ローカル線問題と国鉄 第4話 進むローカル線の建設
11月
21日
戦後、膨大な赤字を抱える国鉄とすれば、儲からないローカル線は、積極的に敷設したくないと言うのが本音でした。
国鉄はマッカーサー書簡により、公社と呼ばれる、独立採算制を建前とする、企業性と公共性を有する特殊な形態の組織再編されました。
当時の政府は、国鉄を国の組織として置いておきたいと言う思惑も有りました。当時の陸上輸送は、実質的に国鉄しかなかったこともあり、全国から鉄道建設の要望があり、政府としても鉄道敷設法に基づき建設を進めようとしますが、連合軍(主にアメリカ軍)は、今後は自動車が中心であり高速道の建設を主体に粉うべきという方針からなかなか認めませんでした。
昭和26年に建設が認められたのは、津軽線 青森~蟹田間、赤穂線 相生~播州赤穂間、土讃線 土佐久礼~窪川間だけでした。
講和条約発効後を見越して昭和26年には、運輸省の下に、鉄道建設審議会が設置され本格的に建設が促進されることになりました。
鉄道省時代に設けられていた、鉄道会議が復活したようなもので、国鉄の鉄道建設は再び政府の意向に振り回される仕組みが出来上がってしまいました。
政治の中に半強制的に組み込まれたと言っても良いのではないでしょうか。
この鉄道会議設置に基づき、昭和26年5月30日には、鉄道敷設法の一部が改正されています。
下記に、条文を一部抜粋します。
鉄道敷設法の一部を改正する法律
法律第百六十二号(昭二六・五・三〇)
鉄道敷設法(大正十一年法律第三十七号)の一部を次のように改正する。
第二条の次に次の九条を加える。
第三条 日本国有鉄道ノ鉄道新線ノ敷設(以下「新線建設」ト称ス)ニ関シ必要ナル事項ヲ調査審議スル為運輸省ニ鉄道建設審議会(以下「審議会」ト称ス)ヲ置ク
第四条 運輸大臣ハ新線建設ノ許可ニ関シ必要ナル措置ヲ為ス場合ニ於テハ予メ審議会ニ諮問スヘシ
運輸大臣ハ公共ノ福祉ヲ増進スル為特ニ必要アリト認メテ日本国有鉄道ニ対シ新線建設ニ関シ必要ナル命令ヲ為ス場合ニ於テハ予メ審議会ニ諮問スヘシ
審議会ハ内閣総理大臣及関係各大臣ニ対シ新線建設ニ関シ建議スルコトヲ得
第五条 審議会ハ本邦経済ノ発達及文化ノ向上ニ資スルコトヲ目標トシ公正且合理的ニ審議決定スヘシ
第六条 審議会ハ委員二十七人ヲ以テ之ヲ組織ス
委員ハ左ニ掲クル者ニ付内閣之ヲ任命ス但シ第六号及第七号ニ掲クル者ニ付テハ両議院ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
参考 国鉄があった時代
http://jnrera3.webcrow.jp/potal_shiryou/Law/Law_other/s26/s26_162.html
この法令改正では、各大臣が新線建設に対して意見を述べることができるとされており、時の大臣意向で鉄道建設が恣意的に出来ると言う内容となっていました。
結果的に、国鉄は公共企業体として誕生してから僅か2年で鉄道省時代と同じ仕組みに先祖帰りしてしまうこととなりました。
そんな中、公共企業体としての独立採算性も求められることから、国鉄としてもローカル線輸送のコスト削減と言う視点から昭和29年にはレールバスと呼ばれる車両(現在のレールバスの先祖)を誕生させています。
主にバス用部品を利用したことからレールバスと呼ばれ、エンジンも当時のバスエンジンを利用していました。
木原線を皮切りに北海道や九州の閑散線区を中心に昭和32年までに49両が投入されましたが、これらの車両は連結運転が出来ず、高学歴化とあいまった通学ラッシュの乗客増に対応できずに比較的早い時期に廃車されました。
現在も、小樽鉄道記念館ではキハ02が保存されており、当時のスタイルを偲ぶことが出来ます。
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国鉄があった時代 JNR-era
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