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国鉄では、昭和30年代が最も輝いていた黄金時代と言われており、昭和30年度の輸送量は戦前昭和11年と比較してみると、旅客で3.74倍、貨物はトン数で1.65倍へと著しい増加を示していたが、戦時中に酷使した設備の復興は、戦後のハイパーインフレで、収入から経費を賄うことは難しく、かつ、その後の朝鮮戦争後の物価及び賃金上昇はそれに追い討ちをかけることとなりました。 更に、追い討ちをかけるように桜木町事故などの大事故で、世論は国鉄の老朽施設や改善不十分な車両などに対して厳しい目を向けるようになりましたた。このため国鉄としても抜本的に改善を図るため第1次5ヶ年計画を策定し、運輸省に提出しました。 昭...
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この章では、戦後は終わったと言われる昭和30年代を中心に、国鉄最後の黄金期と言われた時代を描いていきたいと思います。 少し長くなりますが適当に短い章立てをして、読みやすくしたいと思います。 なお、労働問題については、別章で詳しく述べる予定ですので本編では概略を述べるに留めたいと思います。当時の世相概略 単独講和か全面講和かでもめた講和条約は、アメリカと日本の利害と思惑が一致し、中国(中華人民共和国)及び旧ソ連(現・ロシア)とは講和条約を結ばないまま、昭和27年に講和条約は発効、日本は一応独立国としての体裁を保つこととなりました。(アメリカとしては、早々と昭和24年頃には撤収したかったのが、朝...
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戦前からディーゼル機関車並びにディーゼル動車の研究は進められていましたが、太平洋戦争(大東亜戦争)により石油が流通しなくなったことから研究は頓挫していました。 戦後はローカル線経営における輸送改善の見地から山間部を走るローカル線などを中心にそういった無煙化に関する要請が強くなったこともあり、再び研究が開始されました。気動車に関しては、戦前にDMF31系エンジン【鉄道省が、新潟鐵工所・池貝製作所(現・株式会社池貝、株式会社 池貝ディーゼル)・三菱重工業の3社が同一仕様で競作した3種の試作エンジンに便宜上同一の省形式を与えたもの】を試用して、キハ43000と呼ばれる気動車が開発されましたが、...
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戦時中に製作された、EF13、D52などは、通勤形電車の63形同様、戦時設計と言われる構造であったため代用部品や、設計の簡略化などが行なわれており、実際にD52形蒸気機関車では走行中にボイラが爆発して、機関士が死亡するといった事故が発生しています。 そこで、これら機関車の標準化改造行なうとともに、一部は増えつつあった旅客輸送に転用するため、昭和22年頃から貨物機関車を旅客用機関車に改造する工事が行なわれることとなりました。 現在、日本最大の機関車として、今も人気の高いC62形蒸気機関車は、D52形のボイラを流用した蒸気機関車です。 また、それとは別に、戦前は国防上の理由で、電化が制限さ...
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昭和25年3月、東京~沼津間に80形電車による運転が始まりました。これまでは電車といえば近距離での輸送が常識を覆すものでした。 現在も使われている、オレンジと緑の塗り分けは、茶色若しくは黒しか見たことが無かった人々には驚きの目を持って迎えられました。最も当初は赤味の強いオレンジ色であったため後に修正したと言われています。 また、湘南地方の蜜柑の色を表現したと言うのは、後からつけた理由であり、本来はとにかく明るい色を・・・と言う理由から選ばれたそうです。 この電車、当初の計画では15両編成+荷物車の最高16両編成が東京~沼津間を60分間隔、小田原までは30分間隔(ラッシュ時は15分間隔)で運...
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昭和25年からは、貨物輸送についてもサービス改善が図られ、小口貨物輸送専用のワキ列車が、汐留~梅田間および吹田~門司間に設定され、汐留~門司間で65時間から43時間に大幅に改善されました。 改善の動機はドッジ・ラインによる縮小経済で貨物輸送が減少したことと、トラック輸送や船舶輸送の復旧が進みサービス改善に迫られたことも原因としてありました。 その後、朝鮮特需で需要は伸びたが、ピークを過ぎると貨車の遊休が目立つようになったので国鉄では、サービスアップと貨車の有効活用を図るために、昭和27年9月から小口貨物の速達輸送を図るべく。「急行小口扱」を新設、貨車にも「急行便」の文字が書かれた専用貨車...
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講和を獲得後日本は、国際的には独立国となりましたが、まだまだ10年戦争による疲弊は続き未だ国民の生活は豊かなものではありませんでした。 しかし、昭和30年代に入ると、次第に戦後復興と言われた時代は終わり、昭和29年(1954)からの神武景気、途中で鍋底不況と呼ばれる時期を経て、再び昭和33年(1958)からは、岩戸景気と呼ばれる好景気が押し寄せ、昭和35年、安保条約改正の責任を負う形で辞任した、岸内閣に代わって、池田内閣が組織され、所得倍増計画に見られるように、国民全体が、より豊かな生活を目指して行くことを目指し、経済が活発化していきました。 こうした好景気のおかげで、鉄道輸送も輸送量は右肩...
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この章では、戦後の復興に向けての輸送力の増強を中心にお話をして行きたいと思います。昭和30年代のお話につきましては章を改めて行ないたいと思います。輸送力増強 昭和24年9月、戦後初めての「特急 へいわ」が運転を開始しました。 戦後の暗い世相の中でたとえ一般庶民には高嶺の花であった特急列車が復活するということは国民に希望を与えるものでした。 特に、「へいわ」という愛称は、戦後の国民には素直に受入れられる名称では有りましたが、愛称については、改めて公募が行なわれることとなりました。 全国から約16万通の応募があり、その中から1,500余通を占めた「つばめ」が選ばれました。これにより、昭和25年1月...
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終戦当時はその疲弊した設備もあいまって多くの事故が発生し、事故の無い日のほうが珍しいと言われるほど混乱していました。 詳細は、幣ページの昭和20年からを見ていただくとして、多くの事故が発生しています。 これには、戦時中の酷使などで発生したと思われる蒸気機関車のボイラー破裂事故などもあります。 主だった鉄道事故を拾ってみても 肥薩線内トンネル事故 8/22 荷重超過のため上り勾配のトンネル内で立ち往生した列車をバックさせようとしたところ、既に列車を降りて線路を歩いていた乗客と接触し49人が死亡、20人が負傷した事件であった。 八高線 小宮~拝島間八高線で正面衝突 8/24 買出し...
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少し時代を戻して、終戦直後のお話をしたいと思います。この章は概ね昭和20年から昭和25年頃までのお話です。 戦争で交通機関等も破壊された日本において、最低限必要な旅客・貨物輸送を確保するのは喫緊の課題でした、大量輸送という点では内航海運は有利でしたが、戦争中に徴発されたこと、港の破壊などで早急な復興は無理であり、自動車輸送にあっても早急な改善は無理なことから、必然的に鉄道輸送を早急に復旧させる必要がありました。 このため、政府は終戦と同時に鉄道復興5ヵ年計画を立て、国鉄の復旧に全力を注ぐこととなりました。 その内容としては車両の新製(1,259両)、被災車両の復旧、被災軌道の復旧、電化工事の...