乙合宿
4月
6日
日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かった。
しかし、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。
樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。
8月20日 午前6時頃、警備艦と敷設艦各1隻に護衛されたソ連軍船団が、霧の真岡に上陸を開始した。
ソ連軍は艦砲射撃に援護されて侵攻、ソ連側記録で12時頃までに港湾地区を、14時頃までに市街地を占領した。
港内にあった貨物船「交通丸」と機帆船・漁船は、拿捕されるか撃沈された。
日本軍は一切の発砲を禁じて内陸の高地の影に後退し、豊原方面へと民間人を誘導するとともに軍用物資を放出して配布した。
ソ連側記録は、市街戦で建物や地下室に立て篭もった日本軍を掃討し、日本兵300名以上を死傷させ、600名以上を捕虜にしたとするが、実際には真岡市街には防御陣地はなく、日本軍も応戦していない。
攻撃目標にされたのは民間人、特に消防士など軍服類似の国民服を着用していた者だった事は、祖母や伯母の証言と一致しているし、防空壕に発砲があったことも証言を得ているので間違いない。
この時、祖父祖母一家が入った防空壕は、扉が壊れていたためソ連軍が無人と判断し、当時小学生であった母を含め一家は無事であった。
郵便局の女性電話交換手が集団自決した、真岡郵便電信局事件で亡くなったのは、伯母(母の姉)の同僚である。
伯母は夜勤ではなかったため、あるいは早朝の砲撃で出勤できなかったため、勤務先で自決することはなかったが、早朝からの砲撃による混乱と避難の様子をまざまざと語っている。
祖父母一家が暮らしていたのは、市街地の南、海に沿って展開する巨大な王子製紙工場裏手高台の社宅地域。
その中でもひときわ大きな、職工用の寮(伯母の記憶によると「乙合宿」と呼ばれる)で、祖父母は賄いの仕事をしていたと聞いている。
2012年夏、僕は母と樺太を訪ねた。
母の故郷、母の育った場所を見せてあげたかったことと、さらに僕自身がその場所を見たいという欲求を抑えられなかった為に、この旅を決断した。
王子製紙真岡工場は、ソ連の占領後もホルムスクパルプ製紙工場として利用され、筆記用紙やトイレットペーパー、ノートなどを生産していたが、1992年の工場火災で設備の大半を失い、1993年に生産を停止していた。
しかし、日本の堅牢な建築を取り壊す作業が難航し、2012年当時も広大な廃墟として姿を残していた。
木造あるいはコンクリート造りの社宅郡も、多くがロシア人の住居として利用されていた。
しかし、母が暮らした乙合宿の位置を特定するには至らなかった。
国会図書館でも調べきれない昔の資料を求めて、
それからも、僕のネット上での冒険は続いていた。
やはり、このような資料は王子製紙にしか存在しないのではないか?
そう考えた僕は、東京都北区王子にある「紙の博物館」にコンタクトを開始した。
ここの膨大な資料は、いずれ時間をかけて掘り起こしていく必要がある。
まず、入手したのは、「樺 太 に お け る 王子 製紙 株式會社社 宅 街 に つ い て」という論文だった。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/69/577/69_KJ00004227065/_pdf
この論文の片隅に、真岡工場社宅街配置図(1939年)があった。
その中に、「職工合宿」という縦長の建物を発見した。
これだ! 間違いはあるまい。
GPSや航空写真から引かれたわけではない、あくまで見取り図に近いものだが、この図にある国鉄時代の線路は、ソ連からロシアとなった今も使われている。
Google Earthの現在の地図と重ねると、どうやら、線路から上の図の部分(社宅街)の縮尺は、概ね正しいようだ。
母と僕が訪れ、母も記憶していた王子製紙への草むらの近道を聞き出した、熱供給ボイラー建屋から北東へ200m。
その場所が高台の「乙合宿」のあった場所だ。
「ある朝、トイレの窓から海を眺めると、海が真っ黒になるほどの軍艦が並んでいた。そこから、ドーン! ドーン!と煙を上げ、火の玉がこちらへ飛んできた。」
子どものころ、祖母に聞いたソ連上陸の日の話の冒頭部分だ。
今日、祖母がそれを目撃した場所を知ることができた。