もの言う牧師のエッセー 第152話 再投稿
「 デジタルタトゥー 」
去る6月、ミス・ユニバースのタイ代表に選ばれた才色兼備で22歳のウェルリー・ディサヤブット嬢が代表辞退に追い込まれた。原因は彼女自身がかつてフェイスブックに書き込んだ過激な政治的発言で、その後テレビで謝罪したものの誹謗中傷は止むどころか拡大の一途を辿り、家族にまで心労が及ぶに至ってついに自ら辞退を申し出たのだった。
また7月には、サッカーW杯で母国ベルギーを応援する愛くるしい姿が注目され、フランスの大手化粧品メーカー、ロレアルからモデルのオファーを受けた17歳の少女、アクセル・デスピエジェレールさんは、普通の女の子から一夜にしてシンデレラへと駆け上がり、一時はSNSで20万件の “いいね” が殺到するほどだったが、やはり自身がかつてSNSに掲載した画像や発言が問題となり、あっという間にブログ炎上、やはり謝罪したが騒動はおさまらず ロレアルは契約解除をするに至った。
アルバイトがSNSに画像を投稿した結果倒産したレストランや、リベンジポルノ、高層ビルから画像をばら撒く輩など、全て陰湿なネット上の「デジタルタトゥー」の結果である。それは半永久的に消せず、しかも恐るべきスピードで拡散する。実にそれは人間の持つ罪の恐ろしさを正確に映し出す。だが、それを完全に、そして永久に消す方法が一つだけある。それは
「御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます。」
1ヨハネ1章7節、
とあるように、我ら人間の罪のために十字架上で殺されたキリストの血で洗うのである。そうした者は真っ白なキレイな体になって、肉体が滅んだ後も永遠の命が授かることが聖書には記されている。デジタルタトゥーにはある際立った特徴がある。それは、それを引き起こした各人が “安易” にそれを始めたことだ。何かを求めて教会に来る人は少なくない。しかし、自分が実は罪を犯していることを認識する人は非常に稀である。むしろ安易に考えていることが多く、それゆえ罪の為に死んだキリストの価値がピンと来ない。デジタルタトゥーの騒動は、それを改めて教えてくれた。 2014-10-3
正義を支持するとは、イエスのように振る舞うことだ。
もの言う牧師のエッセー 第171話 再投稿
「 仁義なき戦い 」
昨年の暮れに高倉健さんが亡くなり、ほどなくして菅原文太さんが逝った時、多くの日本人が言葉では言い表せない感慨に浸ったに違いない。両者共に仁侠映画出身で共演作も少なくない二人ではあるが、健さんが国民的スターであったのに対し、文太さんは違った路線を進んだ。
彼の出世作「仁義なき戦い」が公開された頃の日本は、東京五輪や大阪万博に代表されるお祭りムードに代わって、公害や会社の倒産、若者の自殺など社会不安が増大し、しかも東西冷戦の真っ只中で閉塞感が充満していた。同作品は古いアメリカの西部劇のような善と悪のはっきりしたフィクションのヤクザ映画ではなく、現実のワルを赤裸々に描いた実録もので、白黒はっきりしない全てがグレー、或いは全部が悪というような内容は、当時の矛盾に満ちた日本社会に支持された。
「知らん仏より、知っとる鬼のほうがましじゃけんのう」。映画で文太さん演じる美能幸三が放った広島弁の名セリフ通りに、その後の彼は歩んだ気がする。「福祉の事は分からないが、難しいことをやらせてほしい 」と、大阪で在日韓国人のための老人ホーム建設に奔走したり、山梨県で農業を始めたり、病を押して沖縄へ飛んで辺野古への基地移設の反対集会を応援したり、韓国人孤児の里親になったりと、真正面から“難しい”ことに取り組んだ。長男を失う悲劇も経験した。まさに時には鬼も出れば蛇も出たであろう。だが彼は“知らん顔”をせず進んだ。聖書を役に立たない宗教の教典と思っている人は多い。だがそれは、
「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、
死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
ピリピ人への手紙2章8節
と、あるように、善悪のはっきりしない複雑で鬱屈した鬼だらけの世の中で喘ぐ人々を救うために、知らん顔せずわざわざ天からやってきたあげく、自ら十字架にかかって殺されるという、人類に対するキリストの壮絶な愛の物語なのである。この世の中、嫌なことやムカつくことだらけで、仁義なき戦いの連続、常識もヘッタクレもない時代かも知れない。だが覚えよう。だからこそキリストが来られたことを。そして死んだ後よみがえったことを。そう遠くない時に彼は戻ってきて一切の決着をつけることも。 2015-2-13
沖縄の方からゴーヤの苗をいただき無事に収穫できました!
神さまに感謝!
牧師、バイカー、鮨職人として。。。シェア from LA
第67話 十字架を造った男たち ④「十字架は完成したけれど」
神さまの憐みと不思議な導きにより ついに十字架制作が始まった。まずヒロさんが鉄で土台をさっさと造った。7センチほどの平らな土台の真ん中に、縦25センチ、横5センチ、幅1センチほどの、十字架の柱部分を立てるためのプレート状の支柱が立っているが、十字架を取り外した場合でも見栄えがするようにクロームメッキが施された。実は彼は出張が頻繁で留守にしてることが多いため、手早く仕上げてジョンに手渡したようで、私はその工程を見る間もなかった。
いっぽう、この頃のジョンさんはかなり忙しく、十字架の制作作業がゆっくり進んだため、ちょくちょく訪問して工程を見ることが出来た。圧巻は十字架の柱を支える支柱を入れる凹型の深い穴部分だ。支柱が鉄製なので木のままでは十字架をはめ込んだ際に柱自体が割れるなど破損する恐れがあるため、穴の内側に薄い金属の板をはめてカバーしてくれた。さらには、同じ敷地内にある塗装屋に十字架の塗装とコーティング頼んで仕上げてくれた。彼は塗装屋ではないため、わざわざ自腹を切って頼んでくれたのだった。
「ついに完成した。」。作業開始から3カ月ほど経ったイースター前日の土曜日の朝、ジョンから電話があった。そして私が在宅であることを知ると何と自宅まですぐに届けてくれた!「何でそこまで?」と尋ねる私に「明日はイースターだ。十字架は必要だろ?」。彼はどこまでも優しかった。全工程を工賃無料のボランティアだったことに加え、十字架を造るための高価な原木も彼が供出してくれた。さらに塗装代、塗料代、そして配達。「私も払う」とどれだけ言っても彼は受け取らなかった。さらに、届けられた十字架を見て目を見張った。何と鉄の土台の上も奇麗な木の板で覆い尽くしてある。「鉄がむき出しでは無粋だから」と彼自ら考案してくれた。
さて、十字架は建った。神による奇蹟の数々によって。しかし“十字架を造った男たち”は今それぞれ難しい状況にある。プロジェクトの口火を切ったバンク (65話参照) は あの後すぐに教会へ来なくなった。土台を造ったヒロさん(66話参照)は今に至るまで一度も教会へ来たことがない。おまけにビザの関係でメキシコへ引越し会えなくなった。ジョンはクリスチャン家庭だが夫婦関係にひびが入り、それ以来 彼は頑固になり疎遠になってしまった。
私はすぐに気付いた。十字架は完成したが、私はそれを「担いで行く」のだと。キリストは自身の為ではなく「他者のために」十字架を担がれた。事が成ったらそれで落着ではない。そこから十字架の道、執り成しの道が始まるのだ。今日もまた神に祈る。彼らの祝福と加護を、悔い改めと救いを。。。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
わたしにふさわしい者ではありません。」
マタイの福音書10章38節
2022-8-2
目の前にある現実だけを見て、幸福だとか不幸だとか判断してはいけない。
その時は不幸だと思っていたことが後で考えてみると、
より大きな幸福のために必要だったということがよくある。
フジコ・ヘミング
愛する皆さま!
58歳の誕生日を迎えました! 心から感謝します!!
今後義兄弟のノリ牧師夫妻が焼き鳥をご馳走してくださいました。
今後ともよろしくお願いいたします!皆さまに神のご加護を!
牧師、バイカー、鮨職人として。。。シェア from LA
第66話 十字架を造った男たち ③「木工職人ジョンさん」
十字架の土台をヒロさんが造ることが決まった。ついに十字架制作の めどが立った。さあ後は十字架を誰が造るかだ。仕事を無料で引き受けてくれたヒロさんに礼を言うと同時に、さっそく十字架を木で造ることの出来る人がこの敷地内にいないかどうか聞いてみた。「ところでヒロさん、この敷地内にはずいぶん色んな製造業があるけど、十字架を造ってくれる木工製作のショップはあるかな?」 すると「木工製作ならすぐ隣にありますよ。」
「え、マジで?!」私は思わずのけぞった。「メチャクチャ腕が立つ人で、高級住宅の階段の手すりなどを製作する白人の職人です。彼は今日も働いてるはずですよ。ジョンさんと言います。今すぐ行って見たら?」と言うので、「よっしゃー!これはいよいよ神の導きかもしれない」とワクワクしながら2軒隣のショップへ駆け足で行った。
キレイで真っ白な おがくずまみれのショップで白人の男性と助手らしき男性2人がコンピューター制御のマシンの音を立てて働いている。私はさっそく「お仕事中スイマセン!」と挨拶した。ジョンさんは仕事をする手を止めて出て来た。私より少し年上でゴッツイ体、見るからに職人の風貌だ。「あなたがジョンですか? 私は自身で働きながらハウスチャーチを運営している牧師のミッキーと言います。自立式で分解して持ち運びできる十字架を造りたいのですが、やってもらえませんか?リック(ヒロさんの英語名)にあなたが腕の良い職人だと聞きました。実は彼が鉄で土台を造ることになってます。」
私は挨拶もそこそこに本論に入りまくし立てた。「ほう?リックが土台を鉄で?」と意外そうな顔をしつつジョンは、「俺は十字架を造ったことはないが、造れなくなくはないよ」。 私は「ホンマですか!!やったぜ!!」と飛び上がった。ここからが関西人だ。「おいくらで?」と速攻で聞いてみた。ジョンは「うーん」と言いながら天を仰ぎ目をつぶって考え始めた。10秒ほどたっただろうか。彼は「いらない。」とポツリ。
「え!?何で。。。?」 私は絶句した。「アンタ、自分で働きながらタダで牧師やってるんだろ?だったら俺もアンタからカネは貰えない。実は俺もクリスチャンなんだ。だから俺もアンタと一緒に神のために働くことにした。」 ああ、何と言うことだろうか! まだ彼と会って2分しかたっていないというのに! 私は今日、神がここへ導いてくれたことを知った。今度は私が天を仰ぎ、溢れ出ようとする涙をこらえていた。主はついに祈りに答え、願いを叶えてくださった。Hallelujah.
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」
詩篇23篇1,3節、共同訳
2022-7-22
多くの良書を訪れよ。されど聖書に生きよ。
C. H. スポルジョン
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