詩を書いたのなら 僕は幸せなひとになります 誰にありがとうを言えば良いのか わかりませんが ありがとう 詩を読んだのなら 僕は涙が止まりません 誰にありがとうを言えば良いのか わかりませんが ありがとう 詩を愛したのなら 僕は僕でいられるのです 誰にありがとう言えば良いか わかりませんが ありがとう 空に叫んでみました
売れている詩人の詩を読む。とはいえ、小説に比べれば売れていない本。それは淋しい気もするが、仕方ない、これが日本での詩の姿なのだから……。どうにかしたいと思っている詩人はきっとあちらこちらにいるはずだ。 とにかくひとに読まれる詩を探ってみたくなり、少し齧る程度にパラパラページをめくる。そんな態度でそれらの詩について語れるのか、となってしまうが私なりのそれらの表現の傾向を考察してみる。 まず、売れている詩集を読んで感じたのは上手に書かれていること。まあ、当たり前か。そして、なんとなく電車や駅などで書かれている宣伝文句のように説得力がある。すんなりと書かれていて内容がわからなくても頷けてしまう。詩の創作はどんどん自分の深い世界に潜り込むのと同時に、その詩が読まれるための技術、発想、そして思いやりが挿入されてやっとひと様に喜ばれる作品となるのだろう。詩だけではなく、文芸でも商売でも同じことが言える。ただ、詩の場合はその客観に抵抗を持つ者が多いと感じている。しかし売れる詩集は、やはり「サービス精神」を強く持っている詩人が書いたものということだ。 詩にサービス精神なんていらない、と感じている詩人でも少なからずひとに読まれるため、言葉を整えているに違いない。ただ、詩を生業とするなら、読者がいなければ成り立たない。サービス精神は過大に必要不可欠となるのだろう。詩に携わる場合、そこを躊躇する傾向があるわりには、詩は読まれない、なんて嘆いている言葉を活字で目にするのが現状だ。読まれるために書いていないのだからその言葉は、ループするジレンマでしかない。 この話の行き先はどこへ行くかというと、やはりひとに読んでもらおうとするならサービス精神のない詩は我儘な作品となってしまう、ってことだろう。ただ、この「サービス精神」という私の概念を語るともう一コマ必要になるので、本日はここまでとさせていただこう。 尻切れ文章、御免。
詩の世界観を広げよう。 外へ出向いて詩のイベント等に参加しようとインターネット等で調べてはみたが、なかなかその様なものが見つからない。それなら文学館へ行こうかと思いそこでも調べるが、詩に関して展示が今の時期はなさそうだ。それなら神保町の古本屋へでも行こうか。でも、宮沢賢治の初版本八十万円とかいう値段を見て驚くくらいだろう。それなら図書館か。いや、それはいつものパターンだ。埼玉詩人会での催しも当分なさそうだし、この物足らなさをどこにぶつければいいのだろう。 今度の日曜日も詩作に打ち込むか。いつもと変わらない。うーん、もっと変化が欲しい。詩での刺激が欲しい。直接に詩人からの刺激が欲しい。ちょっと待てよ、詩人の友だちっているのかなあ、自分に。インターネット上では仲間たちはいると思っているけれど、なんとなくバーチャル感であることは否めないような……。やはり物足らないのだ。詩に関わることでもっとワクワクしたいこの気持ちをどうしようか。 それなら…… 飛躍し過ぎと言われそうだが、朗読会あり、詩集がいっぱいあり、製本までして出来たての詩集もあり、詩人(詩の好きなひと)が集まる喫茶店でも始めたいくらいだ。宝くじが当たれば即、開店だ! ああ、お金でこの夢は買えるかもしれないが、それがない。 なら、今度の日曜日はどうする…… と、休みの予定を考えるだけでもけっこうワクワクしているのかもしれない、自分っ。。。
己の本音を包み隠さず言葉に発したのなら、この社会で生活を営むのは酷なことだろう。日常は嘘ばかりで蔓延しているとも言える。しかし、そんなことは承知でひとと会話をするし笑顔も見せたりする。なんともめんどくさい生き物である人間。そして、その忌々しい己に苦しんだりする者もいて、心根の洗浄を行うかのよう、本音を表現へのせ満たそうと作業に没頭したりする。それでもその表現に嘘はないかと言うと、そうではない。対人を意識している以上、純粋な己でない嘘が修正、校正を重ね飾って景色やら感情を描いてしまう。 嘘のない表現とはどのようなものだろうか。もしや嘘のない表現などないのだろうか。それとも嘘に嘘を打ち込んだ中に本音が潜むのだろうか。嘘の己もこれまた本音だろうか。嘘はいったい何を与えようとしているのだろうか。 嘘と感情は密に寄り添う。憎悪からの嘘、思いやる嘘、逃げるための嘘、飾り酔いしれる嘘、感情を平らにするかのよう嘘を利用する。防御本能、あるいは社会で生きるためのユーモアなのだろうか。 嘘のない己からは逃れなれない人間。その現実を流す者がいて、また流されたくないとする者がいる。どちらも嘘のない日々などない。 ただ、流されたくない者(それを自然体と考える者もあろう)が表現する根源の欲のひとつと言えるだろう。表現者にとって嘘とは悪に傾くばかりではなく己と向き合い方を模索し、生きるための追求する想像力を育むモノなのかもしれない。
今日の騒めきが消え去り クラッシックギターの音色だけが 僕の疲れたカラダにそっと触れ アルペジオは遥か彼方へ誘う風 南国の海を思い出させ 思わず手足をおもいっきり伸ばして 魚になった僕は 揺れる弦の弾く波に身をまかせ どこまでもどこまでも 地上の重みなんて忘れてしまい 頬を緩ませながら泳ぐ 僕の幸せが透き通って 心地よい深さに包まれながら だんだんカラダは透過されてゆく どんな夢を見ようか 自由自在に物語が創れそうな そんな海を感じながら…… ではでは それではおやすみなさい……
まな板を使わず 刃物をナメて使い 隙ありと切られてしまう 久しぶりに指を少し切る たいしたことはないが 痛みに思い出す 肉体を守るため 鋭利なモノには気を付けろ と 滲む血を眺め 絆創膏はどこにあるのか そう思いながら 赤く染まって 日常の時間は止まる 理由のある痛みは わかりやす囁く お前は間違っている と 今 鍋をつかむ指の 絆創膏が剥がれかけると 悔しさに貼る 絆創膏を探していた
古(いにしえ)の古の 古の空箱の 素敵な物語の 欠けらの 欠けらの パンっと 破ってと 君がいうと どこかへ飛べると 飛べると 不思議な 黄ばんだ紙の匂いのような 懐かしいような 夢のような 軽やかな もう浮いている 浮いている 君は知っている 知っている 僕も知っている 君を知っている 知っている よ
痛みが走るカラダ その中で元気が叫ぶ 俺は今を生きて 納得を飲み込めれば もう目覚めなくても本望な覚悟は 違う次元で詩を綴らせるはずだ 追う納得という奴は 掴めそうで掴めないから 俺の心中を引きちぎり バラバラにしては 不完全燃焼のカスで山を盛る 嘆いている暇は俺にはない 有限のカラダに 有限の魂からの消える恐怖を 塗り潰しながら今がある ひとが感じる俺の魂など 真実のモノではない 追求する表現者は 自分に自分を近づける生きモノ いつ死のうが 納得に近づく矢印になり リアルタイムに投身しなければ 痛みの中から やっと見つけた鍵穴に 俺を差し込むだけだ そこが始まりでだろうが 終わりであろうが
ブロクを始めて七ヶ月が過ぎました。このブログ『詩は元気です☆』が皆さまにご拝読されていると思うと、意欲が湧き充実した時間を得ることができます。いつも幸せをありがとうございます。 総アクセスが六万に達したので、一万アクセスごとの報告となります。この数字は減ることがないので、私の財産は増えるばかり。とは言え、詩に真摯に向かい合わなければ、数字は正直に教えてくれるでしょう。「最近のお前の詩は最低だな」と。 詩を紙面上での活動だけにとどまらぬように、心掛けて行きたいと思います。詩を通しひとと触れ合い自分の世界を広げ、皆さまに元気を与えられるよう精進して参りますので何卒、今後とも『詩は元気です』を宜しくお願い致します。
行って参りました、虚言朗読会。 たくさんの方の詩を拝聴して来ました。この朗読会は山岡 遊さんが主催されているもので、ご本人が高知に帰郷するため今回が最終回となるようです。「俺にはファンがたくさんいる!」と先日の詩人会でお会いした時に言っていましたが、ほんとうに満員御礼って感じでした。熱い方にはひとが集まって来るのですね。 世間には様々な詩を書く人がいる、そこに驚きを感じた一日でした。「殺す」というテーマを書き続ける詩人、まったく何を語っているかわからないが魅力のある詩人、歌謡曲に纏わった詩を書く詩人、戦争について語る詩人たち。それぞれの特化した個性(自分が好み書く詩のチョイスによる)で表現して昇華させている、凄さが刺激的でした。私とは違った個性に出会う楽しみがありました。 「私は六十過ぎてから詩を書き始めたのですが、もっと若い時から書いていれば友だちができたのではないかと思います。なので、この歳になって詩を書くお友だちを作りたいと朗読会へ参加するようになりました」とおっしゃるご婦人がいました。もしかしたら、今まで友だちといえる存在がいなかったのではないかと勝手に想像しました。どうのようにして孤独の日々を送られたかは分かりませんが、詩によって今現在は外に出て行けることは素晴らしいなあ、と何も知らない私ですがそう感じていました。「友だちになりましょう」と機会があれば言おうと思っていましたが、その方とは話すことはありませんでした。詩の力、詩の元気を再確認できたお言葉を拝聴、私も嬉しかったのです。 こちらの朗読会は詩だけではなく、演劇風なパフォーマンスありの朗読や弾き語りありの幅広な展開となっていました。山岡さんも弾き語りされていて、なかなか味があって良かったです。昔は友川かずきか山岡 遊と言われていたこともあったそうですよ。題名は忘れてしまったのですが、友川かずきさんの「♪ほっぺよせあう幸せ〜」という歌詞が好きだったなあ(歌詞の記憶違いで少し表現が異なっているかも……)。 あらら、話は逸れてしまいましたが、この虚言朗読会がいつの日かまた埼玉で復活することを願って、結びとさせていただきます。 楽しい時間をありがとう!