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ぼくしのめがね

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アメリカは理論主義、日本は心情主義

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先日、日本のテレビを見ていたら、国際関係についての議論がされていた。ある評論家が、「日本は心情主義だが、アメリカは論理主義である」とし、双方の意見の解釈についての見解を述べていました。

私は、ああ、本当だ。これだー。と思わされました。

日本の文化は、conforming 他者と一体になろうとする、右へ習え文化です。悪く言うと、共依存を生みやすく、自分の領域が一体どこまでなのか非常に分かりにくいということになります。どこからどこまでが、自分の権利なのか、自分の責任範囲はどこまでなのか。

たぶん、日本に住んでいる日本人なら、めったにこんなことすら考えないのだと思います。それが自然なのですから。

この他者とどこまでも一体化していくために、「空気を読む」という能力が発達していきました。空気を読んで何でも先回りして物事を判断して動きます。また、相手の心情を察することが最大の美徳とされ、また他人にそれを無言で要求する文化があると思います。

また、流暢に話す人よりは、朴訥としている方が信用されるというのです。

ですから、日本の裁判では、論が立つ弁護士よりも朴訥としている方が、勝訴するのだそうです。とつとつと話す裏にある心情を読み取っていただけるからなんでしょうか。日本では、日本語のたどたどしい宣教師も喜んで受け入れられます。ありがたくそのお話しも聞きます。ただし、何を言っているか理解していなくても、ありがたく聞き、日本語的に論が成り立っていなくても、受け取ります。それは、話し手のの心情を巧みに読み取りわずかに伝達された話の論説と一緒に受け取っているからです。

一方アメリカは、違います。

論理ありきです。同じ例で行くと、英語がたどたどしくて、パブリックスピーチをしても、受け取ってもらえるかどうか、疑問です。
よく知っている関係なら必死で聞いていただけると思いますが。この人が何を考え、何を思っているのかということを伝えられなければ意味がないのです。ですから、朴訥としている弁護士が有利だなんていう考えは全くありません。

どころか、その人の論点がどこにあるのかの方が重要ですし。その人の言論を聞いて信用できるかどうかを判断します。流暢でも朴訥でも言っていることが`論説が薄っぺらくては受け入れられませんね。

また、アメリカは、自分の身は、自分で守るという個人主義の国でもありますから、他人との境界線がはっきりしています。自分の責任、他人の責任の持ち分がはっきり分かれています。

日本のように、まだ先輩が働いているから、仕事はきりあげられるけれど、残業するというような、後輩に先に帰られる先輩の心情を察して意味の無い残業をするというようなことはないのです。

さて、私はアメリカで牧師をしていますが、この二つの文化をどう自分の中でも、人に対しても適用して行くかが、駆け出しの8年前は難しかったことでした。

よく、アメリカ人の先輩牧師から、「あなたは、聖霊様の役割をしようとして、神と人の間に割って入っている」と言われました。「あなたは、神ではなく、人なのよ。それ以上その人の問題の中に入ってはダメ」と境界線を引かれました。
「それは、ミニスターとしてのあなたの驕り」「罪よ」とまで指摘されたことでした。

私は、日本の文化をミニストリーに持ち込んでいたことに全く気がつきませんでした。

今となったら、よーく分かります。
具体例が書けないので、読んでいる人にはわかりづらいかもしれませんが。。。

アメリカの文化が良い、とか、アメリカの教会文化の方が聖書的だと言っているのではありません。ある分野においては、日本の教会の方がよく優れている分野もあります。

私の言いたいことは、私がどんな文化の中に生きているか気がつくことがミニストリーをする上で非常に役に立ち、個人の霊的成長、個人の信仰の成熟に役に立つということです。ひいては、他人の信仰を助けるためにもなります。

なぜなら、アメリカ文化に疑問を感じるとき、自分の持って生まれた日本の文化に疑問を感じるとき、戻るところは、聖書の文化になるからです。

真理が何と言っているか。

イエス様なら、こういうとき、どうされるか。ということに帰るからです。

如何せん、文化と言うものは、自分の身体や考えに染み付いているものですから、身体が自然に動いてしまいます。頭が自然にそっちの方向に動いてしまうものです。

ですからこそ、聖書に
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ロマ書12章2節) とあるのですね。

心と言うのは、原語では、Mindマインド、すなわち、私たちの考え、決断を下す場所です。そこを一新しないと、神様の御心は分からないというのです。

今日も、新しい気持ちで神様の御前に行きます。神様、どうぞ、私の考え方を変えてくださいと。神様のものの見方で、天の御国のやり方で、今日もミニストリーができますように。私の考え方を拡げて下さい。と、お祈りするものです。

皆さんは、自分の育った文化の中や、異文化の中で葛藤することはありませんか?


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MR職人
MR職人さんからコメント
投稿日 2014-06-28 11:57

年中葛藤しています。
私は典型的な合理主義者(倫理的)です。
まず結論~その理由の順番です。

他人の話もよく聴きますが、自己判断のできない人とは、なるべく接触しないようにしています。
無意識の内に周囲に気配りをして、弱者をフォローしているようです。
<二重人格>と揶揄する輩も多々います。

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bokushi
bokushiさんからコメント
投稿日 2014-07-20 02:53

MR職人さんは、情の深い合理主義者のようですね。西欧文化のほうが、しっくりくるタイプの方のようにお見受けします。
のちのち、このプログにもアップしたいのですが、聖書にでてくる、七つの賜物、神様に与えられた性質で言うと、預言者タイプのようです。
日本にいると、個人の個性を否定されることが多いのかと思います。二重人格ではないと思いますよ。
互いの良さ、特性が認め合える世の中になったらいいですね。
とはいえ、アメリカでは、特性を認めろと主張するあまり、差別の問題から極端に派生して、マイノリティの特性を正当化するまた、ノーマライズするという状態が起きています。これは、マイノリティを尊重するという域を超えてしまっています。そして、言ったもの勝ち、被害者意識をもったもの勝ちのようなおかしな状態になっています。
常識をもって冷静に判断したいものですが、移民で成り立つこの国では、常識というものがもうなくなってきたのだと思います。昔は、聖書が常識でしたが。。。。現在は、聖書を信じるものたちが非常に肩身の狭いポジションに追いやられているのが現実です。文化と言うものは、このように変貌を遂げながら成り立っていくものなのですね。とすれば、ひとりひとりの意識と言動が文化を作っているのだとも言えますね。

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