パスター・ミッキー のブログ
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もの言う牧師のエッセー 第160話 「司馬遼太郎」
もの言う牧師のエッセー 第160話
「 司馬遼太郎 」 彼の生誕100年を記念して再投稿
作家の司馬遼太郎さん(本名:福田定一、96年没)の妻の福田みどりさんが11月12日、心不全のため自宅で亡くなった。通夜は13日午後7時、葬儀は14日午後1時、東大阪市下小阪3の11の18の自宅、などと新聞等に詳しく書いてあるので少し驚いた。
思えば司馬さんも大阪の“自宅”にこだわった人だった。近鉄奈良線河内小阪駅近くにあり現在は記念館となっている彼の自宅周辺は雑然とした大阪の下町として知られ、彼はそこで36年に渡って小説を書き続けたが、これは東京の出版社の人たちにとって迷惑かつ不便であり、国民的人気作家でもあるのだからと東京へ引っ越すことを彼にしつこく迫ったそうだが、本人は頑として聞かず、しまいには「そんなことをするくらいなら俺は作家を辞める」とまで言い出し周囲を慌てさせた。
一方で、彼は「病的な自己愛の持ち主でないかぎり自分の顔や声にはなにがしかの嫌悪感がつきまとう。だから街に同化してしまった自分は大阪が好きかと問われれば返事に困り、「『きらいです』と、一応は答えざるをえない。ただし人間は、自己を真底きらいなままで、三日も生きていけない。」と、今や世知辛くなった“我が町大阪”に対し複雑な心境を吐露している。そしてその “大阪観” こそは、時にはフィクションと批判されつつも、日本人に誇りと自信を与えた彼の一連の作品の土台である「司馬史観」に似ている。経済や政治、文化など多岐にわたって現代日本に警鐘を鳴らすいっぽうで、「昔の日本人はこんなにすごいんだ」と鼓舞し続けた彼。
実は聖書の神は「ねたむ神」として知られ、彼の一喜一憂が随所に描かれている。ねたみとは要するに“嫉妬”であり、男と女の色話に似ているが、
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」ローマ人への手紙9章13節、
などが良い例だ。 神に選ばれたイスラエル人の先祖ヤコブには兄エサウがいた。日本も近代まで長男が尊ばれ祝福されたが、増してや聖書のそれは格別であった。しかしエサウは彼が長子であることを軽視して、神を怒らせ祝福を失ったのである。実はエサウは堕罪後の人類の比喩でもある。神の被造物である人間は、本来、全被造物の頂点に立つ“長子”として祝福された存在であったが、己の道を選択し、罪が入り込んで祝福を失い、その結果、戦争や環境破壊、家庭崩壊など種々の問題を引き起こした。
そんな我らを、今日も神さまはヤキモキしながら見ておられる。それどころか自身の御子であるキリストさえも救い主として送って下さった。実はエサウに対してさえも、その後に神は彼の行く道と住む場所とを保障された。司馬さんが大阪に、そして日本に対し、常に厳しく優しく寄り添った以上に、「今のお前はこんなにすごいんだ」と、励ましておられる神の元に立ち返ろう。 2014-12-5
もの言う牧師のエッセー 傑作選
第178話「 プチぼったくり 」
歌舞伎町を管内に抱える警視庁新宿署によると、昨年1年間でキャバクラ店の料金トラブルに絡む通報は650件を超えた。あくまで正当な請求を装う風俗店と、「お兄さんどう?追加料金はいらないよ」などと通行人を誘い込むぼったくりの片棒を担ぐ客引きたちに対し、ここ数年ぼったくり禁止条例等で規制強化が進んでいるが、「 店側もよく勉強していて、金額の表示や請求の仕方などで落ち度がないようにするなど、営業が条例違反に該当しないよう巧妙化している」と捜査関係者の弁。だがこれらは言わば、“裏社会”が仕切る非合法活動の一環であり今さら珍しくはない。
驚いたのは、際どい手口でサービス料を重ねて取ろうとする居酒屋などの「プチぼったくり」だ。頼みもしてない“お通し”や、“席料、週末料金、「チャージ料一人1000円」など、高すぎるとも適正価格とも言い切れない請求が並び、外食産業を巡るトラブルも増加の一途を辿っている。被害者によるツィッター投稿により批判が殺到して閉店した居酒屋もあるというが、これら居酒屋の多くは、前述の非合法組織によるものではなく、れっきとした運営会社によるものが多い。なるほど「カタギもヤクザも大差ない」ということか。実はキリストは「プチぼったくり」に対し、
「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」
ルカの福音書18章9節、
と手厳しい。聖書や教会が人気のない理由の一つが「罪」への理解であろう。それはどんな小さな罪も見逃さない。そして見つかれば極刑である地獄が待っている。何と大袈裟なと思われる御仁もおられよう。しかし、犯罪を犯していないが悪いことをした人、殺人者ではないが人を傷付けた人、強盗はしないがチョロまかす人は多くいる。モラハラ、サービス残業、名ばかり管理職、「国産牛の代わりに輸入物」などなど枚挙に暇がない。
しかも我々は大抵の場合、「自分はあいつよりマシ」などと考えているのではなかろうか。しかし、実はここにイエスが「救い主」である理由がある。彼はこれら一切の罪を背負い、我らの身代わりとなって十字架の極刑に服され、我らはお咎めなしとなった。誰でも自分の “プチ罪” を認め、彼を救い主と信じる者は、極刑を免れるばかりか、神の子とされ、永遠の命をいただけるのである。 2015-4-10
もの言う牧師のエッセー 傑作選
第174話「10年間毎日34キロ歩いて通勤した男 」
「こんな人がいるんだ…!」と絶句してしまった。猛烈な寒波が続くアメリカ北東部からの信じられないニュースが全米を感動の渦に叩き込んだ。デトロイト市の工場従業員ジェームズ・ロバートソンさんは、10年前に車が壊れてしまい、それ以来、何と往復34キロの道を歩いて通勤し、しかも無遅刻無欠勤! 自給10ドル55セント、残業なしの安月給で午後2時から夜10時までのシフト、当然やって行くだけで精一杯、車を買う余裕はなかった。
そんな彼のことを知り衝撃を受けたウェイン州立大学の学生、イワン・リーディさんはネットで募金を開始したところ、当初5000ドルの目標を軽々と上回り30万ドル以上の寄付が集まった! それだけではない。ジェームズさんに感動した地元の自動車ディーラーが彼に新車をプレゼントしたのだった。このニュースはパート2まで放送され、和やかな雰囲気の中、車の “引渡し式” が映し出されたが、彼は「遅刻するから」と、そのまま車で職場に向かったという。
「行きより帰りがキツイね。」 10時に仕事が終わった後、さっそく11キロ以上歩いて午前1時頃最終バスに乗り込み、自宅から8キロほどの所に到着。そこから歩いて帰宅は朝の4時。少し寝てからまた同じことを繰り返す。ところで本稿執筆現在、デトロイトは寒波に見舞われ氷点下15℃だ。しかも同市は「全米一危険な都市」として知られ、中でも彼が歩いた “最後の8キロ” は最も危険とされるハイランドパークを通るため、実際に襲われたこともあった。
「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、
よろめくことなく、主に信頼したことを。
あなたの恵みが私の目の前にあり、
私はあなたの真理のうちを歩み続けました。」 詩篇26篇1,3節。
これは今から3000年前に、詩人でもあるイスラエルの王ダビデが不当な批難にさらされた時の叫びである。実はヘブル語で「歩む」とは、「生きる」ことと同義と言ってよい。人生まさに山あり谷あり、苦難が毎日続き、長いトンネルの中を歩くこともある。それでも人が黙々と雨の日も風の日も自分の仕事をこなし生き続ける時、神は助けてくださる。 2015-3-5