杏子〈きょうこ〉
銀杏通りの並樹が色付き始めていた。
柾彦は、久しぶりに銀杏亭で昼食をとることにした。銀杏亭は、幼馴染みの林杏子が婿を取って、父と共に洋食レストランとして、名をあげていた。店内は、落ち着いた茶色で統一され、銀杏色の明るいテーブルクロスが挿し色として使われていた。柾彦が扉を開けると、杏子がすぐに気付いて、笑顔で近寄ってきた。
「柾彦先生。いらっしゃいませ。特別席にご案内します」
昼食時の店内は、客で賑わっていた。杏子は、衝立の奥の特別席へと柾彦を案内した。中庭の大きな銀杏の樹に面した大窓側の特別席は、店内の賑わいから離れてゆったりとした空間を演出していた。
「特別席は、ぼくの貸し切りみたいだけれど、相変わらず、賑わっているね」
柾彦は、椅子に腰かけて、杏子に笑顔を向けた。
「それは、勿論、看板娘がいいからに決まっています。お時間がおありなら、貸し切りのお客さまには、お昼のおまかせコースがお勧めです」
杏子は、胸を張って柾彦に微笑むと、メニューを開いて『おまかせコース』を指し示した。
「それにするよ」
「かしこまりました。少々、お待ちくださいませ」
杏子は、厨房へ消え、すぐに、おしぼりと水の入ったグラスを持ってきた。
「柾彦先生、そろそろ、お見合いでもされて、結婚なさいませんか」
杏子は、急に真面目な顔になって、柾彦に問いかけた。
「杏子は、結婚してしあわせそうだね」
柾彦は、杏子の不意をついた言動に戸惑っていた。
「ええ、しあわせですよ。結婚してから徐々に築いていくしあわせもあるのですもの。柾彦先生は、あまりに真面目に考え過ぎていらっしゃるのですわ。一途ですものね」
杏子は、意味ありげに『一途』を強調した。
「ただ結婚に縁がないだけだよ」
柾彦は、慌てて訂正した。
「あら、杏子は、子どもの時からずっと柾彦先生が好きだったのに、全然気付かずにどこかのお姫さまを一途に想っていたのは誰かしら」
杏子は、挑戦的な瞳で、柾彦を見つめた。
「杏子は、ぼくのことが好きだったの」
柾彦は、不思議な顔をして、杏子を見上げた。考えたこともなかった。
「ええ。今の今まで、お気づきではなかったでしょ。本当に柾彦先生は、女心が少しもわからないのですから。まぁ、そこが柾彦先生の魅力でもあるのだけど」
「まるで、ぼくが鈍感な男みたいじゃないか」
「あら、鈍感に決まってますわ」
杏子は、幼馴染みの柾彦との会話を楽しんでいた。柾彦は、小学校の入学祝に父母と妹と銀杏亭で食事をした日から杏子とは顔見知りになり、こころ置きなく話せる間柄だった。それ以来、いつでも口が達者な杏子から言い包められていた。
「杏子には敵わないな」
柾彦は、降参して手を挙げて見せた。
「私のことはさて置き、手の届かない姫を追いかけるよりも、現実をご覧になられてください。柾彦先生を好いてくださる方は、沢山いらっしゃるはずでございますよ。今度ご紹介しましょうね。では、銀杏亭おまかせの世界一美味しいコースをお持ちします」
杏子は、にっこり笑って、厨房へ消えた。柾彦は、結婚について考えてみた。(これから先、結婚したい女性に巡り合えるのだろうか・・・・・・)考えれば考えるほど、現実味がなかった。こころに浮かぶ女性は、唯一祐里だけだった。手が届かないと分かっていても時々祐里と会って話ができるだけで、柾彦は、しあわせだった。
その日の午後、杏子は、銀杏亭へ生花の生け込みに訪れた萌を「待っていました」とばかりに捉まえて相談を持ちかけた。
「萌さまのお弟子さんで、柾彦先生とお見合いをされる方は、いらっしゃらないかしら。お節介をやかなければ、柾彦先生のことだから、このまま独身を通しそうなのですもの。素敵な殿方なのにもったいのうございましょう」
杏子のお節介は、子どもの頃から変わらなかった。
「柾彦先生とお似合いの方でございますか。柾彦先生がその気になられたのでしたら、善は急げでございますわ」
萌は、独身の弟子たちの顔を思い浮かべていた。
「その気にはなられていないのですが、こちらから策を講じて、その気になっていただきたくて・・・・・・お好みは、祐里さまのように慎ましくて可憐な方でございますよ」
杏子は、萌に念を押した。
「祐里さまは、母になられても昔のまま可憐で、光祐お兄さまは、相変わらずくびったけでございますし、柾彦先生にとっては、永久に理想の姫でございますものね。女好きの春翔でさえ、祐里さまの前に出ると見惚れて何も言えなくなってしまいますのよ」
萌は、声をたてて笑った。そして、一人の弟子の顔を思い出した。
「杏子さま、私に考えがございます。おまかせくださいませ」
萌は、胸を叩いて笑顔で引き受けた。
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投稿日 2008-10-01 15:57
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投稿日 2008-10-02 01:38
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投稿日 2008-10-01 18:07
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投稿日 2008-10-02 08:50
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