祐雫〈ゆうな〉
祐雫は、白百合女学院小学校の六年生に進級した。父の光祐よりまっすぐな性格を受け継ぎ、成績優秀で(どうして長女の私は、桜河家の後継ぎにはなれないのかしら)と不思議に感じていた。同級生たちは、流行の洋服や髪型のこと、星稜学園小学校の誰某が素敵という話ばかりで、話を合わせてはいたがどこか物足りなさを感じていた。
土曜日の放課後、祐雫は、よき理解者である柾彦を頼って、鶴久病院を訪れた。祐雫が病院の扉を開けると、受付係の倭子(しずこ)が笑顔を向けた。
「祐雫さん、こんにちは。柾彦先生は、今、ご自宅へ戻られましたよ」
「こんにちは。ごめんくださいませ」
祐雫は、受付係の倭子にお辞儀をして、自宅へ続く廊下を進んだ。柾彦は、自宅前で秋の和かな日差しに輝く桜の樹を見上げていた。十数年前に桜河のお屋敷から譲り受けた挿し木は見事な枝振りに成長していた。それとともに鶴久病院は、益々発展していた。
「こんにちは、柾彦先生。お腹が空いたので来てしまいました」
祐雫は、にっこり笑って柾彦に駆け寄った。
「雫姫(しずくひめ)。ようこそ、鶴久城へ。母上さまに断ってきたの。また、内緒にして来たのでしょう」
柾彦は、祐雫の頭を撫でて微笑み返した。祐雫は、初めて出会った頃の祐里に顔立ちがよく似てきていた。ただ、祐雫は、はきはきとした性格で、生まれながらにして桜河のお嬢さまとして誰にも臆することなく育った風格を備えていた。柾彦は、玄関の扉を開けて、祐雫を自宅に通した。
「ただいま、母上。雫姫も一緒なのだけれど」
「こんにちは。おばさま。おいしそうな匂いに釣られて来てしまいました」
玄関の扉を開けると、昼食の美味しそうな匂いが立ち込めていた。
「お帰りなさいませ、柾彦さん。祐雫ちゃん、いらっしゃいませ。ちょうどよかったですわ。お昼を作りすぎてしまって困っていたところでしたのよ。祐雫ちゃんの鼻は、よく利きますのね」
結子は、祐雫の鼻に軽く手を当てた。
「また、姫に内緒で来ているから、母上、電話を入れてください。姫が心配している頃だろうから」
「祐里さんを心配させてはいけませんものね」
結子は、祐里に電話をかけてから、昼食を食卓に並べた。
「柾彦さん、祐里さんがよろしくお願いしますとのことでした。祐雫ちゃん、どうぞ、たくさん召し上がれ」
「いただきます」
祐雫は、結子の作る洋食が大好きだった。
「優祐くんは、家に戻ったの」
「はい。午後から、剣術のお稽古でございます。優祐は、母上ご自慢のよい子でございますもの」
「まぁ、祐雫ちゃんがお姉さまのようですわね」
結子が声高に笑う。
「おじいさまが、優祐を兄とお決めになられたので、祐雫は妹でございますが、双子なので、祐雫が姉でもよろしゅうございましたのに」
祐雫は、口を尖らせた。
「雫姫は、ご機嫌斜めだね。何かあったの」
柾彦は、食事を終えて、祐雫を居間の長椅子に座らせた。
「祐雫は、なんだかつまりません」
柾彦は、祐雫のことを姪のように感じていた。
「祐雫は、今の学校では退屈ですの。優祐のように、もっともっと勉強がしたいのです」
祐雫は、自身の宿題を終えると、優祐の教科書を借りて勉強し、向学心に燃えていた。
「そうだったの。雫姫は、勉強が好きだったのか」
柾彦は、祐雫を抱きしめた。
「柾彦先生の匂いがいたします。消毒液の匂い。お医者さまになるのもよろしゅうございますね」
祐雫は、柾彦の腕の中で、小さな希望を見出していた。
「まぁ、それはよろしゅうございますわ。柾彦さんときたら、相変わらずの堅物で鶴久病院の後継ぎができませんもの。祐雫ちゃんが後継ぎになってくだされば、鶴久病院も安泰ですわ」
結子は、食卓を片付けながら、喜びの声をあげた。
「母上は、また、そのような夢の話をされて。雫姫は、桜河家の大切な姫ですよ。光祐さんから叱られます。雫姫、進路については、父上さまとよく相談をするといいよ」
柾彦は、母の発言を窘めながら(ぼくが、もう少し若ければ、雫姫に恋をしていたかも知れない)と祐雫の中に受け継がれる祐里の面影に、こころの中で呟いていた。
その夜、光祐は、祐雫の部屋の障子越しに声をかけた。剣術の稽古で疲れた優祐の部屋の明かりは消えていた。
「祐雫、まだ、起きているの」
「父上さま」
祐雫は、机から立ち上がり、障子を開けて、光祐を部屋の中に入れた。
「勉強をしていたのかね。祐雫は、勉強熱心だものね。この頃、祐雫がつまらなそうにしているのが気になっていたのだよ」
光祐は、長椅子に座り、隣に祐雫を座らせた。
「祐雫のことを気にかけてくださったのでございますか」
「もちろんだとも。可愛い私の子どもだからね」
光祐は、優しい笑顔で大きく頷いてみせた。
「祐雫は、優祐のようにもっともっとお勉強がしとうございます。母上さまは、いつも女の子らしくが口癖で、祐雫にお手伝いばかり仰せになります」
祐雫は、光祐の深い愛情を感じて、こころに陽が差し込んだ気分になった。
「そのようなことはないだろう。祐雫のことを一番心配しているのは、母上だよ。母上は、心配を表情に出さないひとだからね。それに、手伝いは勉強と同じように生きていくためには大切なことなのだよ。母上は、祐雫だけではなく、優祐には男らしくと他の手伝いをさせているし、祐雫は、これから様々な体験をして、日々成長していくのだから焦ることはないのだよ」
光祐は、自己主張をするようになった祐雫の成長を感じていた
「おじいさまもおばあさまも優祐も婆やも爺も、母上さまのことばかり。祐雫のことなんて誰も気にしてくださらない」
祐雫は、口を尖らせた。
「なんだ、祐雫は、母上にやきもちをやいていたのか。ほら、そのような顔をしていると可愛い顔が台無しだよ」
光祐は、幼さの残る祐雫の肩に手をまわして抱き寄せてから、瞳を見つめて話をした。
「母上は、家族皆の宝物だからね。その母上が一番気にしているのが、祐雫のことなのだから。となると、祐雫こそが家族の宝物の中の宝物ではないのかね」
光祐は、祐里と競おうとする祐雫の女性としての成長の早さに驚いていた。
「祐雫が、宝物の中の宝物。父上さまのおっしゃることはよく分かりません」
祐雫は、不思議な顔をして光祐を見つめた。光祐は、優しく祐雫の黒髪を撫でた。
「学問では、教えてくれないことだからね。祐雫、外の桜の樹を見てご覧。三百年以上ここにいて、ずっと桜河の家を見守ってくれているのだよ。嬉しいことも楽しいことも、怒りや悲しみさえ、一緒に感じてくれている。母上は、この桜のようなひとなのだよ。祐雫もそのうち、母上のようになれるのだからね。焦ることはない。優祐は、優祐らしく、祐雫は、祐雫らしく、育っていけばいいのだよ。そして、何かあれば、私や母上に相談してくれると嬉しいね」
「祐雫は、祐雫らしくでございますか」
「そうだよ」
光祐は、大きく頷いて、しばらくの間、祐雫を黙って抱きしめていた。祐雫は、光祐の広い胸の中で、満開の桜の花に包まれているような優しい心地を感じていた。
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投稿日 2008-10-04 23:02
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投稿日 2008-10-05 08:36
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投稿日 2008-10-05 00:09
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投稿日 2008-10-05 17:09
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