萌〈もえ〉
霜月に入り、桜の樹の葉が茜色に染まり、静かな華やぎを見せていた。
「萌さん、こんにちは。春翔は、相変わらずですか。よろしければ、送りましょうか」
柾彦は、往診の帰りに星稜時代からの悪友・久世春翔(くぜはると)の妻・萌を見かけて声をかけた。萌は、女学校を卒業すると同時に幼馴染みの華道家・久世春翔と結婚し、一女二男の母になっていた。春翔は、久世家の一人息子、萌は、東野家の一人娘の結婚ということで、二男は東野家の後継ぎとして東野姓を名乗っていた。
「柾彦先生。ごきげんよう。春翔は、相変わらず、あちらの華、こちらの華と、女性の間を飛び回ってございます。ひとつの華では、満足できないらしくて。これから、銀杏亭の生け込みでございますの。銀杏亭までお送りいただいて、よろしゅうございますか。こちらは、桐生笙子さんで、いつも私のお供をしてくださいますの」
東野地所の一人娘として絢爛豪華に育てられた萌は、結婚してからも生家の後ろ楯を享受し、華道家の妻としての華やぎを醸し出していた。春翔の女好きは評判だったが、萌は、妻としてしっかりと春翔を支えていた。萌の大輪の菊と牡丹の艶やかな着物姿は一際目を惹いた。柾彦は、萌の陰に隠れて気付かなかった、笙子の姿を初めて目にした。
「桐生笙子でございます」
若い笙子は、紫苑色の振り袖姿で、恥ずかしそうに萌の後ろに佇んでいた。
「鶴久柾彦です。さぁ、どうぞ」
柾彦は、車から降り、後部座席の扉を開けて、萌と笙子を車に乗せた。
「柾彦先生、私を銀杏亭で降ろしてくださった後に、笙子さんを桜川の駅までお願いしてもよろしゅうございますか」
萌は、遠慮なく柾彦に頼んだ。
「ちょうど帰り道ですから、お任せください」
柾彦は、気軽に応じた。
「ありがとうございます。柾彦先生は、ますます、ご立派になられましたね。いつまで、独身を通されるのでございますか」
萌は、それとなく笙子に、柾彦が独身であることを示した。先日より、おせっかいやきの杏子から、柾彦の縁談について相談を受けていた。萌は、立派な頼もしい柾彦が、どうして結婚しないのか不思議でならなかった。
「別に独身を通しているわけではありませんよ。縁が無いだけです」
柾彦は、萌の唐突な質問に、ハンドルを切りながら苦笑した。
「柾彦先生が、お気づきになられてないだけではございませんの。ねぇ、笙子さん、素敵な男性でございましょう」
萌は、隣に黙って座っている笙子に、意味ありげに囁いた。
「はい」
笙子は、薄っすらと頬を染めて、俯き加減で同意した。
「萌さん、誉めていただいてありがとうございます。さあ、銀杏亭に着きましたよ」
柾彦は、車を降りて、後部座席の扉を開けた。
「柾彦先生、ありがとうございます。笙子さんのことをよろしくお願いします。笙子さん、それでは、ごきげんよう」
萌は、自身の見立ては間違いではなかったと、こころ踊る気分になった。柾彦の好みは、祐里のように慎ましやかな女性と心得ていた。
「萌先生、私も銀杏亭にお供いたします」
笙子は、萌が車から降りると、初対面の柾彦と二人きりになることが心細く感じられて、慌てて萌の後を追った。
「今日は、銀杏亭で杏子さまとお話がございますので、笙子さんは、ご遠慮していただけるかしら」
萌は、ここで笙子に車を降りられては大変と思い、慌てて車の扉を閉めた。
「萌先生・・・・・・」
笙子は、心細さで瞳を潤ませた。
「それでは、萌さん、杏子によろしく伝えてください。笙子さんのことは、任せてください」
柾彦は、萌に会釈をして、運転席に戻った。
萌の姿を見つけた杏子が銀杏亭から出てきて、二人は、柾彦の車を見送りながら、手を取り合って歓声を挙げた。
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投稿日 2008-10-05 09:33
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投稿日 2008-10-06 00:36
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投稿日 2008-10-05 20:54
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投稿日 2008-10-06 08:01
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投稿日 2008-10-06 19:02
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