カミさんとダウンタウン・ディズニーでデートしました。
イエスご自身が これまでで最大のクリスマスプレゼントだ。
弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。
箴言19章17節、共同訳
寒くなったので おでんをいただきました。自家製揚げ餅入りです。感謝!
849 失敗を恐れるな。
失敗することではなく、目標が低いことが罪なのだ。
大きな挑戦ならば、失敗さえも栄光となる。
ブルース・リー
牧師、バイカー、鮨職人として。。。シェア from LA
第70話 「兄貴との思い出、中篇」
俺:「おお、久しぶりやな。元気か?」
彼:「お~、ミッキーか! 久しぶり! 俺、実は昨年のクリスマスに肺癌と診断されて、それ以来 闘病中なんや。」
俺:「。。。。」
やはりそうだったか、と天を仰いだ。急に聖霊に示され、ダンに久しぶりにテキストしたらこの有様だ。
LA(ロサンゼルス)とOC(オレンジ郡)の間にあるハーレーディーラーで彼に福音を伝えて以来 会ったことはなく(69話参照)、あっという間に6年半が過ぎ、時は2020年11月半ば、コロナ危機の真っ最中だった。すでに癌は脳に転移して腫瘍ができ、自宅で寝たきり、完全介護の状態で、つい最近も様々な要因が重なり合併症を起こして昏睡状態になった。自分では用も足せず、奥さんの運転で病院と自宅の往復を繰り返す。どう見ても先は長くない。何としても彼にイエスを信じても貰わねばならない。
それからダンはテキストを止めて直接電話して来たので6年半ぶりの会話が始まった。その時、イエスの聖霊が激しく私に降るの感じた。全身の血がたぎった。今日、明らかに主が私を彼の元に遣わされたことを確認した。
俺:「で、いつ死ぬんや?」
彼:「アホ! 俺はまだ死なんぞ! 治ったらまた走りに行こうぜ。」
俺:「そやな。じゃあ祈らせてくれ。一緒にイエスの名によって神に祈ろう。走るには先に癒して貰わないとアカン。」
彼:「おお、そりゃいい。ぜひそうしてくれ。」
俺:「アンタ、イエスに祈ると言う意味を分かってるのか? ただの“お願い”とちゃうで。お経やお題目、儀式とも違う。
イエスと話し、彼を心に迎えることや。その為にアンタがやらないといけないことがある。一応クリスチャンなら、
イエスが俺たちの罪のために十字架にかかったことくらい知ってるやろ。しかし、俺たちは皆、自分勝手な道を
歩き、迷い出た。分かるな。 イエスを心に迎えるためには、まず己の罪を悔い改めないといけない。出来るか?」
彼:「ああ、その話、1カ月前にハワイから来た甥っ子からも聞いたことがある。」
驚いた。 ダンの奥さんのバレリーはハワイ出身の日系4世で、彼女の甥はハワイ在住、30歳の若い牧師だと言うではないか。 神はあらかじめバレリーの甥っ子をダンに遣わし、今日、私が導かれる前に備えをされていたのだ!
「よし!なら話は早い。『天の神さま、今日、私は自分の罪を悔い改めます。あなたが十字架にかかり、3日目に復活して私を救ってくださったことを感謝します。イエスの名によってAMEN.』と祈れ! 」と促したところ、彼は素直に祈った。それに続いて癒しの祈り、感謝の祈りを捧げた。そして2人で“クリスチャンの兄弟”になったことを喜んだ。
結局、彼と電話で話せたのはこれが最初で最後となった。幾度かテキストは交わしたが、ほどなく人事不省に陥り半年後に亡くなった。渾身の力を奮って打ったであろう最後のテキストは「俺には信仰がある」だった。ダンは確かに救われたのだ。最後の最後になって彼に福音を語るチャンスをくださり、そして救ってくださった主イエスを今日も称える。
「私は福音を恥としない。
それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、全て信じる者に、
救を得させる神の力である。」
ローマ人への手紙1章16節、口語訳
2022-9-30
この世では誰もが苦しみを味わう。
そして、その苦しみの場所から強くなれる者もいる
アーネスト・ヘミングウェイ
牧師、バイカー、鮨職人として。。。シェア from LA
第69話 「兄貴との思い出、前篇」
私は3人兄弟の長男なので兄貴はいないが、兄貴と呼べる男はいる。10歳年上のダンはその一人だ。彼との出会いは20年ほど前にさかのぼる。私が17歳の頃に出た81年型ハーレーのショベルヘッドエンジンを積むワイドクライド(FXWG)は当時300万円もした。渡米してからも、いつかそれを買いたいと考えていたが、ついにその夢が叶ったのも約20年前だった。値段は1万ドル、典型的な”大人買い“だ。
当時、私はLA(ロサンゼルス)の南にある街の小さな鮨屋で板長をしていた。その隣は銀行だったが、ある日、体のデカい白人バイカーの乗るショベルヘッドのハーレーが銀行の前に止まった。彼はすぐに銀行へ入って行ったが、店からその様子を見ていた私は何となく彼のハーレーに近づき眺めていた。同じショベルヘッドのエンジンでキック付き、ワイドグライドではなくローライダーだった。
ほどなく銀行から出て来た彼と初対面し、互いに今や旧式になったキック付きショベルヘッドのハーレーを愛する者どうし仲良くなった。しかも彼の奥さんは日系4世だというおまけまでついた。彼は男でも惚れたくなるほどの良い奴で、デカい体に似合わず穏やかで優しい男。気性の激しい私とは正反対だった。あちこち走ったり、酒を酌み交わしたり、バイクショーに行ったりした。サイコーに楽しかった。また、40歳にもなって、しかも異国で親友が出来たことに感謝した。
あの頃の私はクリスチャンではあったものの、いつもイライラして荒れていたが、数年後、神からの召命が突然に下り、雷に打たれたように私の人生は変わった。牧師になる勉強を始め、曲折を経てついに牧師となり、何と自分で教会を始めた。真っ先に報告をした相手の一人が彼だった。彼はLA、私はOC(オレンジ郡)で距離があるため、その中間地点のフラトン市にあるハーレーディーラーで彼と落ち合い、福音を伝え、今後BS(バイブルスタディー)をこのハーレーディーラーで始めることで合意して共に祈った。
だが、それを境に彼と二度と会うことはなかった。彼はイタリア系カトリックでクリスチャンを自認する者ではあるが、福音とキリストには全く興味を示さなかった。むしろ無意識に拒絶し、私を避けるようになった。
そう言えば、その昔、「ミッキー、お前は“モーターサイクル・ベル”をハーレーに付けたか?」とダンが尋ねてきたことがあった。「何ソレ?」と聞くと、「何だ、知らんのか?路上には多くの“デーモン(悪霊)”がいるのでベルで追い払うんだよ。」 いわゆる魔除けだ。故障や事故を悪霊と解釈した者たちが始めた風習らしい。そう。つまり彼は何も信じていなかった。また、そういう人間ほどスピリチュアルなもの、パワースポットや御守りに凝る。カトリックだろうがプロテスタントだろうが無関係。神を信じるとは、単に神の存在を信じることではない。神に従うことだ。だから “従えない人”は必ず疎遠になる。教会からも、私からも、神からも。彼はその典型例になってしまった。イエスが言うとおりに。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。」
マタイの福音書7章21節
2022-9-28
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