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感情の癒やし Emotional Healing

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2014年11月16日日曜日礼拝音声は、http://youtu.be/3Cv_8tdHJbA

感情の癒しがなければ、何かのときにトリガーされて感情が全く関係ないときに湧き出てきたり、心が堅くなって神様からの良い物が受け取れなかったりする。記憶がよみがえるごとに心に当時と同じ痛みがわきあがる。なかなか、ある分野で開かれない、などと言うことが起きる。

私たちの問題解決の鍵は、感情の癒やし。心の中の痛みが消えたとき、初めて真の意味で人を赦せるようになる。人を赦せないのは、私たちの心の痛み、感情が癒えていないため。私たちの心の痛みは、もう消えているでしょうか。もし痛みが残っているなら、イエス様による、感情の癒やしが必要です。
 
イエス様と心の傷の癒やし

 イエス様ご自身、心の痛み、感情の傷を受けた方でした。また、心の傷ついた人たちを癒やす油注ぎを受けてこの地上に来られました。

イザヤ53:3-5

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

ルカ4:18-21  

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。※主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

※主はわたしを遣わされた。は、英語の聖書では、to heal broken hearted という言葉が遣わされたの目的語として付いている。

そして、私たちの感情の癒やし主であるイエス様は、きのうも、今日も、いつまでも同じ方です。イエス様は永遠から永遠までおられ、時間を作られた方です。私たちは、過去を変えたい、でも、過去が変えれないからいつまでも過去を引きずるしかないと考えがちですが、キリスト・イエス様にあっては、私たちの過去も贖われ、回復させられることが可能なのです。時間を所有しておられる方は、時間を越えてあなたにミニストリーすることができるお方です。このお方を信頼しましょう。

心の傷の癒やしのプロセス

 それでは、感情の癒やしはどのように成されるのでしょうか。
もちろん、私たちが探すのは、うそ、神様から来ていない信条、また、赦していない心です。しかし、それらを手放したくても、人を赦したくても、赦しきらないときがあります。
それは、感情に癒やしが来ていない場合です。感情の中に痛みや混乱がある限り、完全に人を赦すことができません。

Ⅰ 心の感情を注ぎだす

私たちの感情の癒やしのためには、感情を注ぎだすことが必要です。<感情を出し切るまで、癒やしを体験できなかった

私の例> 幼いときから父がなく育った私は、父に対するいろいろな思いが押し殺されていた。ある癒しの集会で、男の牧師先生が父親に成り代わって私に泣きながら謝罪した。その時、初めて本音が私の中から出てきた。今まで、出したことの無い感情が出てきた。もっとそばにいて欲しかった。私を守って欲しかった。養って欲しかった。などなど。。。三時間ほど神様に感情を吐き出し、泣きじゃくったあと、父を赦したいという気持ちに変えられた。いつも、頭では、赦している、赦そう、赦したなどとやっていたが、心の底から心底赦せると思ったのは、この時が初めてだった。

私たちは、誰に感情を注ぎだすのでしょうか。それは、神様にです。人ではありません。神様は、私たちのお父さんですから、私たちの感情を受け止めてくださいます。幼い子が転んだり、けんかをして悔しい思いをしたときに、まっさきに、お父さん、お母さんのふところに泣いてとびこみます。そして、ひとしきり泣けば、すっきりしてまた遊びにできけます。ちょうどそのように、私たちも天のお父さんのところに真っ先に行けばいいのです。

感情の傷からの解放の証し…
私が人に言うのをやめ、神様に感情を注ぎだしたとき、癒やしが始まった。ある時、ひどく傷つくようなことを人に言われたとき、その人が部屋からでたあと、すぐに、「聖霊様。今の聞いておられましたよね。ひどいと思いませんか」と、言ってみた。その瞬間、心があらわれ、いつもなら苦々しい気持ちが取り去られないのに、そんな気持ちは一切心に残らなかった。

私たちは、よく、辛いこと、いやなことがあると、あんなことされた、こんなことされたと、人に言いにいきますが、人にどれだけ吐き出しても、それは、単なる文句やゴシップにしかなりません。癒しには絶対になりません。何年もそれをしても、一向に癒されていない人を何人も知っています。

大切なことは、神様に感情を注ぎ出すこと。そして、次の項にあるように、相手を赦すことです。
聖書の中では、モーセやダビデが自分の辛い感情を神様に表現し、ぶつけているいい例ですね。

モーセ 民数記11:10-15
   
ダビデ 詩篇142編

神様に、心を注ぎだしてもいいのです。さあ、神様に話し始めましょう!

Ⅱ イエス様を見出す

心を神様に注ぎだし、文句も不満も疑問も感情とともに神様の前に注ぎだしているうちに、心が平安になっていくことでしょう。
きのうも、今日も、いつまでも同じイエス様に、痛みの光景の中にきていただきましょう。今まで、痛みが大きすぎて、その場所にイエス様を迎えることなど考えたことも無かったかも知れません。しかし、祈りの内に、その光景にイエス様をお迎えしましょう。
ある人は、イエス様があなたを守っているのが見えるでしょう。またある人には、イエス様があなたの代わりに戦っているのが見えるかもしれません。ある人は、イエス様があなたを抱きしめて優しい言葉をかけている光景が見えるかもしまれせん。
悲惨な出来事の只中にいて、イエス様のあたたかさ、愛に触れるとき、人の心、感情の傷は癒やされていきます。
人間は、あまりにも辛い体験をすると、自分を守るために、その感情にふたをして毎日痛みに直面しないですむようにしています。ですから、そのシステムが強く働いている人たちには、もちろん、一度に感情を出すことが難しいことがあります。その場合は、一度だけではなく、何度も、何ヶ月かおきに、神様に導かれるときにやってみるといいでしょう。

Ⅲ 完全な赦しへ

感情が落ち着き、イエス様に触れていただいたら、今度は、あなたの心の中に一つの変化が出てきているのが分かるでしょう。今までは、できれば、赦したくない。聖書に赦しなさいと書いてあるからこそ、赦しますと言うが、感情がゆるさなかった人がいませんか。
心を神に注ぎだした人は、今度は、自然にその人を赦したいと思うものです。というのも、いわば相手に負わせている自分の感情の負債というものをイエス様が払ってくれたので、もう相手を責める気にならないからです。そして、赦せるようになるでしょう。
そして、今後は、同じ光景を思い出しても、今までのように痛みは思い出さなくなるでしょう。また、自分が、相手を完全に赦せていることにびっくりすることでしょう。

みなさんの感情の痛みが完全になくなりますように。心が癒され、解放を体験できますように。お祈りしています。

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