気づいてみれば2013年。 あっという間に時間が過ぎるなー。 昨年暮れから体調が悪い日々が続き、ちょっと落ち込んでいるけど、でも明けない夜は無いから、今が踏ん張り時かな。 今年はゆっくり自分のペースで進んでいこう。 皆様、今年もヨロシクお願いします。^^
自己啓発本が好きな私だが、最近は通り一遍等の自己啓発本より、何かを極めた人の何気ない一言にノックアウトされる時が多い。 どんなジャンルにせよ、その道を突き進み極めた方の言葉は重い。 まさに琴線に触れる、とはこのこと。 先日読んだ『瓦礫を活かす「森の防波堤が」命を守る』(学研新書刊)の著者、宮脇昭先生の言葉。 【何をするにしても、自分の足で第一歩を踏み出さなければ何も生まれない。目的に向かって一歩を踏み出し、実行することで一本の木が林となり、森となり、やがていのちを守る豊かな森林となる。 本物のいのちの森づくりは、心に木を植えることである。しっかりと大地に根を張って、どんなことがあろうともくじけずに我慢しながら生き延びて、未来に希望を持って天高く伸びる、そのようなあなたの生き方にもつながる。】 この文を読んで、すぐさま栞を挟み、アンダーラインを引いて何回も読み返した。 泣きそうになるくらい、励まされている。
思うことなど・・・ 来月の大ホールでの舞台に、私は出ないつもりでいた。 いつも相対でレッスンをやっているから、左右が全部逆になってしまい、私が一番間違えるだろうと思ったこと。 照明や音響が入る本格的なステージで、生徒みんなに何か起きたとき、すぐに対処できるよう裏方に徹したほうが良いと思えたこと。 本当はみんなが主役なのに、いい歳をした私がシャシャリでるのが憚られたこと。 この3点でみんなと一緒に舞台に立つのはやめようと思ったのだ。 でも今日親御さんから言われた言葉が胸に突き刺さった。 「いつもは一緒に踊ってくれるのに、なんで今度は踊ってくれないんだろう。障害者と一緒は嫌なんじゃないか。そうみんなと話したんですよ」、と。 そんなこと思うはず無いじゃないか。 そんなこと思うなら8年もボランティアなどしていない。 大事な舞台だから、私も真剣に考えた末のこと。 一緒に出てほしいと熱望されれば、そこはやはり考え直す他無い。 一緒に踊りたい、というみんなの気持ちは私だって嬉しいよ。 だから結論は「出る」。 頑張るしかないな(笑)
誰にも期待されていない。 そんな日々を送る。 でも、それが気になるってことは、裏を返せば期待されたい、ということなんだろうか。 ついイライラしてしまうことがあるけど、そのイライラの原因は【羨ましい】に他ならないと最近気づいた。 何かのことに対して権限があったり、何かを始めたり、何かを常に開拓している人、そんな人たちをこき下ろしながらも羨んでる自分。 全く小さいよなー、ホント。 でも誰にも期待されてない、ってことは、それだけ自由だということ。 何をしたところで、賞賛も無ければ批判も無い。 ならば、思うが侭に行ってみればいいか。 ただし、心を込めて。 そこに妥協をしては絶対いけないんだと、身体の奥底にいる小さな自分が呟くのだ。
今、復興支援イベントに向けて着々と準備を進めている。 大手メディアの後援も取れた。 あとはただひたすら邁進するだけ・・・ と思ったのだけど、これは私じゃなくて他の人がやるほうがいい、と言う人が増える気がした。 私じゃなくて、もっと相応しい人。 その人が動けば、数百人は動かせるであろう人。 そんなことを考えたら、私は準備だけ整え、その人たちに全部譲る方が世の中のためなのかな、とも思う。 ボランティアは結局自己犠牲の上に成り立つものだから、他の人に花を持たせてやるのが筋じゃないかと。 私は、純粋に被災地の方々に心を寄せていこう。 イベントのトップなんて誰だって構わない。 誰かが笑顔になれることに、力を注がなければ。 あと一つ・・・ 愚痴だけど(笑) 私の一挙手一投足、誰かに話した言葉がそのまま誰かへ伝わっていること。 噂話のネタですか?w
最近いろいろ落ち込むことがあって、何て自分は駄目人間なんだろう、と悩んでいた。 まるで仲間外れにされてるが如く、私だけ何にも知らなくて・・・。 身近にいる人のことなのに、それを遠くの友人から聞かされたり・・・。 群れていたくて、輪に入りたくて、悶え苦しむ日々。 他人から嫌われないためにはどうしたらいいか、頭を抱え行動を直そうとした。 ・・・がしかし、ふと思った。 そんなことで悶々と考える姿は滑稽だな、と。 そんなことで悩む人間に魅力はない。 誰かがこうありたいと願う人物。 即ちメンター。 出来れば、そんな人格を目指して行こうではないか。 群れなくても、カッコ良い、と思える人に。 切り替えるぞ!
父親がまたもやいろいろな物を捨て始めた。 今日外に放り投げてあったのは、母が使っていたヴィトンのバッグ。 中は母の手帳やらハンカチ、診察券などなど、生前使っていたときそのままの状態だった。 捨てておくに忍びなく、拾ってまたそっと納戸の中へ入れておいた。 母が亡くなってから、父はありとあらゆるものを捨て、母の物はもうほとんど無い。 私のへその緒でさえ、父は捨ててしまった。 この夏には、買ったばかりの仏壇さえ玄関に放り投げてあり、その悲惨な有様に涙したのだった。 父にとってこれは断捨離なんだろう。 執着を捨て、シンプルに生きること・・・。 津波で流されたわけじゃないのに、思い出のほとんどを捨てられた私は「断捨離」という言葉が嫌いになった。 捨てることに美意識を見出すなら、いつかは死んでしまうのだから、今生きてる価値さえないような気がする。 そう思えば、「自殺」さえ断捨離になる。 父の家に新たに増えたのは、愛人の物。 襖の桟にかかっている彼女の洋服と、外に放り投げられた母のバッグを見て、吐き気がするくらいの憎悪に見舞われた私は、人間失格なのである。