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日章旗 80年ぶり古里に 旧養老村出身・黄前さん遺品
第2次世界大戦の沖縄戦で戦死した旧養老村(現・宮津市)出身の日本兵、黄前典夫さんの持っていた寄せ書き入りの日章旗が、保管されていた米国から遺族に返還された。日本兵の遺品返還活動に尽力している米オレゴン州のNPO「OBONソサエティ」と、日本の遺族会の協力で約80年ぶりに古里に戻り、地元の家族の涙を誘った。
米から返還 子どもら「感激」
NPOによると、典夫さんは1915年生まれ。沖縄戦に兵士として赴き、45年4月に爆風で飛んできた金属片を受けて戦死したという。
日章旗はニューメキシコ州の米軍兵、エルマー・ヤングさんが戦地で見つけて保管していた。ヤングさんが亡くなり、家族のロバートさんが2020年4月、NPOに対し、持ち主に返すよう依頼。協力の依頼を受けた与謝郡遺族連合会などが典夫さんの遺族を捜し出した。
与謝野町の知遊館で15日に返還式があり、典夫さんのそれぞれ長男、長女で、織物業黄前国忠さん(83)(与謝野町)と、山本洋子さん(81)(宮津市)に、たばこ入れと仏画入れとともに返された。ロバートさんは「戦場で遺留品を取得し、敬意を込めて大切に保管した。返還が慰めをもたらしますように」とのメッセージを寄せた。
旗には「武運長久」「心身健全」などと書かれ、多数の署名もあった。国忠さんは幼かったため父の典夫さんの顔を覚えていないといい、「この日を迎えられ言葉に尽くせないほど感激している。(旗を)見ただけで涙が出る」とハンカチで目頭を押さえていた。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyoto/news/20220516-OYTNT50082/?fbclid=IwAR1inBR8WUBlEhHzlENsBW8QEs0UqaECo3SRtsKdZj403bDHKoApWYvv_JQ
5月15日に京都府与謝郡与謝野町にて執り行われました、同郡奥波見出身陸軍兵士「黄前典夫命」の遺霊品返還式について京都新聞が記事を掲載してくださいました。
返還された日章旗を手にする遺族の根岸信明さん(左)と小林哲也・熊谷市長=埼玉県の熊谷市役所で2022年5月13日午前9時31分、中山信撮影
太平洋戦争が終わる2カ月前の1945年6月、フィリピンのルソン島で23歳で戦死した元日本陸軍兵長の根岸愛三郎さん=旧大里郡吉見村(現埼玉県熊谷市)出身=が戦地に持参した日章旗が13日、77年ぶりに遺族の元に戻った。
「祈武運長久」などの文字とともに、家族や地域の人々ら約80人が名前を寄せ書きした日章旗は元米兵が戦地から持ち帰り、テネシー州在住の米国人が大切に保管していた。保管者が戦没者の遺留品を日本の遺族に返還する活動をしている米国の非営利団体「OBONソサエティ」に返還を依頼。日本国内の遺族会組織が調査した結果、根岸さんの弟の子で、実家を継いでいる元熊谷市職員の根岸信明さん(71)らの遺族が判明した。
13日に熊谷市役所であった返還式では栗原健昇・同市遺族連合会会長から根岸さんに横約1メートル、縦約70センチの日章旗が手渡された。栗原会長は「保管していた方は『この旗の返還によって皆様方のお心が少しでも慰められるよう望んでいます』とコメントを寄せています。80年近くたっても戦後はまだ終わっていないという気がします」とあいさつした。
根岸愛三郎さんは妻と2人の娘を残して亡くなった。おいの根岸信明さんは「話を聞いた時は大変驚きました。出征した伯父、寄せ書きをした人たちの気持ちはどうだったのか。戦争の悲惨さを感じます。供養のうえ、後世に引き継ぐ資料として市立図書館に寄贈したい」と話した。
https://mainichi.jp/articles/20220513/k00/00m/040/124000c?fbclid=IwAR1HbVj0pEyizeTcHJclA0xdkdjM-ok-PLGCqFfanIoptaLCAURC_fil4Cw
来たる5月15日(日)に京都府与謝郡にて執り行われる日章旗返還式について本日「京都府庁記者クラブ」にプレスリリースを出しました。
追記:水落会長の参列は代理者になりました。
4月8日石川県能美市にて同町出身の海軍兵士「田端秀雄 命」の日章旗が石川県遺族連合会から兵士の甥である「田端駿一」さんに返還されました。返還の様子を北國新聞が記事にしてくださいました。
右近恒雄命の義理の息子にあたる市名豊治さん
子供たちを想いカタカナで綴られた葉書
捜索班の工藤です。令和4年4月3日、硫黄島で散華された日本海軍兵士「右近恒雄 命」の遺留品をご遺族へ返還する為、北海道の美深町を訪れました。
遺留品は「右近恒雄 命」が郷里に住む5人の子供たちへ宛てた葉書でした。葉書には幼い子供たちに「仲良く、病気や怪我に気を付け勉強に励み叔母さんの言う事を聞くのですよ」と全文がカタカナで綴られてありました。
返還を受けられたのは兵士の末娘、御年83歳になられる「恒子」さんでした。しかしながら恒子さんは返還の数日前に怪我をされて入院されており、代わりに恒子さんのご主人が葉書を受け取られました。ご夫妻の住まわれる高齢者施設へは昨今のコロナ過という事もあり、入室が制限されてあるため返還は施設の玄関風除室で行われました。職員さんが風除室に椅子を用意して下さりそこで膝を突き合わせ、風呂敷の上で行われた小さなセレモニーでした。
風呂敷から取り出した葉書を見られたご主人は「子供たちが読めるように全部カタカナで書いたんですね」と義理の父の、子を思う優しさを感じていたようでした。OBONからは当会からのメッセージと、遺留品の提供者である米国フロリダ州在住の「マージョリー・ダネヒー」さんからのお手紙についてお話しました。
この時期の北海道は4月とは言え外気温は7度ほど、風除室も外とたいして変わらない温度なので長居は出来ないと判断しなるべくショートカットで進めました。私からは恒雄さんが硫黄島警備隊に配属されており葉書に記された記号などから、恒雄さんは摺鉢山での戦いに参戦されていたであろうこと。戦没日の3月17日は日本軍が上陸した米軍に対し総攻撃を開始した日である事。遺留品の葉書は恒雄さんが郵便としてだされた後に接収された事などOBONの調査で判明した事をお話しました。ご主人はずっと葉書を手に持ち見つめながら話を聞かれていました。私から「恒子さんはこの返還について何かおっしゃてましたか」とお聞きしました。「きっとこの葉書を手にしたら話してくれると思う」と仰ってました。またご主人はゆっくりと口を開き「5人兄妹でね、戦争でお父さんをなくしてからはお母さんが一人で布団屋さんを切り盛りして子供たちを育てたんだよ。布団の修理とか打ち直しなんかをね一人でやってね。。お父さんが硫黄島で戦死した。。。」ここから泣き崩れてしまいその言葉は聞き取れませんでしたが、きっと恒子さんから幼い頃の話を聞いておられたのでしょうか、それともこの世代の皆さんが一様に経験した戦争という悲劇を思い返されていたのでしょうか。そんな色んな感情の混ざった涙だったと感じました。
恒雄命の子供たちは恒子さんを含め3人がご存命で、この返還を待ち望んでおられると仰ってました。色々と落ち着いたらきっと皆で集まりお披露目したいとお話されていました。
この度の返還、誠におめでとうございました。
終戦からことしで77年となる中、アメリカ兵が持ち帰った日本兵の遺品が、滋賀県の遺族に返還されました。
家族や友人の思いが書き込まれた日章旗。太平洋戦争で戦地に向かう兵士に託されました。
これらはアメリカ兵が自国に持ち帰っていたもので、アメリカのNPO団体が遺族に返還する活動を続けていて、26日は日章旗3枚が遺族に返されました。
フィリピンのレイテ島で20歳で戦死した大継昇さんの旗は、おいの井上準一さんが受けとりました。
【井上準一さん(71)】
「20歳で亡くなるという戦争の怖さ。ウクライナの戦争で本当にわが身にこう迫ってくるというか。もしまた日本で戦争があったら…もうやめて欲しいという気持ちです」
NPO団体は日章旗などを多く集めていて、持ち主の遺族を探しています。
【動画あり】
https://news.yahoo.co.jp/articles/ada659d0f624c75a6441d6c540168ec39cf3b344?fbclid=IwAR1PrXcdIeoP-rxwxIaqCwe8vKfuLLPWDlXNYiLRw7nNJOjjwlU1iA7gfyI
【滋賀】太平洋戦争に出征した人らが戦地などに持って行った日章旗の所有者3人が分かり、2月27日に大津市で遺族への返還式があった。いずれも米国にあったもので、戦後77年を経て太平洋を越えて滋賀に戻ってきた。返還活動を続けるオレゴン州のボランティア団体「OBONソサエティ」と県遺族会の協力で実現した。
3人は長浜市の吉田元弘さん(享年75)、東近江市の布施長左衛門さん(同72)、湖南市の大継昇さん(同21)。
3枚の日章旗はいずれも「武運長久」の文字と、出征者の名前、知人と思われる人たちの名前が記されている。当時、出征する兵士に故郷の人たちが贈るのが習わしだった。何らかの方法で、米兵らが戦地などから米国に持ち帰ったものという。
吉田元弘さんの日章旗は、長男の源市さん(67)が受け取った。元弘さんは中国大陸に出征したが、生前は戦争の話をほとんどしなかったという。「つらい思いをしたんだと思う。まさかこんなものが残っているとは思っていなかった」
今年、27回忌の法要を予定している。子や孫に日章旗を見せることを考えている。源市さんは「平和の大切さを伝えたいと思います」と話した。
布施長左衛門さんの日章旗は、長男の吉蔵さん(66)が受け取った。長左衛門さんは広島県呉市の軍港で勤務していた。「軍艦のメンテナンスなどをしていたと聞いたことがある。なぜ日章旗がアメリカにあったのか不思議だ」と首をかしげる。
軍服姿の写真が残っているが、戦争の話はあまり聞かなかった。戦後は農業や大工の仕事に打ち込んでいたといい、父の在りし日を懐かしんでいた。
大継昇さんの日章旗は、おいの井上準一さん(71)が受け取った。井上さんは大継さんの死後に生まれたので面識はないが、親類から「列車の窓から手を振って泣きながら出征していった」という話を聞かされたことはある。
大継さんはフィリピンのレイテ島で亡くなった。「70年以上たって日本に旗が帰ってくるなんて、感無量です。信じられません」と驚いていた。(奥平真也)
https://www.asahi.com/articles/ASQ317L0CQ2WPTJB001.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
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