすると部屋を辞して行った。光祐さまは、玄関先まで文彌を送って出た。
「桜、本当にありがとう。何時何処にいても守護してくれているのだね。これからもよろしくお願いするよ」
玄関前の桜の並樹が午後の陽光を受けて、満開の花をそよ風に靡かせてその隆盛を物語っていた。光祐さまは、青空に輝く満開の桜にこころから感謝の気持ちを伝えた。桜の並樹は、光祐さまの言葉に春の溢れる陽光の中できらきらと輝いて応じた。
〈 桜物語 桜の章 完 〉
***みなさまが気がかりな柾彦さまのその後につきましては、
「柾彦の恋」で再びお目にかかりとう存じます***
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