太平洋戦争の激戦地・ガダルカナル島で1942年、23歳で戦死した新江(あらえ)繁規さんが戦地に持って行ったとみられる寄せ書き付きの日章旗が、79年を経て故郷の北見市常呂町に届けられた。9人きょうだいの長男だった新江さん。遺骨もなく、実家近くに住む妹の中股かず子さん(93)は「兄がやっと帰って来られた」と涙を流した。
新江さんは、盛岡の旧陸軍予備士官学校から旭川市の旧陸軍第七師団一木支援隊に配属された。日本側に約2万人の犠牲者が出たソロモン諸島のガダルカナル島で、米軍との地上戦のさなかの42年8月21日に戦死した。
新江さんが常呂を離れたのは21歳の時。3番目の妹で、13歳だった中股さんは、その時のことを覚えている。「網走駅まで一緒に行き見送った。窓から身を乗り出し手を振っていた」。兄は「自分の分まで親孝行を」と頼んだという。「優しい兄でした」
日の丸の右上に「贈新江繁規君」と筆書きされた日章旗は、米軍パイロットだったルイス・ソワーズさん(2001年死去)が持っていた。遺品を預かったおいのマーク・シェルトンさんが日章旗返還運動を知り、米国の団体「OBONソサエティ」に託した。最終的に北見市遺族会に連絡が入り、約2年で遺族にたどりついた。
激戦を物語るように、旗は傷みが激しい。「武運長久」「不惜身命」「頑張レ」などの寄せ書きについて、中股さんは「就職先か士官学校の仲間が書いてくれたのでは」と話す。
6日に町内であった返還式には、妹の渡部規子さん(85)=江別市=と工藤早苗さん(80)=札幌市=も出席。兄の遺品と79年ぶりの対面を果たした。実家の仏前に、肖像画と一緒に飾る予定という。中股さんは「遺骨も戻らなかったので、唯一の形見。長生きしてよかった」と返還活動団体や保管してくれていたシェラトンさんらに感謝していた。
「OBONソサエティ」スタッフの工藤公督さん(47)によると、これまで返還を託された約2000枚のうち約400枚が遺族の元に戻った。道内では札幌市、千歳市、雨竜町に次いで4例目という。https://mainichi.jp/articles/20211106/k00/00m/040/245000c?fbclid=IwAR3_RjFH8OyQ_rlHBLZV3np2kIJX5TT0pkNtJ3LOjCW9d5_1Lj7MoRx7x5k
太平洋戦争で戦死した北見市出身の男性が戦地へ持って行った日章旗が
6日、79年ぶりに遺族のもとに返還されました。
北見市常呂町出身の新江繁規さんは、1942年8月、太平洋戦争で出征していたガダルカナル島で戦死しました。当時23歳でした。
その後、新江さんが戦地に持って行った日章旗を元アメリカ兵のパイロットの男性が保管していたことから、遺族への返還が実現することになり、6日、返還式が行われました。
式には、遺族を代表して妹の中股かず子さんや遺品の返還を行っているアメリカの団体の職員などが出席しました。
ビデオメッセージで、団体の代表が保管していた男性のおい、マーク・シェルトンさんの手紙として、「新江さんが生きた証である日章旗の返還で心に区切りがもたらされれば」と読み上げたあと、旗が返されました。
日章旗には、戦地へ行く際、当時の勤務先の人などから贈られたとみられる寄せ書きが書かれています。
受け取った中股さんたちは「やっと返ってきた」などと話しながら涙を拭っていました。
中股さんは「島は激戦地だったので旗が戻るとは夢にも思わず、当時戻らなかった兄の遺骨が帰ってきた気がします」と話していました。
https://www.youtube.com/watch?v=655lVmjokk0
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20211106/7000039955.html?fbclid=IwAR1V3L8CdxIa_Y4jiMpSNllblcpooqSzJLh13BtIsQGyWwsomGdJhRwsThU
米国で長年保管されていた日章旗が1945年8月に中国北東部(旧満州)で戦死した長崎市出身の松尾昇さん(享年29)のものと分かり5日、同市城栄町の県護国神社で遺族に返還された。おいの松尾豊彦さん(84)=諫早市馬渡町=は戦後76年をへて手にした日章旗に「お帰りなさい」と声を掛けた。
旧陸軍の歩兵隊員だった昇さんは終戦間際、旧ソ連軍との戦闘で死亡した。昇さんの日章旗が米国に渡った経緯は不明で、米モンタナ州の米国人が知人から譲り受けて保管し、今年になって返還活動を続ける米国の非営利団体「OBON(オボン)ソサエティ」に提供。
同団体の日本人スタッフが持ち主を捜し、日本遺族会県連合遺族会が遺族を探し出した。
返還式で同遺族会の山下裕子会長(79)は「古里に帰られてお喜びと思います」と日章旗を遺族代表の豊彦さんに手渡した。豊彦さんは「叔父の記憶はないが『俺が帰ってくるまで元気でいてくれて、ありがとう』と声を掛けてもらったような気がした」と話した。
大戦中、出征した日本兵のほとんどが「寄せ書き日の丸」と呼ばれる日章旗をお守りのように携えた。その多くが戦場から戦利品として米兵らに持ち去られたという。
今回、日章旗には長崎高商(長崎大経済学部の前身)の柔道部の後輩たちが武運の祈りを込めて寄せ書きをしていた。「OBONソサエティ」スタッフで同学部卒業生の山本貴久さん(61)=熊本市=が大学の先輩と気づき、力が入ったという。
「贈松尾」と名字しか書かれておらず、山本さんは同窓会の協力を得て、寄せ書きした後輩の名前や柔道部の対戦表などから昇さんと特定した。返還式に駆け付けた山本さんは「先輩はとても柔道が強かったようだ。柔道部の後輩もきっと喜んでくれるはず」と安堵(あんど)の表情を浮かべた。
https://nordot.app/829523868699082752?c=174761113988793844&fbclid=IwAR0V7XFU2bFkTWj0wC0wJafpdnK8PQDG3CucQXyRUxn8R4G6DPr8z7cL1IE
【北見】太平洋戦争中の1942年(昭和17年)8月に、ソロモン諸島のガダルカナル島で戦死した北見市常呂町(旧常呂村)出身の新江繁規さん(享年23歳)が戦地で持っていた日章旗が11月6日、新江さんの妹で同町に住む中股かず子さん(93)ら遺族に返還される。元米軍パイロットの親族が長年保管し、旧日本兵の遺品返還を進める米国の非営利団体「OBONソサエティ」の仲介で実現した。
日章旗を持ち帰った元米軍パイロットのルイス・ソワーズさん(2001年没)の親族が、テレビで日章旗に関する番組を見たのがきっかけで19年6月に同団体に連絡。札幌在住の同団体スタッフ工藤公督(こうすけ)さん(47)が約2年かけて遺族を探し出し、今年8月に道連合遺族会を通じて中股さんに連絡した。
同団体や中股さんによると、新江さんは盛岡の旧陸軍予備士官学校を経て旭川の旧陸軍第七師団に所属。同師団で編成された一木支隊の「熊第九二〇七部隊」としてガダルカナル島へ移動した。42年8月20日夜、米軍に占拠された飛行場の奪還を試みたガダルカナル島の戦いで、同隊は待ち伏せしていた米軍の攻撃を受け全滅した。新江さんは翌日この戦いが元で死亡したとみられる。
日章旗は縦70センチ、横95センチ。「贈 新江繁規君」「不惜身命」などの寄せ書きがあり、出征時に渡された可能性が高いという。中股さんは、「兄の遺品はほとんど残っておらず、日章旗が戻るのは兄が帰ってきたのと同じ。感無量です」と感謝する。
2009年から活動するOBONソサエティは、これまでに全国で400枚以上の日章旗を返還。道内では15年の札幌、千歳、今年8月の空知管内雨竜町に続く4例目となる。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/606160?rct=n_society
土佐清水市三崎出身で1945(昭和20)年6月、フィリピン・ルソン島で戦死した段崎初見さん(享年22)の日章旗が保管先の米国から〝里帰り〟し25日、市役所で遺族らに返還された。
段崎さんは陸軍兵長で船舶工兵だったという。日章旗には「武運長久」の文字と共に35人ほどが寄せ書きをしている。ハワイ州在住のクローイ・友美・グリアーさんの祖父が戦地から持ち帰り、家族で大切に保管していた。
クローイさんの父親は「持ち主を捜し出してほしい」と話していたが、今年6月に死去。クローイさんの親族が、日本兵の遺留品返還活動に取り組む米国の民間団体に調査を依頼し、連絡を受けた同市三崎地区遺族会などの協力で遺族が判明した。
段崎さんは5人きょうだい。妹の矢野川美雪さん(86)=大阪府八尾市=によると大阪に出て働き、仕送りで家族を支えた。出征時に帰高し「えい子でおれよ。大きなれよ」と頭をなでてくれた。優しい兄で、戦地からのはがきには「ヤシの木陰で遊ぶ子どもを見たら、美雪を思い出す」とつづっていた。
県遺族会が返還式を開き、段崎さんのめいで土佐清水市宗呂丙、井村由利さん(72)ら遺族8人が出席。戦死の知らせを受けた段崎さんの母親が泣き崩れた様子などを語り合い、故人をしのんだ。クローイさんが父親の気持ちをつづった手紙の和訳も朗読された。
井村さんは「今まで保管してくれたことに驚いたし、ありがたい。叔父さんが故郷に帰ってきた気がします」と話していた。
https://www.kochinews.co.jp/article/detail/517409?fbclid=IwAR0ZzkBSIHanZSx3wptfmFUzrxKEzPowCj1Xht9ISdCpIg-GOhWOxl7Deqg
太平洋戦争時に米兵ら連合国軍兵士が持ち帰った日章旗を旧日本兵の遺族へ返還する米国の団体「OBONソサエティ」のスタッフを務める。札幌市内で内装業を営むかたわら、遺族を捜し、これまで400枚以上をゆかりの人々の手に戻してきた。
札幌出身。1990年に札幌の高校に進学したが「肌に合わず」、同年末に単身渡米。米在住の父親の友人の世話でアイダホ州の高校に入った。戦争を意識するきっかけはアメリカンフットボールだった。果敢に走る姿を仲間が「カミカゼ」と呼んだ。当時は深く考えなかったが、21歳で帰国した後、太平洋戦争の戦史を読むようになった。
2013年、フェイスブックで旗の返還活動を知り、衝撃を受けた。日本兵は出征前、地域の人から日の丸に寄せ書きをもらい戦場へ持参。連合国軍兵士は、倒れた日本兵から戦利品として旗を奪っていた。「英語と日本語、歴史が分かる自分がやらねば」と天命に従った。
返還は困難を極める。旗の約7~8割は地名も書かれていない。文字を判読し、書かれた名字が多い地域を絞り、当時の公文書から遺族を割り出す。いざ遺族に連絡しても「詐欺じゃないのか」と言われたことも。しかし、徐々に活動も周知され、現在は厚生労働省、日本遺族会と連携している。
米国の元兵士は、多くを語りたがらないという。「当時は白兵戦。相手の息づかいが分かる距離で殺し合う。生きて帰っても同じ人間には戻れない」
11月6日には北見市常呂町で遺族への日章旗返還を予定している。47歳。(斎藤雅史)
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