副題:
新薬承認に至るまでに関わった研究、資金調達、治験、行政とのやりとりなど28年間の経験のまとめ。
1989年に先天性の疾患である鎌形赤血球の患者たちと出会い、痛みと死といつも面している壮絶な病気をもつ彼らの治療薬開発を思いたったのが28年前。それから、基礎研究、資金調達、治験を重ね、ついに2017年7月新薬としてのFDA承認を得た。この疾患を持つ成人患者には歴史上2つ目のFDA新薬承認であるが、小児患者にとっては史上初のFDA新薬承認となった。基礎研究、治験においての苦労もあったが、資金調達ではさらに苦い経験があり、機関投資家たちに騙されたといっても過言ではないようなエピソードもあった。行政とのやり取りでは難題もあり、時間もかかったが、常にサポートが感じられた。山あり谷ありの28年間から学んだことは多く、それらがこれから同じような仕事をする人々のアドバイスに少しでもなってくれることを願う。この経験において、何よりもありがたかったのは、多くの素晴らしい先輩や同僚, そして目標を共にして下さる、思いやりのある個人投資家の皆様に出会えたことである。
著書には、4分の1の奇跡(共著)、生命は「与える」と強くなる(サンマーク出版)、がある。
講師:新原 豊(にいはら ゆたか)氏 プロフィール
医学博士
エマウスメディカル株式会社最高経営責任者
UCLA医学部教授
1959年、東京生まれ。13歳の時に渡米。ハワイで高校を卒業し、カリフォルニア州の
ロマリンダ大学宗教学部を卒業。同大学医学部卒業。ハーバード大学公衆衛生学修士課程終了。
2000年、UCLA医学部准教授に就任。同年12月にエマウスメディカル社を設立。
2005年、医学部教授。
現在、これまで治療法がないとされてきた、鎌形赤血球病の治療薬を開発するエマウスメディカル社の最高経営責任者であり、今、アメリカの医学界で最も注目されている一人である。
講演内容:
この度、新薬がFDAで承認されました。
日本生まれの人間がFDAで新薬を承認されたのは初めてとのこと。
小さい頃は勉強には関心がなかったのですが、恩師にシュバイツァーの話を聞き、自分も「やりがいのある人生」を送りたいと思うようになりました。
そして、医師への道を志すことを決め、親に相談したところ、医学では米国が最先端だということで、先に渡米していた姉を頼ってハワイへ渡米。
もともとは医療宣教師になりたかったため、まずは宗教を勉強しました。その後医学部へ進み、医者となり、UCLAでガンと血液の勉強をすることになり、それから28年がたちました。
今日は、新薬開発までのこれまでの道のりをお話します。
もし、新薬開発の道に入る前、この仕事が28年かかると知っていたら、とりかからなかったと思います。しかし、時として知らないということが幸いとなり奇跡をもたらします。
CNBCが先日取り上げてくれた記事がありますが、25年前に始めた研究が実をなしたとかいてくださりました。
鎌形赤血球病は、ガンではないのですが、1990年ごろからある抗がん剤を使うと症状が治まるということで、その抗がん剤の使用が唯一の治療となりました。しかしそこには副作用も多く、私どもはそれ以上の治療法が必ずあると考え1992年から本格的に研究を始めました。
わたしがこの病気を研究するようになった理由は次の理由からでした。
1989年:腫瘍専門医を目指し、腫瘍内科の上席研修医となり3年間勉強をすることになりました。その際、腫瘍の勉強をすると、血液の勉強も必須となっておりました。
そして、血液学の勉強をしているとき鎌形赤血球の患者さんたちに出会ったのです。
鎌形赤血球症というのは、遺伝性の勉強で、黒人・ヒスパニックの方に起こる病気です。
アジアではインド、中東エリアでも見られます。
この病気の遺伝子を片方の親からだけ受け継ぐとマラリアに対して免疫をもつのですが、残念なことに、両親からその遺伝性の病気をもらってしまうと、とても症状のひどい鎌形赤血球症という病気となってしまいます。
鎌形赤血球症というのは、当時の自分と同じ世代の若い患者が多く、痛みもひどく、合併症も引き起こします。アフリカでは5歳までで死亡する例がほとんどです。先進国では感染病の合併症を防ぐことにより、平均寿命は40代の半ばぐらいとなっています。
私が29歳の時担当した患者さんたちは(10名)、頻繁に毎週、痛みを訴えて病院に来るのですが、
モルヒネを打っても全くきかず、患者さんが自分で呼吸ができなくなってしまうこともありました。
激痛を訴えるのですが、それが頻繁なため、麻薬が欲しい人たちではないかと当時は病院にも疑われている方もいらっしゃいました。
しかし、診療を続けるうちに、その病気がもっとわかるようになり、これといった治療法が無く、医療機関の人々にも誤解されているそれらの患者さんたちを助けたいと思うようになりました。
そんなころ、研修医卒業後、腫瘍科に籍をおくことで内定してしていた自分にそれらの患者さんたちを専門に診る血液内科へ将来進まないかとの誘いを受け、そちらに進むすることを決意しました。
鎌形赤血球症の患者さんを診ていて、1日でも寿命を伸ばしてあげたい、痛みを取り除いてあげたい、そんな思いを持って、血液内科にうつりました。
そして、働くことになったUCLAのハーバーUCLAメディカルセンターは、まだカリフォルニアに来たばかりの当時、医学部に進んでもいない自分が、その外観をみて、こんなところで働けたらと思った病院でした。
鎌形赤血球症:
血液が変形するだけではなく、硬くなってしまい、毛細血管を詰まらせてしまうため、詰まった血管のまわりの細胞が壊死して、やがて臓器不全などを引き起こす疾患です。
ようするに、脳梗塞のような状態が体中にいつもおきているような病気です。
そして、内科的に知られている病気の数々が合併症として発症します。
本当に悲惨な病気です。臓器不全は10代から20代のころにははっきりと表れます。
私は、研修を終えたら大学を去り、開業、もしくは医療宣教師を考えていました。しかし前記にありましたように、まず大学の腫瘍内科医からの誘いを受け、そのあと血液内科から誘いを受け、大学に残ることにしました。
大学の仕事はとても有意義なものとなっていったのですが、病院勤務が終わるのが午後8時、それから研究室に行き実験、論文という生活になり、時間のバランスをとるのに始めは戸惑いました。
研究を始めるにも、自分の考えを証明に至らせる仕事にかかる前に、まず周りの人たちに自分の仮説を納得させるためにプレゼンをする必要がありました。
自分ではうまくいくと思っても、周りの人たちは同じ考えを持っているわけではなく、いろんな意見を聞くことになります。それに対し、アイデアを先に進めるためには自分の意見を論文以上の文章にまとめたり、口頭で説明したりしながら、周りを説得する必要となりました。
そして、研究論文を出せたとしても、評価は様々で、最初に描かれる論評は酷評ばかりでしたが、それが当たり前なのだとやがて気付き、すこし図々しくなり、また打たれ強くなっていきました。
一生懸命かんがえ、仮説を訴えても、なかなかうまくいかないことがほとんどでしたが、なんとか
それらを乗り越えたとしても、次なる壁は資金調達でした。
最初は3000ドルの助成金をもらいましたが、それをもらうために、100ページから200ページの書類を一年に五回くらいだし、結果助成金をもらえるのは、そのうちの一回くらい。
これまで先輩がされてきた研究の礎をもとに自分の研究をすすめていくのですが、
やはり多くの反対意見、異論が出てきます。
そんな時、偉人伝などを読んでいると、すんなり物事を進めた人が少なかったことに気づき、
自分も諦めないで研究を続けました。
大学で教える仕事も結構わたしには大変で、テストを作る作業は特に大変でした。
クラスで教える時間、病棟で研究生を教える時間、そういった時間が結構あるので、研究の時間は限られたものでしたが、やがて助成金など得ることができ、助手を雇ったり、実験器具も購入するなどしながら、徐々に時間を作ることもできるようになっていきました。
研究を続けるには、忍耐力と裏付けのある仮説を立てることが大切とそのころから感じております。
自分が出したい結果にどんな因子が影響するのかを見極めることも大切で、それらを見落とすと自分の期待していた結果とは全く違うものがでてきました。
鎌形赤血球症の治療薬を開発するにあたり、鎌形赤血球特有の新陳代謝を利用することに思い当たりました。
パイロットスタディーとして、治験を行い、国立衛生研究局への助成金の申請を行っていたのですが、その難関の助成金申請を3年目に突破することができました。
国立衛生申請局への助成金申請は他の助成金申請と少し違い、大学では必ず通ならければいけない壁で、上位5%くらいにならないと通らないと言われています。
本当は国立衛生研究局の助成金はもらえないと思っていたので、3度失敗したら、大学を去り、医療宣教師の道に行こうと思ってました。しかし、こうして助成金が通り、研究を続行なったのです。
そして、その次にはFDAの助成金ももらえることが決まり、
研究を続けることになりました。
しかし、どんなに良い結果を出しても、製薬会社は興味を持ってくれません。
というのも鎌形赤血球症は患者数が少ないため希少疾患として扱われ、ビジネスにならないと思われていたからです。
現在は、希少病こそビジネスになるということで、製薬会社も興味を持ってくれていますが、当時はそうではありませんでした。
私は助成金を申請し、研究をすすめている間、多くの方々の力をお借りし、助成金以外に500万ドルを集め第二次治験を行うことができました。
第二次治験の次は第3次治験です。そしてそのために1億ドルを集めることができたのです。
このお金はどうやって集めたのか、自分でもよく覚えていないのですが、いつも投資してくれる人を探して頭を下げていました。本当に感謝な気持ちと不思議な経験をした気持ちいっぱいです。
そして、私たちが開発を進めてきた新薬はこれらの患者さんたちに多くあるクリーゼを抑え、その上急性胸部症候群で呼吸ができなくなってしまう患者さんを63%も減らすことができました。
FDAもその結果をとても喜んでくださりました。
FDAへの新薬承認申請に関し、2万ページの書類が準備され2016年9月に提出いたしました。そして2016年11月に申請が受け入れられ、PUDFA(承認を決定する日)を2017年7月7日と設定されました。
しかし、1月、諮問委員会への出席を要請されます。諮問委員会は5月に行われましたが、この出席までの準備に100万ドルかかりました。
諮問委員会に呼ばれるということは何か問題があるということだと思うのですが、あとで聞いた話、世界にこの新薬の情報を発信する準備ために出席を要請されたようです。
そして、5月24日、諮問委員会においてFDA新薬承認することを推薦され、FDAからの様々な要請に応えるべく孤軍奮闘の日々となります。
2017年7月7日朝7時FDAから正式認証の連絡が電話とメールで届きました。
この時点で、SNSのViewは1日に4000人程度となっていました。
これまで希少疾患は製薬会社が見向きもしないものでしたが、今はそれが大きく変わっていて、他の会社も希少疾患の薬を開発しようと試みていますが、なかなかうまくいかない現状があります。
この28年間に出会った難関
毎月70万ドルから100万ドルを必要とし、それを、とにかく毎月調達するために頑張りました。
機関投資家は多くの場合、会社と個人投資家たちよりも有利になる、または会社と個人投資家たちに不利になる条件をつけようとしますのでそれらをできるだけ避けるようにしたのですが、会社が順調にデータを治験で出し始めたころ、彼らにつかまり、一度私は社長を辞めさせられました。いわゆる乗っ取りです。
私は一度は諦めようと思ったのですが、調査をいろいろした結果、いち投資家として訴訟することができる箇所をみつけたのです。そして腕利きの弁護士をつけ、個人資産を使って訴訟に入ることを決意しました。
そして、訴訟準備を整え、先方に明日訴訟を起こしますと告知したら、30分で撤退をするという
返事が来ました。少しあっけにとられました。
その機関投資家は毎年いろいろな会社を1つづつ潰し、利益を上げていっていた会社で、今訴訟を起こされると、今後のビジネスができないと思い、わたしの会社からは引き上げることを決意したようです。
それらのこともあり、ここまでの投資はほとんどが個人投資家によるものです。
艱難を通して、ここまで研究に関しても、良い意見と悪い意見があることがわかりました。
中にはわざと意地悪な意見を言う人もいることがわかり、良い勉強となりました。
97年に助成金をもらった時、ある大学教授から「手伝いたい」という連絡が来ました。
その方はこれまでのキャリアもあったので信用をしていたのですが、私が送った論文を内容を変えずに勝手に名前を変えて提出し、助成金を申請していることが発覚しました。そして、今後一緒に研究を続けていくことができないことを告げると、激怒。そして、私の研究を批判する側にまわりました。
当時、批判側の人たちは、私たちの研究へ非協力的だったのですが、今となっては、180度態度を変え、みんなが私たちの味方になっています。
経済的な艱難と言えば、FDAの申請など、コンサルタントを雇う必要があり、その費用は膨大です。
しかしそんな中、コンサルタントも様々で、1時間1000ドルチャージする人もいます。
ただ、無能な人や、嘘をつくコンサルタントもおり、簡単に解雇できない場合もありました。
良いコンサルタントを見つけると仕事はスムーズにいきますが、悪いコンサルタントに出会ってしまったが故に、お金と時間を無駄使いすることになりました。
また会計士も同じです。
良いコンサルタント、会計士を見つけると、時間の節約にもなり、手間も省け、またお金の節約にも繋がります。
こうした経験から人を見る目も養われました。
お金が必要なため、いろいろなところに出かけて行っていたので、 詐欺師にもあいました。はじめはまんまと騙されてしまいましたが、私たちの会社は全ての証拠を持っていたので、詐欺師との訴訟に勝つこともできました。
このように大変なこともたくさんありましたが、良い投資家との出会い、患者さんたちの喜びの声、そして、小さなステップでも乗り越えるたびに達成感を味わうことができ、仕事が続けられたことの喜びもありました。ありがたいことです。
今はこの先、大きなプロジェクトをいくつも抱える状況になっています。
沖縄に先日行ってきましたが、私たちの薬はサトウキビが原料になっています。薬の原料も日本のものを使い、いろいろな意味で日本にも貢献できたらと思っています。
二十九歳からはじめたこの仕事ですが、これまで28年間、続けてこられたのは支援してくださった皆さまへのおかげです。心からの感謝を申し上げます。
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FDAが許可になったというニュースです。
8/15/2017にKABC and KFI で放送されたものです。
https://drive.google.com/file/d/0BxvPhIj89bEYbHFzdTBNVGJwRVE/view?ts=5994dcc4