日本国有鉄道誕生 第3話
10月
19日
GHQの見解を聞いて頭を悩ませたのは時の政府でした。
GHQの命令は絶対であり、マッカーサーからの書簡(指示)という事になれば尚更でした。
前項に書きましたように、政府としては鉄道総局をどうすべきか考えた結果、政府の意向ができるだけ通る、すなわち政府が公共企業体を支配できる体制を考え出しました、これが後々まで国鉄を苦しめる結果となりますので、よく覚えておいてください。
そこで政府は、3つの案を考え出します。
(1) 国務大臣を総裁とする鉄道総庁
(2) 運輸大臣の監督下に置く特別法人国鉄公庁
(3) 特別の管理機関をもつ特殊法人国鉄公社
政府は、(1)の形で決着を着けたかったのですがこれは認められず、(3)を採用せざるを得ませんでしたが、政府は影響力を行使できるやおうに、(2)案を加味した線が固守されました。・・・・日本国有鉄道法(廃止)衆議院のhpから引用
この背景には、陸上輸送をほぼ独占していた国鉄は、国営の企業であり、引き続き国が保有すべきものであるという認識が強かったためであり、これは政府も鉄道省(後の国鉄)も同じような理解でした。当然最初から政治の介入を招く下地が最初から出来ていたと言えます。
特に、給与総額制や、運賃法定主義など国鉄当局の当事者能力を制限するに及ぶと、国鉄の持つ権限は限りなく小さいものとなってしまいました。→日本国有鉄道法
こういった、必要以上の足かせが、国鉄としての不幸の始まりになるのですがこれは後の機会にしたいと思います。
何とか、国鉄は昭和24年6月、日本国有鉄道として発足しました。当初4月発足だったのですが、国家行政組織法や運輸省設置法の立法が遅れるなどで、運輸大臣の権限において意見対立があり準備が遅れ6月からの移行となりました。
日本国有鉄道の誕生は、政府にとっても国鉄本体にとっても多くの問題を内包したままのスタートとなりました。
国鉄の中には、戦時中に採用した女子職員や、元鉄道省の職員、満州鉄道職員も含め50万人近くの人が働いており、独立採算制を最重要課題にされた国鉄にとって、人員整理が最も最初に行うべき仕事となりました。
実は、人員整理は鉄道省(運輸省)時代にも実施しようとしたのですが、国労の反対で撤回されました。
国鉄発足直後の人員整理は当時の鉄道省の輸送力を考えると避けて通れない問題であり、でした。
やはりもっとも、国鉄にとって不幸だったのは、GHQの指示した公共企業体という概念を国鉄(当時は運輸省)も政府も理解していなかったことに起因でしょう、これは国鉄財政が悪化する40年代まで変わらず、結局56年のローカル線廃止問題をくずぶらせる原因にもつながっていくのですがそれは後の機会にでも。
追記
戦後すぐに、政府内でも毎年赤字を計上する国鉄の赤字に対して、独立採算による仕組みなどが検討され、自動車事業に関して、独立採算制が昭和24年1月から試行され、同年4月からは、本格的に移行しました。ただしこれは、決定打と言うことは無く、同年6月にはマッカーサー指示による、国有鉄道が誕生することになりました。(2021/1/5 加藤追記)
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