紫乃〈しの〉
柾彦は、往診の帰りに桜河のお屋敷に車を停めた。紫乃が、柾彦を迎えた。
「柾彦さま、いらっしゃいませ。奥さまと祐里さまは、外出中でございますが、ちょうど、栗の渋皮煮が出来あがったところでございますので、召し上がっていかれませんか」
豊かな微笑を湛えて紫乃は、柾彦を招き入れた。
「そろそろ、おやつの時間だと思って、寄ったところです。勿論、いただきます。今日はお屋敷の中が静かですね」
柾彦は、台所に入って椅子に腰かけた。
「午後の休憩時間でございます。私は、台所を一番好いてございますので、いつもここにおります」
紫乃は、手際よくおやつの膳を用意して、柾彦の前に差し出した。
「美味しそうですね。いただきます」
柾彦は、手を合わせて栗の渋皮煮を口に入れた。ほろ苦さと甘さが合わさって、秋の豊かな香りが口の中に広がった。
「奥庭で採れた栗でございます。本当に柾彦さまは、美味しそうに召し上がられますね」
紫乃は、柾彦の食べ振りから元気をもらっていた。
「紫乃さんの作るものが美味しいからですよ。お屋敷の方がたは、しあわせですね。毎日、紫乃さんの美味しいご馳走が食べられるのですから。ところで、紫乃さんは、どうして結婚しなかったのですか」
柾彦は、はじめて紫乃と二人きりになり、紫乃のことを聞いてみたくなった。
「私のことでございますか。恥ずかしゅうございますね」
紫乃は、柾彦の真剣な眼差しを受けて、顔を赤らめながら昔を思い出すように話し始めた。
「私が、東野のお屋敷にご奉公に上がったのは、十二歳の時でした。奥さまは、五つで、本当に可愛らしいお嬢ちゃまでございました。紫乃、紫乃と私に懐いてくださいまして、私がお世話をする事になりました。桜河の旦那さまは、東野のご長男の圭一朗さまと同い年の十で、奥さまがお生まれになられた時からの許婚でございましたので、よく遊びにいらしていました。旦那さまも、私のことを姉のように慕ってくださいましてね。私は、何処に行くにも奥さまのお供をいたしました。奥さまが十八で、こちらにお嫁入りの時には、貧血ぎみの奥さまのことが心配で、桜河のお屋敷にお供してご奉公することになりました。お暇をいただいて、結婚も考えたのでございますが・・・・・・その頃に柾彦さまのようなお方と巡り合っておりましたら、私もきっと結婚してございました」
紫乃は、柾彦に微笑みかけて話を続けた。
「でも、奥さまのご希望もございましたし、私自身が奥さまと離れとうございませんでした。その頃、祐里さまの産みの母の小夜さんがお手伝いに来ていました。小夜さんは、素直な働き者でございましてね、私も小夜さんとすぐに仲良くなりました。東野の籐子奥さまに家事を習い、こちらでは、厳しい方ではございましたが、大奥さまの濤子さまにお料理を丁寧に教えていただきました。桜河のお屋敷のお料理は、大奥さまから全て教えていただきましたので、祐里さまに私からお伝えいたしました。光祐さまがお生まれになり、産後の肥立ちがお悪い奥さまと光祐さまのお世話をすることが嬉しゅうて、結婚など考えられませんでした。そのうち、可愛い祐里さまも来られて、旦那さまの代になリまして、いつの間にか、ここが私の家のように思えまして、私は、死ぬまで桜河のお屋敷にご奉公するつもりでございますのよ」
紫乃は、しあわせな微笑を湛えながら、懐かしむように話をした。
「ここが紫乃さんの家ですし、桜河のお屋敷では、紫乃さんは、かけがえのない家族です」
柾彦は、紫乃のしあわせをともに感じていた。
「はい、もったいのうございますが、私は、勝手にそのように思ってございます。柾彦さまは、そろそろ、ご結婚でございますね。奥さまからお話をお聞きいたしました。どうぞ、おしあわせになられてくださいませ」
紫乃は、柾彦の晴れ晴れとした笑顔を自分のことのように嬉しく思っていた。光祐の弟のように感じていた柾彦が良縁に恵まれたことが嬉しかった。
「まだまだですよ。出会ったばかりですから。紫乃さん、ご馳走さまでした。病院に戻ります」
柾彦は、照れ笑いをして手を合わせると、時計を見て立ち上がった。紫乃は、玄関横の車寄せまで柾彦を見送り、茜色に染まった庭の桜の樹を見上げた。桜の樹は、華やいだ茜色の葉を揺らし、紫乃を労ってくれていた。
「婆や、ただいま帰りました」
優祐と祐雫が、石畳を駈けて学校から戻って来た。
「優坊ちゃま、祐嬢ちゃま、お帰りなさいませ」
紫乃は、玄関前で二人を抱きしめた。
「婆や、今日のおやつは、何」
優祐と祐雫が、同時に問いかけた。
「さぁ、何でございましょうね。お着替えをなされて手を洗われましたら、食堂にいらしてくださいませ。それまでのお楽しみでございますよ」
「はい。婆や」
「祐里さまは、お留守でございますが、お二人で大丈夫でございますね」
紫乃は、日本家屋に向かう優祐と祐雫の背中に伝えた。優祐と祐雫が生まれてから光祐と祐里は、日本家屋に移り住んでいたが、平日の朝食から夕食までの時間は、ほとんど洋館で過ごしていた。紫乃は、あどけない二人から元気をもらっていた。
「はぁーい」
優祐と祐雫は、着替えをするために日本家屋の玄関へ競って走っていった。
「紫乃さん、ただいま帰りました」
祐里は、石畳を静かに歩いて、紫乃の背中を優しく見つめていた。
「祐里さま、お帰りなさいませ。柾彦さまと入れ替わりに、今、優坊ちゃまと祐嬢ちゃまがお帰りになられたところです」
「声が聞こえてございました。柾彦さまとは、途中の道でお会いしました。紫乃さんの美味しいおやつに、ご満足のご様子でございました。紫乃さん、今日のおやつは、何」
祐里は、子どもたちの真似をして問いかけた。
「さぁ、何でございましょうね。可愛い祐里さま、手を洗われましたら、食堂にいらしてくださいませ。それまでのお楽しみでございますよ」
「はい。紫乃さん。おいしそうな匂いがしてございますね」
紫乃は、子どもたちに答えるように返事をした。祐里は、子どもの時から優しく見守り続けてくれる紫乃に感謝の気持ちで微笑んで、子どもたちの後を追った。
夕方になって、薫子が帰って来た。
「奥さま、お帰りなさいませ」
「紫乃、ただいま帰りました。今日は、少し疲れました」
薫子は、迎えてくれる紫乃の穏やかな笑顔を見るだけで、疲れが癒されていた。
「お疲れでございましたら、お部屋でゆっくりなさってくださいませ。すぐに熱めのおしぼりと甘いものをお持ちいたしますので」
紫乃は、幾つになっても薫子のことが可愛くて仕方がなかった。東野の籐子から、よく『薫子の身体が弱いのは、紫乃が甘やかすからでございます』と叱られたものだった。それでも、つい手を出さずにはいられなかった。
「静かでございますね。祐里さんと子どもたちはどちらに」
「おやつを召し上がられて、木の実探しに奥庭へお出かけでございます」
紫乃は、扉を開けて薫子を部屋に入れた。
「紫乃、とても嬉しそうな顔をしているけれど、何かございましたの」
薫子は、長椅子に座りながら紫乃をまじまじと見つめた。
「午後に柾彦さまがお寄りになられて、私の料理を誉めてくださったものでございますから。それにもったいないことでございますが、私のことをかけがえのないお屋敷の家族だとおっしゃってくださいました」
紫乃は、満ち足りた気分で、自然に微笑みが溢れていた。
「さようでございますとも。わたくしは、いつもそのように思っていてよ。紫乃、いつまでも元気でわたくしの側にいてくれなければ、嫌でございますよ」
薫子は、今まで紫乃が側に居たからこそ、恙無く暮らしてこられたことを改めて感謝した。身体の弱い自分の代わりに、厳しい義母の濤子とも上手く接して助けてくれた。光祐と祐里の世話や広い屋敷の家事一般、奉公人の取り纏め及び出入人の采配を引き受け、家族が気持ちよく暮らせるように心配りをしてくれた。薫子は、啓祐に寄り添い、紫乃に甘えて、今日までこられたのだった。
「坊ちゃまと祐里さまがおしあわせになられましたので、今の紫乃は、奥さまとご一緒させていただけることが何よりのしあわせでございます」
紫乃は、温かな微笑みを湛えて、台所におやつを取りに行った。
夜になって、啓祐と光祐が一緒に帰って来た。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
車の音がすると家族が一斉に玄関に集まり、声を揃えて啓祐と光祐を迎えた。
「美味しい匂いがしているね。紫乃、今夜の夕食は何だろうね」
啓祐が鞄を薫子に渡しながら、後ろに佇む紫乃に問いかけた。
「本日は、旦那さまの好物にいたしました。ご用意が出来ておりますので、食堂にいらしてくださいませ。もちろん、デザートは、坊ちゃまの好物をご用意いたしております」
紫乃は、啓祐と光祐に微笑んで、お屋敷の家族の一員であることでこころが満ち足りて、ただただしあわせだった。
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