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不良のアウトドア

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母の記憶

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母の記憶
樺太(サハリン)、真岡(ホルムスク)。
母の記憶と旧市街図をたどり、南へ北へ。
通訳とドライバーを従えての、短く濃い4日間だった。
祖母・叔母、そして母から聞いた樺太の思い出を、母と共に辿る大冒険旅は、今年の冒険旅の中で光り輝くに違いない。

写真は、旧王子製紙社宅に戦後間もなくから住んでいるロシア人のおばさんから、近隣の情報を得ようとしているところ。

この町は貧しく何もないけれど、治安の良さは抜群。
そして、みんな幸せそうな笑顔がある。
日本で忘れられた何かを感じる。


ロシアでは、近年の日本の主張とは違い、ヤルタの密約が強調される。
ヤルタの密約を知れば、北方領土問題は、国益のために解決することができるだろう。
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ヤルタ会談で対日戦争に必死だったアメリカがソ連に「日本を侵攻しないか? 褒美に侵攻した日本領土を与えるから」と秘密裏に話を持ちかける(ヤルタでの密約)。当初ソ連は日ソ中立条約もありドイツ戦で必死だったため、この話に乗り気ではなかった。
ソ連が対ドイツ戦に勝利。そのため兵力を日本に向ける事が可能となり、領土拡張の目的でアメリカとの密約である対日侵攻を実施する事になる。つまり、ソ連の対日侵攻はソ連が単独で行った事ではなく、アメリカとソ連による共同作業であった(計画=アメリカ、実施=ソ連)。
終戦である1945年8月15日を過ぎてもソ連軍の侵攻は止まなかった。しかし、太平洋戦争の国際的な本当の終戦日は(=日本以外にとっての終戦日は)降伏文章に調印した9月2日であり、ソ連から見れば(日本軍は停戦状態であったものの)戦時中であった。また、ソ連にとって「日本が早く降伏しては領土をぶんどれないので困る」という側面もあった。
終戦後、実際に占有した島部分だけでは飽き足らず、ソ連はアメリカに「北海道の留萌と釧路を結んだ線の北側をソ連領にしろ」と迫ったが、うすうすソ連を信用しなくなっていたアメリカは断固これを拒否した。
サンフランシスコ平和条約の際、島部分は歯舞諸島を含めて全部ソ連領という事でアメリカとソ連が調整。これを日本が呑む条件で日本の独立が回復された。よって「北方四島は勝手にソ連が占領している」というのは誤解であり、正しくは「アメリカとソ連が協議してソ連領とした」である。
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dote
doteさんからコメント
投稿日 2012-07-08 11:59

お母様が暮らしていた時代とは随分変わっていることでしょうね

日本に返還は実現、難しそうですね

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Mt.zaki
Mt.zakiさんからコメント
投稿日 2012-07-10 21:56

領土問題は戦争でしか解決しません。
何十年も前に失った領土にこだわり、官民の交流阻害要因になっているのならば、2島返還に合意し、前に進むことも国益だと考えます。

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