美月〈みづき〉
鶴久病院の職員出入り口に、美月は、大きな鞄を手に佇んでいた。
「柾彦さま、来てしまいました。柾彦さまのいない日々は、私には耐えられません」
教授の娘の檜室美月だった。柾彦を真っ直ぐに見つめる美月の瞳には、大粒の涙が溢れていた。
「美月さん、突然にどうしたのですか」
柾彦が医師として鶴久病院に戻って来てから、八ヶ月が経とうとしていた。柾彦は、ただただ驚いていた。教授の家には、数回招待されて伺ったことがあり、もちろん美月ともその時に会話を交わしたことはあったが、交際をしていたわけではなかった。柾彦にとっては、教授の娘という認識しかなかった。
「お見合いのお話がすすんでおります。私は、柾彦さまに嫁ぎたく思います。檜室の家には、もう戻らぬ覚悟で参りました」
美月は、熱い想いを柾彦にぶつけて、柾彦の広い胸に飛び込んだ。
「美月さん、ぼくには、おっしゃっている事がよく理解できないのですが、落ち着いて話をしてください。とにかく、ここでは話ができませんので、家へどうぞ」
柾彦は、美月の大きな鞄を受け取り、自宅に招き入れた。母の結子が所用を済ませて帰って来るまでに話を終わらせたかった。美月を居間の長椅子に座らせて、落ち着くように熱い紅茶を入れた。柾彦自身も熱い紅茶を飲んで落ち着きたい心境だった。柾彦は、紅茶を一口飲んで深呼吸をした。
「美月さん、ぼくは、あなたの名前と教授の娘さんであることくらいしか知りません。それなのにぼくと結婚するなど理解に苦しみます」
柾彦は、美月を傷つけないようにするにはどうしたらいいのか、頭の中で考えていた。
「美月では駄目ですか。それとも、既にどなたかいらっしゃるのですか」
美月の瞳からは、ぽろぽろと真珠のような涙が、次から次へと零れていた。柾彦は、不思議な気分でその様子を眺めていた。どなたかと問われて、想い描くのは祐里の顔・・・・・・柾彦は、突然の美月の想いに戸惑うばかりだった。
「美月さん、ぼくは本当にあなたのことを何も知らないのです。とにかく涙を拭いてください。目が腫れてしまいますよ」
柾彦は、白衣のポケットからハンカチを取り出して美月に渡した。
玄関の呼び鈴が鳴り、柾彦があたふたと扉を開けると、祐里が立っていた。
「柾彦さま、こんにちは。紫乃さんの作ったお彼岸のおはぎを御裾分けにお持ちいたしました。おばさまは、いらっしゃいますか」
祐里は、玄関に揃えられた女性の靴に目を落とした。
「姫、ありがとう。母上は、外出していて、もうすぐ戻ってくると思うのだけれど」
柾彦は、祐里に助けを求めたい気持ちと美月のことをどのように紹介すればいいのか分からない気持ちの中で戸惑っていた。
「柾彦さま、お客さまでございましたら、私は、ここで失礼いたしましょうか」
祐里は、柾彦の決まりの悪そうな様子に配慮した。
「姫、どうか、帰らないで。とにかく、どうぞ、上がってください」
柾彦は、慌てて祐里を招き入れて、美月の前に案内した。
「こちらは、教授のお嬢さんの檜室美月さんです。美月さん、桜河祐里さんです」
祐里は、泣いている美月と困惑している柾彦を見つめた。
「この方が、柾彦さまの婚約者ですか」
美月は、ハンカチで涙を拭きながら、挑むような瞳を祐里に向けた。
「そうですよ。だから、美月さんは、落ち着かれたら、家に戻ってください」
柾彦は、美月の勘違いを肯定して、とっさに嘘をついていた。祐里は、その場の状況がよく呑み込めずに佇んでいた。一途な美月の想いがその視線から感じられた。柾彦は、今ようやくその想いに気付いた様子だった。祐里は、柾彦から美月に視線を移した。真っ直ぐに祐里を見つめる瞳からは、大切に育てられた雰囲気と勝ち気な性格が感じられた。
「ただいま帰りました。祐里さんがいらしているの。ちょうど、美味しいケーキを買ってきましたのよ」
結子は、玄関に揃えられた女性の靴に目を留めて、祐里が来ているのだと思い込んだ。恋愛において堅物の柾彦に女性の影は皆無だった。結子は、居間の扉を開けると言葉を失った。知らない女性が柾彦の前で涙を流し、祐里が側に佇んでいた。
「おばさま、お留守にお邪魔しております」
祐里は、結子に挨拶をして、再び柾彦に視線を向けた。
「母上、あの、この方は、檜室教授の娘さんで、美月さんです」
柾彦は、結子の声に驚いて、赤面しながらあたふたと美月を紹介した。
「お母さまですか。初めまして、檜室美月と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
美月は、ハンカチを瞳に当てながら、立ち上がって結子にぺこりとお辞儀をした。
「祐里さん、いらっしゃいませ。美月さん、柾彦の母の結子でございます」
結子は、落ち着きのない柾彦と泣いている美月を交互に見つめて、この場の状況の理解に苦しんでいた。
「お母さま、お見合いの日に家を出て、柾彦さまの元へ参りました。私には柾彦さましか頼る方がいないのに、祐里さんという婚約者がいらしたのですね」
美月は、再び、大粒の涙を零した。驚く結子に柾彦は、大きく首を横に振った。理解に苦しみながらも結子は、柾彦の態度で状況が読めてきた。それから、ゆっくりと美月に目を留めた。柾彦を頼ってきた美月がいじらしく思えた。
「まぁ、びっくり。そんなに泣いては、可愛いお顔が台無しですわ。柾彦さんのことをこれほどに慕ってくださって、母として嬉しいばかりです。お父さまやお母さまが心配されてございましょうが、折角いらしたのですから、ゆっくりお話をいたしましょう」
「母上、それは」
柾彦は、母の対応に驚いていた。
「柾彦さん、女性を泣かせるなんて殿方のなさる事ではございませんわ。すぐに美月さんを追い返しても何も解決いたしません。美月さんが落ち着くまで、いていただきましょう。そうと決まれば、美味しいケーキを皆でいただきましょうね」
結子は、美月に優しく微笑んで、ケーキの箱を抱えて台所へ向かった。
「おばさま、お手伝いをいたします」
祐里は、おはぎの重箱を抱えて、結子の後ろに続いた。
柾彦は、美月と結子の波長に巻き込まれたように感じていた。六つ下の妹の志子(ゆきこ)は、美月と同い年で、この秋に嫁いだばかりだった。志子を嫁に出して平気な顔をしていた結子だったが、やはり淋しさを感じていたのだろうか。好き嫌いをはっきりさせる結子が、美月を追い返さなかったことを不思議に思っていた。結子は、あの祐里を抱きしめた日、なにも気付かないそぶりを見せながら、やはり、自分の祐里への恋慕に気付いたのだろうか。柾彦は、結子のこころの内を推量しながら、今まで教授の娘としか認識していなかった美月を女性として改めて見つめた。不自由なく育ち、自己主張をしっかりと表現出きる女性。そのような女性は、大学時代にいくらでもみてきた。しかし、柾彦の求めている女性ではないような気がしていた。
「祐里さん、紫乃さんのおはぎですね。ありがとうございます。それにしても、柾彦さんも隅におけませんね。柾彦さんには、押しかけ女房がお似合いなのかもしれませんわ」
結子は、祐里から重箱を受け取り、笑顔を見せながら、居間の様子を覗った。
夕方になり、美月は『今日のところは家に帰って教授と話し合うように』と柾彦に説得され、祐里を迎えに来た車に同乗して、後ろ髪をひかれる想いで桜川の駅に向かった。
「祐里さんは、柾彦さまとは幼馴染みなのですか」
美月は、柾彦がずっと祐里に恋して過ごしてきたことを感じていた。柾彦の視線は、いつも祐里に注がれていた。それに結子も、祐里に好感を抱いているのが感じられた。そして、祐里は、その場に然るべく存在していた。
「柾彦さまとは、十六の時にはじめてお会いしました。それからは、何時も優しく見守ってくださる大層頼もしいお方でございます」
祐里は、一途な美月の強い想いを感じていた。
「私は、はじめてお会いした時から、柾彦さまが好きになりました。でも、柾彦さまは、私を教授の娘としか見てくださらなくて。片思いなのに押しかけてきてしまいました」
祐里の前では、美月は、自身が色あせていくように感じていた。
「さようでございましたの。ご自分のお気持ちを大切になさって、お父上さまとよくお話し合いをされるとよろしいかと存じます。美月さまのしあわせをお祈り申し上げます」
祐里は、優しい微笑を湛えて、美月の今後のしあわせを願った。
桜川の駅で、美月は、祐里に礼を言い、都への帰途についた。
美月は、帰りの列車の中で、違和感を覚えていた祐里の左の薬指に光る指輪を思い出して、桜河という名字から、数年前に都で人気を博しながら、里の娘と結婚した桜河光祐の妻だということに気付いた。そして、美月を帰す為に柾彦が嘘を付いた事を真摯に受けとめた。
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投稿日 2008-10-03 14:18
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