fumikoです。
お正月の風物詩「箱根駅伝」が大好きです。
走る姿に元気づけられるのはもちろん、
選手の後ろから監督達が選手にかける言葉に
私まで背中を押してもらった気持ちになれます。
苦しい時に「頑張れ」のメッセージを
頑張れ、以外の言葉でかけてもらえる嬉しさを
自分でも長距離を走るようになって
ヒシヒシと感じるようになりました。
「頑張れ」の言葉も勿論ありがたいのですが
時として「もうこれ以上頑張れない」と
心が折れそうにな時に
「何やってるんだ、頑張れ」と声がかかると
「もう無理…」と
気持ちが萎んでしまうこともあります。
もう十分に頑張っていて
でも、後一踏ん張り必要な時に、
「さあ、ヒーローになろう」
「カッコいいよ」
「振り向くな、前を見て、ゴールを見て」
「一緒に走ってくれてありがとう」
「何も思い残す事なく駆け抜けろ」
言葉の魔力はすごくて、
動かない脚を前に出す力を与えてくれます。
そんな振り絞る姿を見ると
「自分も頑張ろう」と勇気をもらえます。
人を動かすのはその人の行動、
人を動かすのは人から発せられる言葉、
私も大事な場面で
誰かの背中を押せる人になれるよう
今日からまた日々を紡いでいきます。
年が明け普段の生活が戻ってきました。
コツコツ、積み重ね進みたいものです。
fumikoです。
「また明日!」
友達や恋人との帰り道、
職場で帰る前の一コマ、
さまざまなシーンで私たちは
「また明日」と言いながら生きています。
寝る前の「おやすみ」も
離れている誰かと電話を切る時の「またね」も
根っこには
明日が続くと信じる気持ちがあります。
でも、明日が来るのは決して当たり前ではなく
とてもありがたくて幸せな事。
「後でね」と電話で話したのが
父との最後の会話になりました。
「今週末は泊まるから」と月曜に話したのが
母との最後の会話になりました。
どれだけ待っても
もう父と母には
明日はやって来ません。
ごく普通の生活の中にある「また明日」は
突然、永遠にやって来なくなります。
自分の身に起こるまでは
どこか他人事に思っていた部分もあり、
わかっているようで腹落ちしていませんでした。
自分にも
大切な人にも
「明日がある」のは本当に幸せな事です。
明日があるから…
今日を頑張れる、
様々な挑戦ができる、
誰かの役に立ちたいと思い、
寄り添って一緒に乗り越える事も出来る。
どんなに辛くても
明けない夜は無いけれど
夜が明けて朝がやって来ることが
恵まれた環境にいるのだと忘れないで
明日がやって来る事を信じて
今日できることを一つずつやっていこう。
明日できることは今日から出来る事です。
先延ばししないで
自分に与えられた今日を
精一杯生きる、
新しい年になり
改めて感じたのでした。
fumikoです。
私は歌が大好きです。
歌は、
喜びや楽しみは倍増してくれ、
悲しみや苦しみは半減にしてくれます。
そして
大好きな歌(曲)は
すごいベストなタイミングでやって来る!
悲しい時、
嬉しい時、
ここ一番の頑張り時、
今から気持ちを上げて進むたい時に
テーマソングを決めておけば
いつでも気持ちを上げる事ができると
思いませんか?
とっておきの一曲をテーマソングにするなら…
思い浮かびますか?
うわぁ、沢山すぎて選べない…
あれ?全然思い浮かばない…
一曲に決まらない…
珠玉の一曲でも
何曲あってもステキです。
どんな時でも
音楽は癒してくれて
勇気やパワーを与えてくれます。
助けてもらうのは
人だけではなくて
歌に助けてもらう事だって
ありだと思うのです。
さあ、テーマソング決まりましたか?
今年は抱負と一緒にテーマソングも
決めてみませんか?
fumikoです。
エンディングノートを書き始めてからずっと、
自分史の部分がなかなか確定出来なくて、
書き直しを何度も繰り返しています。
細かい部分をバラバラに思い出しては、
その都度書き足そうとするので
コンパクトに纏められなくて
まとまりのない箇条書きが増えています。
でも、こうして昔の出来事を思い出すようになり
記憶がパズルのように少しずつ組み合わさるのは
面白いとも思っています。
両親が亡くなった後、
実家の整理をしていた時に
大量の手紙を発見しました。
箱に入ったギッシリの手紙は
若かりし頃の両親が文通していた手紙でした。
数えてはいないけれど
ザッと500通以上はあるはず…
読み始めると片付けなんて出来なくなり
何時間も手紙を読み続けました。
それでも読み終わらない手紙の山は
読み終わるまでにまだまだかかりそうです。
知らなかった両親の結婚するまでの事、
聞いた事のない2人の日常を
半世紀以上後になり自分たちが居なくなった後に
自分たちの子孫が手紙を読む事になるなんて
2人はきっと想像すらできなかったはずです。
よく考えると…
夫婦の思い出を夫婦間以外で話す事は少なく、
むしろ、そんな機会は無い事に気付いたのです。
子供たちに私たち夫婦の思い出話を
伝えておくのもいいのではないかと
最近は思うようになりました。
夫婦の思い出は
映画やテレビドラマのような
キラキラしたり
ハラハラするストーリーばかりではないけれど、
淡々とした日常の中に
あったかい気持ちや
キラリと光る思い出の場所があります。
子供達が両親の思い出を知る事で
自分たちのルーツに興味を持ってくれたらいな、なんて思ったりもします。
思い出の場所とエピソードが
いくつかノートに書けるように
記憶の糸を辿ってみる時間も
設けようと思います。
そして、読むのが途中になっている
両親の手紙の続きも読み進めたいと思います。
fumikoです。
明けましておめでとうございます。
新しい年、
気分一新して始めたいと
いつも以上に思っています。
12月31日と1月1日は、
たった1日の違いなのに、
多くの人々の心をリセットして
スタートモードにできる、
すごいパワーがあると毎年思いながら
大晦日から元日を過ごしています。
何よりも…
無事に新年を迎える事ができたのは、
命が存えているからこそ。
生きてこそ、命あってこその人生、
嬉しい事楽しい事だけではなく、
きっと苦しい事や辛い事も
今年も色々あるでしょう。
それでも、
命があるから喜怒哀楽が味わえる事を忘れず
日々過ごしていきたいものです。
当たり前の事は何もなくて
全てが有難い事。
日々に忙殺されて流されてしまうと
つい忘れてしまうのですけどね。
全国的に寒い1日、
私の故郷も大雪のお正月となりました。
自然の中で生かされながら命に感謝する、
命があるから、なんでもできること、
こうして新年を迎え
今日も生きている事に感謝して
1年のスタートを始めるとします。
fumikoです。
さまざまなシーンに出てくる「点数や評価」
例えば、
テストの点数が75点だった時
どんな風に感じますか?
「すごく頑張った」
「80点にも達していない」
「沢山間違えてしまった」
「平均点は何点だろう」
「100点取れなくて悔しい」
色んな意見が出てくると思います。
数字はわかりやすい判断基準である反面
「ねばならない」にも縛られてしまいがちです。
大切なのは
75点をどう感じたのか?
これからどうしたいのか?
だと思うのです。
振り返ると
親になってからの方が
数字にストイックになっていた時があり
子供達には申し訳ない事をしてしまいました。
75点のテストを前に
足りなかった25点の部分ばかりを見て
頑張った75点の方をスルーしていたかつての私、
「学習時間は長いのに成績が伸びない」が
我が子の長年の課題でした。
ところが、
ある時を境に流れが変わり始めました。
勿論、本人が努力したことが一番大きいですが、
親としての関わり方を変えたタイミングでした。
75点のテスト結果を前に
「出来た部分」に先ずはフォーカスをする。
テストで一番頑張った事や
自信があった問題はどれだったのか
どうやって解いたのか等を聞いた後で、
「出来なかった部分」に注目をしました。
難しくて解けなかったのか、
ケアレスミスだったのか、
時間がなかったのか、
理由は様々ですが
出来なかった理由や本人の気持ちと一緒に
「次からは〇〇する」
「〇〇すればできそう」と
本人の口から次の対策が出ることが増え、
その頃から子供の成績が伸び出しました。
先ずフォーカスする場所を
出来た部分に変えるだけで
劇的に変化していきました。
そりゃそうです。
誰でも頑張った部分を褒めてもらえなくて
ミスした部分ばかり責められたら、
嫌になったり逃げ出したくなります。
大人でも子供でもみんな同じです。
年末、慌ただしくなると共に
区切りのタイミングは
様々な評価に直面する時でもあります。
先ずは出来た部分にフォーカスする事を忘れずに
自分にも他人にも接していきたいものです。
fumikoです。
割と耳にする会話のひとつが
「私は悪くない」
もちろん、
自分の正当性を主張することも必要です。
何というか…
他愛もない会話の中で
誰かが悪者になるケースは案外と多くて
そんな会話をしている人の表情は
傍目から見て良い顔には写りません。
何よりも
聞こえてきても良い気分にはなりません。
「ミスした〇〇さんが悪い」
「しっかり伝えてない〇〇さんが悪い」
勿論、ミスも伝え漏れも無いのが一番ですが
自分の正当性を主張するだけでは
事態はスムーズに動きません。
誰ががミスや伝え漏れをカバーする必要も
出てきます。
「私は悪くないのに」
「私はミスしてないのに」
そう言いながら対処した経験は
誰でもあるのではないでしょうか?
では、どんな状態なら満足なのでしょう?
自分の正当性が認められている、
自分のやった事を高く評価してもらえる、
間違いなく遂行した事が認めてもらえる、
こんな感じでしょうか?
これ、全部、他者目線です。
自分の正当性を
他者目線で測ろうとしています。
逆に、ミスなく完璧にこなせたことを
誰にも認められることなく、
でも状況はとてもスムーズだとしたら、
どんな気持ちになるでしょうか?
「こんな頑張ったのに誰も何も言ってくれない」と腹が立ったりしませんか?
何事もなく状況がスムーズだと
特に他人は何も気付かない事が多いです。
自分が他人の立場になると
当たり前のようにスムーズに運んでいる事は
きっとあるはずで、
周りのみんなのお陰なんですよね。
「いつもありがとう」
この言葉が増える環境になれば
「私は悪くない」が減るように思うのは
私だけでしょうか?
誰もが悪者にはなりたくありません。
その裏側にある「認めて欲しい」気持ちを
お互いに大切にできる環境をつくっていきたい、
そんな事を考えた今日です。
fumikoです。
先日、偶然、街中で知人に会いました。
親御さんが入院中で
病院に着替えを届ける途中とのことでした。
短い会話のやり取りの中で
知人がポロリとこぼしました。
「こんなことなら
もっと早くに色々話をしておいたらよかった」
状況はかなり深刻そうだと感じました。
知人はご両親と近くで別世帯で生活しています。
親が元気なうちは全てが順調だったようです。
いつまでも同じ状況が続かない事は
知人も薄々わかっていたものの、
ある日突然に全てが変わってしまった事、
想像以上に早くその時が来てしまった事で、
かなり憔悴しているように
私の目には映りました。
「近くにいるからいつでも話せる」
「今、こんなに元気だから急がなくても平気」
今の自分自身の生活が優先になるので
顔の見える身内には
つい、そう思ってしまいます。
「うちの家に限っては大丈夫だ」と、
根拠のない自信を持ってしまいがちです。
入院するとたとえ家族でも
なかなか面会が思うように出来ないらしく、
電話では色々話すようなのですが、
弱音を吐く親に向かって
励ましても中途半端で、
もしもに備えた色んな事も聞ける状況ではなく
色んな感情と焦りが募って入り混じっていると
とても、苦しそうでした。
終活やエンディングノートが
メジャーな言葉として認識されてきたものの、
満足して活用できている人は
本当に少ないのだと思います。
誰でも目の前に降り掛かる事が優先になるので
終活やエンディングノートの優先順位は
多忙な日常の中では自然と後回しになります。
元気で動ける時は尚更なこと。
それでも
「急がないけれども重要な事」
内容は違えどみんな持っているはずです。
でも、急がないから後回しになる。
そして、後回しにしたものが先頭に来た時には
とても重要な事に変わっていて、
そのギャップに愕然とするのです。
自分の中の急がないけれど重要な事、
棚卸しや向き合う時間は
定期的に取っていくのが
40-50代からの終活の
ひとつの形かもしれません。
憔悴した知人から
「これからどうしたらいい?」と聞かれた私は
「あなたはどうしたいの?」と聞き返しました。
苦しいと誰かにアドバイスを求めてしまいます。
それが悪い事ではありません。
でも…
自分で考えずにアドバイス通り行動したとして
上手くいかなかった時には、
きっと誰かに責任転嫁してしまいます。
これから自分がどうしたいのか
素直な気持ちを伝えてみてはどうかと
提案してみました。
今なら会話もできるし
気持ちもちゃんと伝わります。
お互い生きている間しか
気持ちを直に伝え合う事は出来ません。
後悔しないで日々を生きる事の大切さと難しさを
ひょんな再会で教えてもらいました。
ちゃんと気持ちが伝わりますように。
fumikoです。
親切にすると喜ばれるのに、
お節介を焼くと疎まれることがあります。
「誰かのために何かをする」
入り口は同じはずなのに
相手に全く違う感情を抱かせてしまうのは
どうしてなんでしょう?
相手の笑顔が見たいから、
誰かの役に立ちたいから、
このやり方が一番良かったから、
姿を見たかったから、
すごく美味しかったから、
主語が「私」なのか「あなた」なのか?
私は迷った時は主語がどちらになるを
指標にしています。
「あなた」が主語になって動くときは親切な行動
「私」が主語になって動くときはお節介な行動
日本語は複雑です。
どちらが主語でも成り立つこともあります。
でも、文面的なことではなく
自分の中に「あなた」「私」のどっちが
スッと落ち着くのか??
無理矢理に押し通そうとしていませんか?
「せっかく〇〇だから」が根底にありませんか?
さあ、どうでしょう?
この事に気付くようになってから
それまでつい使っていた「せっかく」を
使う頻度はぐんと少なくなりました。
「せっかく」の主語は「私」だから。
この言葉を使わなくなって変わったのは
不満に思う事が減った事です。
「せっかく〇〇したのに」と
相手に言う事が無くなると
小競り合いもなくなるし、
事後に不満を漏らす事も無くなりました。
不満が少なくなり
その代わりに感謝する事や
ラッキーに思える事が増えました。
「せっかく」ではなくて
「あなたのために喜んで」
と言えることが一つでも多くできるよう
今日もゆるりと過ごしていきたいものです。
fumikoです。
数日前は同居する義両親の
57年目の結婚記念日でした。
「今年も一緒に迎えられて良かった」
安堵の言葉の裏には
年々、様々な覚悟が増える現実があります。
長生きと並行して出てくる病気や介護の問題。
お互いに毎年結婚記念日を祝えることが
年を追うごとに当たり前ではなく
有難いことになること。
私たち夫婦も
その領域に足を踏み入れている事が
じわじわと押し寄せてきます。
よく考えてみたら
夫婦で共に過ごす時間は案外少ないなぁ、と
感じます。
そして夫婦だけでなく、
家族の時間も案外と少ないことも。
100年生きられる時代になり、
ちょうど折り返しが見えてきた今思うこと。
健康に生きられるのは後どれくらいなんだろう?
夫婦や家族で一緒に居られる時間は
互いに健康に生きている前提あってのこと。
そう思うと
日々の会話も
何気ない買い物やお出かけも
愛おしく感じるし、
ひとときを大切にしたいと思うのです。
一緒に過ごす時間は気分良く過ごしたいので
時間も気持ちも余裕があったほうがいいな、
と思ったり、
ずっと健康でいるには
毎日のちょっとした積み重ねが大切なので
食べ物や体を動かす事には
少しだけ注意を払っていこうと改めて思ったり。
寒くなってきたので
これからの食卓には鍋が欠かせません。
野菜で栄養摂りながら
楽しく会話できる時間を
例え少しでも作っていきたい、
晩ご飯のメニューを考えながら
ふと色々思った冬の始まった昼下がりです。
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