闇の夢と罪
1月
25日
タカマガハラで言うところの鳴女さんポジションだから、
なんかこう、主人公たちとはあえて
一線を引いているというか。
海ちゃんもそれをわかっているから、
その一線を飛び越えるのは難しいというか。
おまけに国の重鎮だから、
公的存在の部分が強くて、
クレフ自身、
私的な恋愛感情には蓋をしそうだし。
なんかもう、互いに封じ合っちゃって、
話が進まなそうで(笑)
やっぱ年齢差というか、
人生の経験値の差も大きいんだよな。
どうしてもお爺ちゃんと孫になっちゃって、
そのネックを越えられない(笑)
そういう意味では、プレセアの方がお似合いで、
実際、クレプレ二次小説も読んだことあるけど。
私の中では、プレセアはあくまでも
「過去の人」なんだよな。
そんで、シエラはどんなに頑張っても
プレセア以上にはなれなくて、
クレフへの秘めた想いもそのままのイメージで。
話はそれるけど、個人的に、
「プレセアの死」という真実を知って傷つくのは、
魔法戦士の3人娘よりも、
アスコットでは?と思ったりする。
自業自得っちゃ自業自得だけど、
真実を知ったときに、
一番闇に囚われそうなのは彼だと思う。
話がまとまらなくなってきた(笑)
とりあえず、緒方恵美さんのエメロード姫は
可愛くて儚くて素敵だと思う。
着地点そこ!?っていう感じだけど、
これで締めてみる(笑)
イーグルも好きだよ。
紫の儚い夜の風
1月
25日
私にとっての元祖はレイアースのクレ海かもしれない。
アスコットも好きなキャラではあるんだけど、
彼には、叶わない想いに見悶えていてほしい。
あるいは、国の最高位の魔導士と
好きな女性を巡ってバトってほしい(笑)
昔、クレ海の二次小説を
書こうとしたことがあったんだけど。
アニメだけだと、ふたりの関係性というか、
そこに至る経緯というかがあまりにも淡すぎて、
細かな部分が見えてこなくて。
原作読めば、そこら辺が掴めるかなぁと思って、
中古で原作買ったけど、
原作の海ちゃん、
そもそも、恋愛感情そのものを理解していないというか(笑)
ガチで「みんな大好きっ!!」って感じで(笑)
かろうじてアスコットが、
「一番仲の良いお友達」枠に収まったかなぁ??みたいな。
クレ海、アニメオリジナル設定だったんですね……?っていう。
なんていうか、アニメも原作もそれぞれ違う方向に惜しくて、
イメージ膨らませづらかった……。
あとクレ海、颯那智と違って
行動派のはずの海ちゃんが思うように動けないんだもの。
我慢ばっかりしてる構図しか浮かんでこなくて、
書いてても窮屈というか、何というか。
国のために身を挺して尽力するクレフのそばで、
切ない気持ちを抱え込んでいる構図しか浮かんでこない。
だから、書くのが億劫になってしまって、
お蔵入りしてしまった(苦笑)
そんな海ちゃんのキャラクターソング、
「せつなくて」。
久々に聴きたくなって探したら、
Youtubeでは見つからなかったけど、
ニコ動で発見した!
ログインしなくても見れたから、
会員登録してなくても見れるかも。
https://www.nicovideo.jp/watch/nm7754215
筆舌しがたい感情を心情と呼ぶ
1月
23日
ただ、最近思うのは。
「積み重ね」だったり、
「散りばめる」という表現だったりを嫌う
視聴者や読者がかなり増えて来たよなぁと。
某ヒットアニメ、私には何がそんなにおもしろいのかがわからない。
一話はめっちゃおもしろかったんだけどね。
二話も結構おもしろかった。
でも三話か四話あたりから、こりゃ無理だって見切ったわ。
主人公が語りすぎるんだもの。
いやいや、そんな、一か所でそんな風に一気に説明されてもwwっていう。
説明なんてせんでいいから、それ全部、
シーンとして描けや!って言いたくなる。
もっと丁寧に、描写してほしいと思う。
けど、そういう説明を良しとする
読者や視聴者が多いよなぁと。
小説にしたって、どう見たって小説とは思えない、
「プロットもどき」に感動した!!と称賛する人の多いこと。
別に個人の趣味や同人誌の類であれば、
どうこう言うつもりはないけど。
でも、商業誌として売り出すのであれば、
同人誌としてではなく、公式の作品として売り出すのであれば、
もっとやりようはあるだろうに、
なぜこんなんで売れるのかがわからない。
そんな作品がけっこうある。
でも、それを良しとする読者が多くてびっくりする。
映画のノベライズとかが特にそうかな。
「〇〇は××と思いました」と簡潔に明記してあるその一文を差して、
「映画ではわからなかった○○の心情が小説には書いてある!!」とか言われると、
もう、唖然としてしまって。
「心情」って、そんな軽い言葉だったのかなぁって。
だから、そういうのを踏まえると、
夜叉姫はまだ、よくできた方なのかなぁと。
コラボってる場合じゃないじゃんっ!!(もっとやれ)
1月
23日
初めて「夜に駆ける」の歌詞を
じっくり見ながら聴いてたら、
気づいてしまった。
この歌の意味。
てっきり、単なる恋愛ソングだと思ってたんだよ。
やっば。天気のいい日の朝に聴くような曲じゃなかった。
超、衝撃的すぎる。
「夜空ノムコウ」とコラボってる場合じゃないじゃん!!
コラボって中和してる場合じゃないよっ!!
いや、むしろもっと中和してくれっ!!
もう、マジでノリと雰囲気で欺いてくれ。
闇に咲く蝶と戯れを
1月
23日
橋姫にとっての揚羽は、「慰み」なんだ。
己の空虚さを埋めるために、
手懐けて利用する。
いわば、傷を舐め合う存在なんだ。
昼間の空いた時間には、
ふたりで花札でもすればいいよ。
香合わせでもすればいい。
何なら、胡琴の使い方を教えてもいいし。
うん、それだ。
徒に手折って傷を舐め合えばいいよ。
そんで抉られればいいよ。
共依存でもすればいい。
放り投げた祈りに乗せて
1月
22日
揚羽を身近に置いているのは、
那智に嫉妬する彼女をそばに置いているのは、
活力増強のためなんだけれど。
叶わない想いに身を焦がす彼女を身近で見ていて、
どんな気持ちなんだろうなぁと。
己に課せられた使命に孤独に耐えていた揚羽に、
かつての自分を重ね合わせたりはしないんだろうか。
生まれて初めてかけられた優しい言葉に、
心を震わせ、身を焦がす彼女に、
かつての自分を重ねて見たりはしないんだろうか。
共感、あるいは、同族嫌悪めいた気持ちを
抱いたりはしないんだろうか。
ああ、あれか?
桔梗にとっての死魂みたいな?
「哀れな女の魂たちよ……。私とともに来い……」みたいな?
けど、別に桔梗は自分の消滅を願ってはいないからなぁ……。
一時期、犬夜叉と一緒に地獄に落ちることは願ってたけど、
あれは、自分が地獄に行きたかったわけではなくて、
地獄に行くしかないから、でも一人では行きたくないから、
愛する人を道連れにしたいから、
だから犬夜叉を連れて行こうとしてただけで、
自分自身の消滅を願っていたわけではないからなぁ。
一方で、橋姫さまは。
呪いに呪った自分自身を消すために、
第二の自分を生み出すの?
第二の自分の嫉妬を食い物にするの?
そんな彼女にどう接するの?
わからないことだらけだ。
月光~I’m not God’s child~
1月
22日
「なんか違うんだよね」って思う。
みんな「神の子」になって歌おうとするから。
だから違うんだよな。
この人の奇抜な言動が目立った時。
「だって神の子だもんww」とか揶揄されてたけど。
神の子ではないことを、
この人自身が一番わかっていたのだと思う。
そうじゃないと、書けない歌だと思う。
歌えない歌だと思う。
この曲は、神になりたくてもなれない、
人間の叫びだと思う。
掌の記憶~哀しみのギターラ~
1月
22日
筆が。
理由はわかっている。
橋姫と揚羽の日常パートをイメージできないから。
花影の間のシーン、重鎮が集うシーン以外は、
夜ばっかりイメージしてたから。
颯太と揚羽の掛け合いはイメージできるけど、
橋姫と揚羽の掛け合いがイメージできない。
橋姫と揚羽の日常がイメージできないから、
積み重ねがイメージできないから、
那智たちがやってきてからの
ふたりのやりとりも書けないんだ。
……ってかマジで、
橋姫と揚羽、普段何を話すの……?(笑)
それがわからんから、
いきなり書こうとしても書けない。
滴露の療治者(チル・エナ)として、
役目を全うしようとするさなかで、
颯太に出会い、恋に落ちた揚羽。
一方で、漆黒の奏者(ハル・シテナ)として
胡琴を奏でること以外、
よすがを持たなかったために、
朔ノ宮に強く惹かれ、
駆け落ちした挙句、
捨てられて入水した美舟の自我を持つ橋姫。
己を最も呪い、
己の消滅を願っている橋姫。
ふたりの間に、
相通じるものがあるような気がする。
それが掴めれば、書ける気がする。
深い森
1月
20日
昔、友人たちがこぞって神楽よりも神無派で、
正直、全く理解ができなかった。
虚無の極みの神無より、
人間っぽい神楽がすごく好きだったから。
だけど、カップリングという意味では、
断然、殺リン派です。
そしてこの曲が大好き。
小説と脚本の違いと共通点
1月
18日
舞台の脚本を書いていて、
小説との違いにぶち当たり、
頭を悩ませたことがある。
脚本と小説。
一番の違いは、
地の文があるかないか。
小説はいわば、地の文の勝負。
もちろん、セリフの掛け合いも
大事なんだけど。
セリフだけ良くても、
地の文が書けないと、
味気ない作品になってしまう。
一方で。
脚本に、地の文なんてものは
存在しない。
あるのは、セリフとト書き。
つまりは、演者のセリフと動き、
そして、舞台装置の配置や動き。
これらで全てを表現するしかない。
ぶっちゃけ、「説明」ができない。
無理やりやろうとすれば、
超不自然なモノローグになる。
小説は、地の文なり、
心の声なり何なりで、
「説明」ができる。
その「説明」がいかにも説明っぽくて
嫌気が差すようなものになるのか、
あるいは説明っぽさをあまり感じさせない
自然なものになるのかは、
書き手の腕次第であって、
小説の特性によるものではない。
だけど、脚本で「説明」がしづらいのは、
脚本の特性によるもので、
それを理解せずして
「説明」しようとすると、
むやみにモノローグを多用した
不自然な作品になる。
だから、いかにセリフと動きだけで
表現するか。
それに非常に苦心した。
でも、今にして思えば、
その経験が、
小説を書く上でも生きているのかなと。
「廻り舞台と紡ぎ歌」を書くときに、
いかに「動き」で表現できるかを考えている。
登場人物たちがどう動き、
小道具や大道具をどう使うのか。
いかにして、
物語を映像として描き出すのか。
あくまでもそれらの「動き」を
地の文で表現しているから、
小説特有の手法を
使っているわけだけど。
頭の中では、ある種の「芝居」が
繰り広げられているというか。
そういう意味では、
「脚本」や「舞台」を
作り上げている感覚というか。
うまい具合に、
小説と芝居が融合しているというか。
そんな気がする。