0.15mgの憂鬱
6月
3日
飲まなかったと言うのは正確ではないが、たっぷりの刺身と、たっぷりの貝の煮付け、だし巻きの小をたいらげたときに、生ビールの小(350mlほど)を飲んだ。
そして朝。
青い空、明るい日差しのある爽やかな朝。
もちろん、アルコールの余韻などどこにも感じない。
だが、アルコール・チェッカーの数値は、0.05mg〜0.12mgを示した。
警察の検出機が、0.15mg以上を表示しない保証はどこにもない。
しかし、僕は明確に酔っ払っていないと断言できる。
だから、ハンドルを握る。
しかし、朝の通勤経路で飲酒検問をやっていたら?
早朝の魚市場の入り口で飲酒検問をやっていたら?
前日に少々多めに飲んだドライバーは、次々と検挙されるだろう。
世の中には自動車免許の欠格者があふれ、無免許運転者が急増する。
そんな社会がお望みか?
東京・大阪では飲酒の取り締まりは昔から厳しかったが、地方都市ではどうだった?
金曜日の那覇市内は、飲酒運転の車があふれていたし、高松では郊外に駐車場つきの居酒屋があった。
離島にひとつだけあるスナックには、車で来る客しかいない。
取締りが厳しい地域と、そうでない地域。
福岡の事例は、そんな中で生まれたと考えている。
法による厳罰化が、法の矛盾を生む。
必要なのは、緩やかな法律の中で厳格な取締りをすることなのだ。
厳格な取締りがあれば、だれも飲酒運転などしない。
そして、飲酒が原因による事故が発生したときに、はじめて犯罪が成立し厳罰が下されるべきだと考える。
飲酒に関する法規は、福岡の事例以前のものでも充分に厳しい。
だから僕は当時の法規に戻すべきだと考えている。
ただし、法は「厳格に運用せよ!」と言いたいのだ。
運用しない(取り締まらない)法律なら撤廃すればいいのでは?と考える。(極端に言うとチャイルドシートの義務化などだ。僕は取締りを見たことがないし、走行中のワンボックスカーの中で、子供が動き回っているのをよく見かける。)
ヒステリックに法による厳罰化を行う事で、犯罪を犯していない者を重罪に処すべきではない。
犯した犯罪に対して、厳罰を与えればいい。
それが大人の社会だと僕は思う。