講和条約と国鉄 第1話 朝鮮戦争の勃発前夜
10月
26日
あくまでも、昭和の初め頃程度まで復興することを念頭においたものであり、過度の経済力が一点に集中しないようにすることが主たる目的とされたため、財閥解体や農地解放(これは戦前からも運動としてはあった)等が行われたことは周知のとおりです。
GHQは、インフレーションを抑制し経済を安定化させるため、ドッジ公使を迎え、収支均衡を保つ超縮小均衡予算を打ち出し、インフレは収束に向かっていきましたが、消費の抑制と産業資金供給の縮小は、体力の弱い中小企業を直撃し、安定恐慌から失業者の増加による社会不安が増大されました。
これにより失業者は昭和25年6月には43万人にもなりました。
このときは、国鉄でも新車の導入などが大幅に抑制されたのは周知のとおりです。
また、当初は日本の軍事産業を含む軍関係は全てを撤去する予定であったのが、次第にその様相が変化してきました。それは朝鮮戦争に代表される米ソの関係の悪化です。
中国は、昭和24年10月蒋介石率いる国民党軍が毛沢東率いる紅軍に敗れ、社会主義国が誕生します、アメリカとしては、日本にその地理的条件などから戦略的価値を見出したのかもしれません。さらには昭和25年6月25日に突如勃発した朝鮮戦争は日本の進むべき方向を完全に180度転換させることとなりました。
これにともない、GHQの政策は大きな変化を遂げていきます。
すなわち、経済復興を大幅に認めアメリカの防波堤にすべき構想に変化したのです。具体的には、軍需施設関係工場の保存と重工業の復興を認めたことでした。
また言論・集会の自由も抑圧されていきます。
さらには、昭和25年7月、日本政府に警察予備隊の創設を指令するとともに、国内の政治労働運動に際しても共産党を中心に弾圧を行うなど共産党に対する態度も硬化させていきます。
共産党幹部の一部が公職追放され、「アカハタ」や「前衛」が発行禁止処分され、さらには共産党系の組合の集合体であった、全労連への解散命令が出されました。
マスコミ関係などでもレッドパージのあらしは吹き荒れていました、そして世間では講和の機運も高まっていったのですが、全ての国と講和条約を結ぶ、全面講和と、ソ連など講和に反対する国を後回しにする、片面講和で、国内世論が二つに分かれてしまいました。
これは国鉄内部でも同じで、国労内で「全面講和派」と「片面講和」で分裂の危機を生むこととなりました。
なお、この点はまた後ほど詳しくお話したいと思います。
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