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国鉄の部内誌、 交通技術の昭和43年9月号の記事を見ていますと、四国に関しては、急行列車の行き違いを主要駅と複線区間で行えるように列車の配列を考えたと書かれています。以下、本文から引用させていただこうと思います。 四国連絡網の整備 ここらで四国連絡に目をむけてみよう。四国の列車ダイヤは、ネットダイヤを組んでフリーケンシーを主体とした輸送計画がなされているが、連絡船~宇野~山陽線と、多岐にわたる連絡はスムーズに行かない。そこで今回は白紙改正の効果を生かすべく、次のような順序でダイヤ作成を行なった。 まず、四国線内のダイヤの形として、急行列車同士の行き違いが、主要駅と複線区間でできるように列車配列...
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今回から、しばらくはヨンサントウこぼれ話として、何回かに分けてアップしたいと思います。一回目は、九州特急と新幹線を取り上げてみたいと思います。東海道新幹線の成功は、いまだ新幹線が開通していなかった東京~九州の旅行者のスタイルを変えました。特に前年に運転を開始した、月光と新幹線を使えば、前日の19:45に月光に乗車すれば、翌朝の9:10には東京に到着が可能になったわけです。この列車の設定には、当初はかなり危惧したらしいのですが、実際には連日好評であったと言うことで、国鉄では、「あさかぜ」を増発することになります。この増発された「あさかぜ」は、博多駅を14:50とかなり早い時間に出発する列車でした...
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荷物輸送の改善ヨンサントウの改正は、スピードアップ【電車の最高速度を110 km/h→120 km/h、客車も95 km/h→110 km/hに引き上げ、気動車も100 km/h→110 km/hに引き上げ、いずれも最高速度】の華やかな部分ばかりが目に行きますが、荷物輸送も地味ですが改善されていきま...
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引き続き、ヨンサントウの概要を見ていこうと思います。JTBでは、ヨンサントウの電子書籍をダウンロードサービスしているらしいですね。さて、新幹線から順に、ダイヤ改正の特徴を見ていこうと思います。 東海道新幹線 現在、1時間当たり「ひかり」3本、「こだま」3本のいわゆる20分ヘッド時間帯は下り延べ約2時間、上り1時間であるが、これを下り9時間、上り8時間に拡大する。と書かれています。実際に、昭和42年10月のダイヤ改正の時刻表を参照しますと、20分ヘッドは、朝8時に新大阪に向かう他は、30分に1本となっています。この改正により、新幹線のダイヤは平常期、波動期平日、週末で異なる形となるが東京口の列車...
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ヨンサントウのダイヤ改正について、もう少し続けたいと思います。ヨンサントウの改正は、サンロクトウの改正以来の大改正であり、昭和40年から改正に向けての準備は始まったと言われています。第3次長期計画の一環として計画されたこの、ダイヤ改正は、スクラップアンドビルドを意識したものでした。特に、ローカル線に関しては厳しい目が向けられ、ローカル線の廃止に至らないまでも利用者の少ない路線では、本数を減らすなどの間引きを行いました。 記録によりますと、全国112線区で、昼間帯を中心に運転キロで18,050 kmを削減したとされています。 その反面、通勤輸送等には、大型の投資が行われ、線路の増設や車両基地の改...
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ヨンサントウ、この言葉は、鉄道ファンでなくとも聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。国鉄が、昭和43年10月に実施したダイヤ改正であり、昭和40年からスタートしました。第三次長期計画の前半部分の成果を取り入れて計画されたものであり、国鉄としても画期的なダイヤ改正と言えました。サンロクロトウと呼ばれた、昭和36年のダイヤ改正と比べますと。増発列車キロはやや少なかったようです。ただし、高速道路などの開通により、国鉄の優位性は少しずつ奪われつつあったことからヨンサントウ改正は下記の点が重点的に整備されました。1無煙化【電化や気動車化の推進】、全国的な高速列車網の増発などを行ったことが大きな...
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ヨンサントウと言う言葉を聞かれた方も多いと思います、昭和43年10月1日に実施された全国白紙ダイヤ改正、国鉄は伝統的に10月1日にダイヤ改正を行うことが多かったのですが、鉄道記念日を意識してのことでしょうか。大規模な改正は、昭和36年10月の白紙ダイヤ改正、昭和39年の新幹線開業に続く大きな改正と言えましょうか。これは、第三次長期計画に基づく成果として実施されたものでした。元々昭和36年度を初年度とする、第二次5か年計画が資金不足などで、昭和39年に中止となり、新たな計画として実施されたのが第三次長期計画でした。第1次5か年計画が、老朽資産の取り替えが中心となり、戦後疲弊した設備の更新に力を入...
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久々に更新させていただこうと思います、昭和42年に世界初の寝台電車が誕生するのですが、この頃の日本は、高度経済成長時代と言われる時代であり、特に昭和40年から始まった、 「いざなぎ景気」と重なる時期でした。個人の可処分所得が増大して、自動車やクーラーや電子レンジなど現在の生活必需品とも言えるモノが普及しだした時代でした。この頃は、国鉄は増え続ける旅客輸送、特に通勤通学輸送に翻弄されることとなったのです。当時計画されたものとして、昭和41年度を初年度とする、通勤5方面作戦や、関西圏における複々線区間の延伸、東北本線の青森までの電化など、先行投資が積極的に行われていました。これらの建設経費は全て国...
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583系電車誕生の頃世界初の寝台電車は、昭和42年12月のダイヤ改正で誕生しますが、この列車が誕生したのは、寝台列車は昼間休み、逆に昼行列車は夜は休むのを避けることがその目的でした。最初に投入された「月光・みどり」の場合は、博多と大分で検査が出来るように時間を取ってありましたが、配置区の向日町には着替えを取りに戻るような感覚で、寝台車と座席を変換したら出発・・・そんな感じでした。寝台の走行中に完全な解体はどうだったのか、回想の旅客車を参照しますと、走行中には原則として寝台の解体は完全に行わず、中段を途中まで跳ね上げられるようにバンドを用意したと記録されています。当時の寝台使用時間は19:00...
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昭和42年10月、世界初の寝台電車が誕生しました。最初に投入されたのは、大阪~九州間を結ぶ、寝台特急「月光」、昼間は特急「みどり」号として運転されました。時刻表を参照しますと昼間は、下り列車は、特急みどり号として、新大阪を9:30に出発大分に19:35着、上り列車は大分を9:30に出発。新大阪に19:47に到着、その後寝台車の準備を行い、23:30に新大阪を出発、博多の翌朝の9:20着、夜には19:45に博多を出発、5:45に新大阪に到着するダイヤでした。この列車の特徴は、下り特急の「みどり」が新幹線に始発列車を受けて大分に向かうと共に、下り寝台特急の「月光」が新幹線最終の列車を受けて博多に向...