<宝物のスクラップブックNO2~タナザラシの外郭環状線>
9月
4日
23区の周辺を通り、埼玉県南部~千葉県西部を回る自動車専用道路・・東京都内部分は約18キロ
計画が明らかになったのは、昭和41年3月。 たちまち地元から猛烈な反対運動が起こった。
地区ごとに反対規制同盟ができて<建設大臣~都議会>に陳情。
地区によっては10日に1回集会を開き。結束を固めている。
住民の声から~ <計画は寝耳に水>だった。 こんな大計画を立てるのに、地元の声を全然聞いていない。
これほどこじれた問題の原因は、<極秘に計画>をたて一方的に押し付けようとしたところにある。
事務当局では、あらかじめ<計画案>を出すと<蜂の巣>を、つついたような反対意見が出て、まとまるものもまとまらなくなると懸念していた。
小生の感覚では、もつれに拍車をかけたのは、当時の<美濃部都知事>が、<1人でも反対者がいれば十分に討議しなければいけない>の発言が最大原因だと信じている。
大泉JCでストップし長期間<塩漬け>になりました。 <石原都知事>の、誕生で計画が再開し<大深度地下利用案>に、変更して少しずつ進み始めた。
公共工事は時間をかけると当初の<予算>に比べ完成時には<莫大の費用>がかかる。
<費用効果~将来のクルマ社会>を、考えると結論は難しい。
いつの間にか<首都移転~地方に分散>の構想が消滅してしまい・<一極集中>になってしまった。 賛成派の<思う壺>だ。