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岩魚太郎の何でも歳時記

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123 :1月12日(水)の日記 「秘密」

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1月11日「123」のタイトルで

1月12日(水)の日記
秘密 私は1937年−昭和12年の生まれである
と、UPしてしまいました。コメントを頂いた方にお詫びをもうしあげます。テストのプレビューの予定が本番になってしまいました。

今度は本番です。
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1月12日読売新聞朝刊の社説 「広がるタイガーマスクの善意」


昨今のNEWSで話題になっている。
タイガーマスクが各県の養護施設へのランドセルやおもちゃの寄付である。
善意の輪が広がっていて、肝っ玉母さん の寄付もあると言う1月12日の報道であった。
それはそれで喜ばしいことだが、私にとって、もっとも暗い過去を思い出す。

岩魚太郎の、ブログのお友達の中で、養護施設を体験された方は恐らくいらっしゃらないと想像している。
タイガーマスクは、聞くところによると養護施設で子供の時期を育ったと聞いている。
従って養護施設に寄付となったのであろう。

私は1937年−昭和12年の生まれである。
終戦の和20年8月、小学生1年生であった。
大阪生まれの私は、母と共に父の実家松山市に昭和20年7月26日に疎開した。
松山空襲は、昭和20年7月26日 23:30、松山市は焼夷弾爆撃を受けた。この空襲によって、罹災者 62200名、死者・行方不明者259名との記録がある。市街地の大半は灰燼に帰した。

当時防空壕と言う施設があった。アメリカの空襲を受けた時、市街地に穴を掘って避難する施設であった。
当日その防空壕に母が手を引いて入る予定であったが、満員で、しかも当日疎開してきた見知らぬ親子を入れてもらえる訳は無かった。

5月に田植え、その田んぼのあぜ道を母に手を引かれながら落下する焼夷弾を避けながら逃げまどった記憶が生々しく残る。

翌朝、疎開先の自宅はもちろん全焼、防空壕の入り口には、焼け落ちた家屋が倒れ、避難した防空壕に入った人々は蒸し焼きで窒息死していて、その死体を消防団が運び出していた。

運命と言わずに何と言うのだろうか!防空壕の人々が善意で入れていてくれれば、今の岩魚太郎は存在しないのである。

8月15日終戦を松山市の郊外親戚の家で迎えた。

その後母の親戚を頼って大分県津房村大字六郎丸と言う田舎に引っ越したが、親戚の実家も生活が苦しく、何時までも世話になっている訳にもいかず、別府市内に生活の場を移した。
別府の生活は、父が脊髄カリエスと言う結核性の病気になり、その当時は健康保険も無く、病気の治療費で全財産が消滅した。

父は入院、母は生活のため働き、その疲労重なり急死。
最悪の状態に陥った。

母を亡くして入院している父は、我々兄弟3人を、育てることも出来なかった。

我々兄弟3人は、養護施設に預けられた。
私は小学校5年、長女は1年、次女は6歳であった。

その養護施設の時代、食料も無かった。食事は1日10時と7時の2食。
子供達は、養護施設の職員に連れられて、さつまいも畑に屑のさつまいもを拾い行くのが日課であった。
さつまいも カボチャ 粟 が主食であった。

食べる物で私の嫌いなものがこの三つある。特にさつまいもは今でも大嫌いである。

1年後、病気が回復した父が私達兄弟3人を迎えにきてくれた。
その時ほど、父の顔が逞しく、お釈迦様のように輝いて見えたことはなかった。
と同時に、私達に別れで手を振る友達の瞳が、涙にあふれている光景はいまだに忘れない。
手を振ってくれたそのお友達の今は・・・

その父は大正12年生まれ、平成5年72歳で逝った。

岩魚太郎は、その父の逝った年齢を超え、74歳でまだ生きている。

「2011年1月12日前後、養護施設にランドセルの送り主タイガーマスク報道に、言葉では表現出来ない、嬉しさとそして悲しみを感じる。

この文書を記述する意味は、岩魚太郎が養護施設にお世話になった時期の回想禄である。

タイトル「秘密」は、次回への日記へと続く。
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dote
doteさんからコメント
投稿日 2011-01-12 22:51

私にはとても想像できない幼少期そして少年期を送られたんですね
私など幸せなものです
感謝をしなければいけませね

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岩魚太郎
岩魚太郎さんからコメント
投稿日 2011-01-14 20:03

暗い話で申し訳ありません。

何故「秘密」と言うタイトルにした訳を、近日中にUPします。

一連のタイガーマスクの善意の陰に隠れてしまっている養護施設の暗部です。

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keimi
keimiさんからコメント
投稿日 2011-01-13 11:17

この秘密でしたか!!
重い秘密ですね。
お父さまが迎えに来てくださって、今があるわけですね。

亡き父は、養父母に育てられました。戦後色々なことがあったようです。無口な父でしたので、本人の口からは苦労を聞いたことがありません。
その養父母は、わたしの祖父母ですが、血が繋がっていなくてもとても可愛がってくれました。
人と人の繋がりやご縁は計り知れません。

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岩魚太郎
岩魚太郎さんからコメント
投稿日 2011-01-14 20:17

doteさんからコメントにも記載しましたが、本当は秘密でも何でも無いんです。

しかし、タイトルの秘密と言う訳を近々UPします。

私の過去に中で、一番強烈な印象は、松山の大空襲でした。

戦争にかり出された方、南方諸島での飢餓の中で、人肉を食したと言う話もあります。

原爆の被災体験、東京大空襲の体験、70代の人々にとっては、ぬぐいきらない過去があります。

その過去を切り捨てることの出来る時期は、自分自身が逝く時です。

暗い話で申し訳ありません。

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Toshiaki Nomura
Toshiaki Nomuraさんからコメント
投稿日 2011-01-15 23:21

ちょっと驚くような内容・・・。

自分の子供時代がいかにのほほんとしてたか思い知らされました・・・。

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