地震直後、津波のニュースが繰り返し報道される中、僕が心配していたのは原子炉の状態だった。 その後、水素爆発により原子炉建屋はボロボロに壊れる。 僕はもっと早い段階で、メルトダウンが進行するものと予想していた。 しかし、色々な方々が命をかけて対応してくれたおかげで、よくぞここまで持ちこたえたと感じている。 だが、危機を脱したわけではない。 初期の段階である東京の企業さんに「どうなるのか?」と相談を受けた時は、「核爆発はしません」「地域の農業・漁業は長期に渡り壊滅状態になります」「東京は安全ですが、水の確保をしてください」とお伝えした。 その結果、その会社はその日のうちに本社機能を大阪に移すことを決定した。 原子炉の問題は、まだ始まったばかりなのだ。 さて、原子炉事故に関連して、これからどうなるのかを考えてみた。 放射性物質の流出: 原子炉にやっと電源が確保できるようになってきた。 冷却ポンプが稼働できる可能性があるわけだが、放射性物質が漏れ出している現状の解決策にはならない。 部分的に溶けだしたと考えられる燃料棒を、どのように処理して密閉するのか等、課題は山積だ。 安全確保までは、毎週のように作業員を入れ替えながら、数ヶ月あるいは数年かかるのではないだろうか? 土壌汚染: 「農作物の風評被害を防ごう」という報道が目立つが、放射性物質の流出が止まらない現状では、被害は拡大し続ける。 このような状況は、過去に例がないだろうが、世間が安全と判断するまでは、数年はかかるのではないだろうか? もちろん、原子炉の安全が確保されたのちの話である。 農作物及び酪農への影響は深刻だ。 まずは、国内の代替農地の確保をしっかりと行う為に、耕作放棄地の整備が必要になるのではないだろうか? 水質汚染: 水道水が飲めるのは、日本の素晴らしいところだったが、今後飲料水はペットボトルに頼るしかない。 もちろん、調理に使用する水もだ。 しかし、ラーメン店等でスープに使う水がペットボトルになる事を想像できるだろうか? やはり、安全と言える食品は少なくなる。 海洋汚染: これから水揚げされる魚介類・海藻類がどの程度影響を受けるのか、調査の結果を待つしかない。 ワカメを食べると被曝しないというデマがあったが、海藻類を食べて被曝する危険もあるという事だ。 健康被害: 放射線の影響で、人の命が5年・10年短くなったところで、誰も気づかない。 なぜなら、元々の人の命の長さがわからないからだ。 「直ちに影響はない」とはそういう事だ。 エネルギー政策: 原子炉に依存してきた日本、そして世界は大きな転換期を迎えた。 反対運動で新しい原子炉が作れないから、古い原子炉を使い続けてきたという事情もあるが、これからはもっと厳しくなる。 今回の原子炉事故での補償額は天文学的になる。 そのお金は「国費で負担」というが、それは我々が負担するという事と同じ意味だ。 電力会社にとって、また国民にとって「原子力発電は割に合わない」ものとなった。 まずは、石油・天然ガス・石炭への依存が高くなるのだろう。 しかも、それは全世界レベルの話。石油の枯渇は現実もののとなるだろう。 太陽光、風力は、僕のブログに度々登場する物ではあるが、非力で頼りない。 http://jp.bloguru.com/furyou/query/?search=%95%97%97%CD&go= http://jp.bloguru.com/furyou/query/?search=%91%BE%97z%8C%F5&go= 山手線内を太陽光パネルで満たして、原子力発電所1基分の電力を得ることができる。 これらで得られる電力は限定的で、得られるタイミングも需要予測と関わりを持たない。 予測の出来ない電力は、常にそれをバックアップするシステムが必要になる。そうすると、ますますコストが見合わなくなる。 僕は2009年9月にダムの時代が来ることを記載している。 http://jp.bloguru.com/furyou/b233469308/2009-09-25 まだ、こちらの方が、エネルギーを位置エネルギーとして保存する分、有利だと言える。 いずれにせよ、石油に依存しない社会を本気で作るなら、あらゆる自然エネルギーを使い、その中で可能な生活をおくる覚悟が必要だ。 温暖化ガス削減問題: 世界的に原子炉が停止され、化石燃料への依存が再び高まると、問題解決は不可能な方向に向かう。 これまでの予測通りであれば、急激な氷河の崩壊、海面上昇が始まる。 今回の津波のような被害は、大型台風で頻繁に起こるようになる。 解決策もある。 日本は、リーマンショック後の景気停滞によって、2009年度の温室効果ガス排出が90年比で-4.1%になった。 2007年度の排出量は逆に90年比+9.0%であることを考えると、経済活動を止めることが温暖化を防ぐと言う事実が明確になった。 「得られる自然エネルギーの範囲」が「許される経済活動の範囲」だという規制があれば、今後も環境は保たれる。 豊かな小国論の変化: これまで僕は日本の進む道は「豊かな小国」であると論じてきた。 http://jp.bloguru.com/furyou/6245/2008-01-11 しかし、経済という亡霊にしがみつき、我欲にまみれたこの計算は、時代の波に合わないのかもしれない。 なぜならば、現代の日本の若者は、物欲がない。 僕らの時代は、高級車や高級腕時計に憧れ、それらを手に入れるためにがむしゃらに働いてきた。 今は「車は乗れればなんでもいい」「成功する事よりも、安定した生活が出来ればいい」といった具合なのだ。 そういう意味で、日本が経済至上主義から、次のSTEPへ進むことは容易な環境にあること感じ始めている。 それは、「心の豊かな小国」という考え方である。 「別に頑張りすぎなくてもいいじゃないか!」 「楽しく仲良く暮らそうよ!」 「地球環境を守ろうよ!」 資本主義のその先にある価値観を先行する国。 次はそんなことを考えてみたい。 写真は、低炭素で低酸素なインドヒマラヤ峠の茶屋。 店も住居もここだけ。でもみんな一生懸命に生きている。
心斎橋アルゴのボトルコレクション。 この中からその日の気分でチョイスする。 また、グラスやその飲み方も数種類。 バリエーションは無数だ。 そして、味わう側の気分や健康状態も変化するので、感じ方は毎回微妙に変化する。 さて、今日のREBECCAは、どんな味だろうか?
みんなが想像する以上に甘いものではない。 福島第一原発の現場は、今日もギリギリのところで戦っている。 やっと電源の回復が進んではいるが、ここから先の作業は強力な放射線下でのものとなる。 正直、これほど破壊された建物の中で、まだ原子炉が遮蔽物として機能し続けるとは思っていなかった。 作業者の被ばく線量も発表されているが、それを分かったうえでその場所に立てる使命感に頭が下がる。 現地の懸命の作業のおかげで、今日の戦いは優勢にみえる。 長期的な影響を懸念されるニュースも出始めた。 野菜や牛乳は当然ながら汚染される。 数回の摂取では問題ないと言うが、食品とは毎日口にするものである。 僕ならば、その野菜を食べない。 政府は直ちに当面の出荷停止を決定し、国内の食品の安心と、日本製品の国際的な信頼を確保すべきである。 まずは放射能漏れを確実に止め、そのあと充分に調査を行い、その結果に基づく発表を行わなければ、政府の発表を信じる者はだれも居なくなる。
隠れ家を久しぶりに片づけてみた。 この風景だよなこの場所は。 脱、スーパーの袋。 生活感のかけらは、僕には要らない。 エコと言う言葉がはやった数年前、僕はエコの正体を書き続けた。 http://jp.bloguru.com/furyou/b244549911/2009-11-12 http://jp.bloguru.com/furyou/b146560412/2008-08-28 関東の緊急時には、個人の節電努力も実を結ぶ。 しかし、エコを語るならば、個人の努力よりも社会の仕組みが重要なのだ。 エコは人々を動かす社会の仕組み作りそのものなのだ。 津波が人々の価値観を変えたように、今しかできない事がある。 それが成し遂げられたとき、僕は本物の不良になれる。 エコ社会で、1969年式の9.4リッターのコルベットを、世間の白い眼の中で転がす異端になることができる。
温度管理はどんなものでも必要だ。 原子炉を憂いながら、今日も温度の確認に大忙しだ。 華氏38度で保管されたDom Perignonをオーダーする。 僕が飲むのなら1953年物なのだが、今夜はこのシケたボトルで我慢しよう。 ・・・といきがってみたものの、「あれ@@? 美味いね。。。」と本音がもれる。 まあ、たまにはシケた酒も悪くない。(lie) 僕は醸造アルコールにめっぽう弱く(断じて味はわかるのだが・・・)、この後は新地でべろんべろんで、眠り落ちる寸前で命からがら帰宅したなり。さらに、この酒は誰かのおごりだったと、うっすら記憶している。アタマいて。。。
環境を維持させながら、経済のレベルを確保する。 それが僕の「豊かな小国日本」という発想である。 世界の人口全てが、豊かに暮らしたのでは、地球環境は維持できない。 だから、人間の数を1/3にする。 それでも豊かな国があるのだという事を、世界に知らしめるのが日本の役割と考えてきた。 その為の日本の切り札が「原子力」だ。 日本はあたかも石油産出国のように豊かで、かつ高度なITを駆使して高効率な社会を形成できるという構想だ。 それを実現させるために、ボトルネックとなっていた高レベル放射性廃棄物を安全投棄する事が可能な「国」を日本国内に作ろうともしてきた。 それは、環境問題をクリアさせながら豊かに暮らす、非常に高度なバランスの上に成立する計画だ。 いや、僕の考えは、今や「だった」と表現すべきだろう。 ここ数日間の出来事は、全ての価値観を覆し、我欲を洗い落とす、まさに天罰のような出来事である。 資本主義の世界では「大きい事が偉い」わけである。 我々はもっと豊かに、もっと豊かになろうと、頑張ってきた。 業務は高効率化され、高度なコンピュータシステムなしでは競争に勝てない時代へと激変した。 街には、24時間明かりのついた店に全国から集められた商品が並び、我々はその中から幾つかだけを選択する。 夏は皆がエアコンを使い、排熱が街にあふれ、窓を開ける者はいない。 冬は「こたつ」で耐えていた地方でさえも、今や部屋中を暖めている。 本当に必要な商品の3倍〜10倍の物を生産し、エネルギーと資源を無駄にしても当然な社会。 そんな社会を我々は作ってきた。 さて、時間軸を昭和に戻してみると、そこにこれからのヒントがある。 共働きなんてしなくても食べていける。 夕食の買い物は夕方。24時間のコンビニなんてない。 明るくなったら起きて、夜は寝る。 夏には窓を開ければ、気持ちの良い風が入る。 旅行に行けば、そこでしか食べれないものに舌つづみを打つ。 ・・・この方が楽しくないか? エネルギー依存社会をやめる。 良いかもしれない。 これから、新しい形の昭和や江戸をみんなで考えないか? 方向性を持たない借金まみれの政治をやめさせて、何を理想とするかを明確にした国家はできないものだろうか? 原子力がダメなら、森林を伐採して「バイオ」だとか言う輩には、やはり天罰を!