2006年度 6月 「タウン誌の実態」
講師 - 石井義浩(よしひろ)氏
『プロフィール』
・ 17歳の時に家族に連れられてアメリカに移住
・ 現地の大学を卒業後、2年間日本でアルバイト
・ その後アメリカに帰国、日系大手旅行代理店に勤務 →その際に無料誌の発行を思いつき、独立
講義内容
タウン誌の実態
『BridgeUSAができたきっかけ』
きっかけは石井氏が旅行代理店に勤務している当時、旅行プランの広告を出そうと広告媒体を探したのだが、意外と少なく中々見つからなかった。当時は有料広告媒体として羅府新報、無料広告媒体としてTBファン、おさわがせUSA(現Lighthouse)程度という少ないものだった。そこで、石井氏が広告媒体を探すのと平行に色々な企業の人に「広告媒体の需要性」について独断でリサーチしたところ「もっとたくさん広告媒体があってほしい」という声を多数聞き、「それならば自分が作ってしまおう」ということで会社を辞め、BridgeUSAという会社名で独立するに至った。
~Publish編~
『わら半紙からカラー紙へ』
創刊当時は現在よりも質の悪いわら半紙白黒用紙で5千部しか発行していなかった。
*初めは一人で営業・発行・配送・コンテンツ作成をした
* FAXマシーン・ワープロ・印刷機の3つの機械だけで作成した。
* 当時のコンテンツ内容はクラシファイドのみ
内容の工夫
* コメントを入れる(例:人材派遣の社長に「面接に必要な3つのポイント!」や、車の修理士の人に「常にチェックしておきたい車の3箇所」というようなコメントを内容に組み込んだ→読み手の反応が変わる(コメントを書いた人の知り合い等が話題に出してくれるようなった。)
* 大企業に営業に行く→断られる。理由は無料誌の上、「白黒」のわら半紙に宣伝を載せるのは企業のマイナスイメージになると考えられていたから。→そこから考えたのが、「ちらし」。ちらしは店側に全て作らせたので、Bridgeの中に入れるだけで費用は一切かからない。ちらしは大きな効果をもたらし、たくさんの中小企業等の中での無料誌の評価が高くなる(後にちらしが現在のBridgeのコンテンツになる)
* 車の個人販売やディーラー販売に写真を入れる→前よりも電話がたくさんかかってくるようになる→車のディーラーからの広告依頼の増加
* 人材派遣に関しての工夫(それまでは「仕事が欲しいなら○○(会社名)まで!」というのだけだった)→詳細をだすようにした(会社名、仕事内容、年収、場所、ビザサポートあるかないか等)→以前よりもたくさんの人が人材派遣会社に連絡するようになった→人材派遣会社からの広告依頼の増加
これらの過程により、たくさんの広告依頼が増え、またコンテンツにも磨きがかかり、現在は上質なカラー紙で作られた無料誌とは思えない雑誌を毎回5万部印刷し、南カリフォルニアを中心にたくさんの人に読まれる広告媒体となった。
石井社長のモットー:
他社がやってない宣伝方法を研究し実行する!
<無料誌の特典>
・誤字脱字があっても大丈夫→文句を言われることがない
・レストランなどに置いておくとみんな持っていってくれる→取りやすい
・たくさん発行できる
・どこでも置かせてくれる
・広告内容に合わせてページ数を増やすことが可能
~ラジオ編~
『きっかけ』
Bridgeと似ている。当時のラジオ局は朝日ホームラジオしかなく、ある日そのラジオ局が終わってしまった。それまで朝の渋滞時に聞いている人がたくさんいて、「朝にラジオあったらいいよな~」というたくさんの声を聞いてラジオをやろう!と決めた→シチュエーションはBridgeの時と似ている
International Stationというところに企画書を持っていったら7:00AM~9;00AM枠を取れた。
・1994年7月5日開局
・ラジオアナウンサーオーディションには24人もの応募があった
現在はそれまでの107.1からFM局の106.3で11年間継続中
『相乗効果』
Bridgeとの組み合わせにより効果は絶大な物に。
例)ラジオ開局をBridgeで宣伝。Bridgeの情報をラジオで宣伝。
~イベント編~
『夏祭り』
1995年に何か大きなイベントをやりたい!ということで第1回夏祭りをサウスベイで開催→周囲にやめた方がいいと言われる。なぜならラジオや雑誌で散々宣伝してきたのにも関わらず、もしも人が全くこなかったらスポンサーや企業に広告媒体としての機能がない、ということになってしまうから→結果は初日で1万1千人来場→大成功!!
それ以来、毎年夏祭りを開催している(現在も継続中)
~最後に~
現在Bridgeの主な仕事は出版・ラジオ・イベントの3つ。収入に関しては出版が8割、ラジオが1.5割、イベントが0.5割。
これから石井社長が行っていきたいのは、様々なコミュニティ関連のイベントに力を入れていきたいという。
『プロフィール』
・ 17歳の時に家族に連れられてアメリカに移住
・ 現地の大学を卒業後、2年間日本でアルバイト
・ その後アメリカに帰国、日系大手旅行代理店に勤務 →その際に無料誌の発行を思いつき、独立
講義内容
タウン誌の実態
『BridgeUSAができたきっかけ』
きっかけは石井氏が旅行代理店に勤務している当時、旅行プランの広告を出そうと広告媒体を探したのだが、意外と少なく中々見つからなかった。当時は有料広告媒体として羅府新報、無料広告媒体としてTBファン、おさわがせUSA(現Lighthouse)程度という少ないものだった。そこで、石井氏が広告媒体を探すのと平行に色々な企業の人に「広告媒体の需要性」について独断でリサーチしたところ「もっとたくさん広告媒体があってほしい」という声を多数聞き、「それならば自分が作ってしまおう」ということで会社を辞め、BridgeUSAという会社名で独立するに至った。
~Publish編~
『わら半紙からカラー紙へ』
創刊当時は現在よりも質の悪いわら半紙白黒用紙で5千部しか発行していなかった。
*初めは一人で営業・発行・配送・コンテンツ作成をした
* FAXマシーン・ワープロ・印刷機の3つの機械だけで作成した。
* 当時のコンテンツ内容はクラシファイドのみ
内容の工夫
* コメントを入れる(例:人材派遣の社長に「面接に必要な3つのポイント!」や、車の修理士の人に「常にチェックしておきたい車の3箇所」というようなコメントを内容に組み込んだ→読み手の反応が変わる(コメントを書いた人の知り合い等が話題に出してくれるようなった。)
* 大企業に営業に行く→断られる。理由は無料誌の上、「白黒」のわら半紙に宣伝を載せるのは企業のマイナスイメージになると考えられていたから。→そこから考えたのが、「ちらし」。ちらしは店側に全て作らせたので、Bridgeの中に入れるだけで費用は一切かからない。ちらしは大きな効果をもたらし、たくさんの中小企業等の中での無料誌の評価が高くなる(後にちらしが現在のBridgeのコンテンツになる)
* 車の個人販売やディーラー販売に写真を入れる→前よりも電話がたくさんかかってくるようになる→車のディーラーからの広告依頼の増加
* 人材派遣に関しての工夫(それまでは「仕事が欲しいなら○○(会社名)まで!」というのだけだった)→詳細をだすようにした(会社名、仕事内容、年収、場所、ビザサポートあるかないか等)→以前よりもたくさんの人が人材派遣会社に連絡するようになった→人材派遣会社からの広告依頼の増加
これらの過程により、たくさんの広告依頼が増え、またコンテンツにも磨きがかかり、現在は上質なカラー紙で作られた無料誌とは思えない雑誌を毎回5万部印刷し、南カリフォルニアを中心にたくさんの人に読まれる広告媒体となった。
石井社長のモットー:
他社がやってない宣伝方法を研究し実行する!
<無料誌の特典>
・誤字脱字があっても大丈夫→文句を言われることがない
・レストランなどに置いておくとみんな持っていってくれる→取りやすい
・たくさん発行できる
・どこでも置かせてくれる
・広告内容に合わせてページ数を増やすことが可能
~ラジオ編~
『きっかけ』
Bridgeと似ている。当時のラジオ局は朝日ホームラジオしかなく、ある日そのラジオ局が終わってしまった。それまで朝の渋滞時に聞いている人がたくさんいて、「朝にラジオあったらいいよな~」というたくさんの声を聞いてラジオをやろう!と決めた→シチュエーションはBridgeの時と似ている
International Stationというところに企画書を持っていったら7:00AM~9;00AM枠を取れた。
・1994年7月5日開局
・ラジオアナウンサーオーディションには24人もの応募があった
現在はそれまでの107.1からFM局の106.3で11年間継続中
『相乗効果』
Bridgeとの組み合わせにより効果は絶大な物に。
例)ラジオ開局をBridgeで宣伝。Bridgeの情報をラジオで宣伝。
~イベント編~
『夏祭り』
1995年に何か大きなイベントをやりたい!ということで第1回夏祭りをサウスベイで開催→周囲にやめた方がいいと言われる。なぜならラジオや雑誌で散々宣伝してきたのにも関わらず、もしも人が全くこなかったらスポンサーや企業に広告媒体としての機能がない、ということになってしまうから→結果は初日で1万1千人来場→大成功!!
それ以来、毎年夏祭りを開催している(現在も継続中)
~最後に~
現在Bridgeの主な仕事は出版・ラジオ・イベントの3つ。収入に関しては出版が8割、ラジオが1.5割、イベントが0.5割。
これから石井社長が行っていきたいのは、様々なコミュニティ関連のイベントに力を入れていきたいという。