元ロッテ監督のバレンタインさんが店に食べに来てくれました。
近所に住んでおられると言うのでビックリ!
もの言う牧師のエッセー 第145話 再投稿
「 ジャスティン・ビーバーの洗礼 」
宿泊先のオーストラリアのホテルで落書きしたり、過去の人種差別発言で“炎上”したり、市街地で酔っぱらって高級車でドラッグレースをして捕まったりと、何かと話題の多いジャスティン・ビーバーが、洗礼を受けたというニュースが6月頃に世界中を駆け巡った。が、つい最近も隣人宅に卵を投げつけたりと、全くろくでもない二十歳の若者だ。
しかし一方で、「好きでもない女の子とはセックスするべきではない。」などと、やりたい放題のセックスには否定的な見方を示したり、3/11の東日本大震災の際には、他のアーチストらが “放射能汚染“ を恐れて尻込みする中で、2ヶ月後の5月には東京にやって来て被災児童たちを慰めたりと、なかなか情に厚い男でもあるようだ。
さらに驚くべきことに、「僕はクリスチャン。神を信じるし、僕の罪のためにイエスが十字架で 死なれたことを信じている。僕がここにいるのも彼がいるからこそなんだ。」 などと発言して 来たことは世界中に知られている。いったい全体彼は “いい人間” なのか何なのか。しかし、彼の頓珍漢な行動は、
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」 ローマ人への手紙10章9節、
と記されている聖書の言葉の意味を改めて考えさせられる。彼を見ての通り、クリスチャンとは “いい人間” なのではない。無論そうあるべきだし、信じた後にキリストが下さる聖霊の力でそうなって行くのは可能だが、問題は彼が言ったように「自分の罪のためにキリストが十字架で死なれたこと」を信じることだ。つまり彼は聖書の言うとおり “救われた” のだ。
ビーバー君は若くて金持ちで有名なので、救われる必要などない、と誰もが感じるところであろうが、ここで言う救いとは、いわゆる助けとか癒しとかの類を越えるもので、ズバリ「死」からの救い、そして死後の裁きと地獄からの救いをさす。そう、彼のような不良でも、救われたら天国に行ける永遠の命を授かるのだ。何と “オイシイ話” なんだろうか。これを「福音/ゴスペル(良い話)」と呼び、人の人格や行動とは関係なく、キリストの恵みによって与えられるものである。
そして、洗礼を受けて罪を洗い流したら何もかもOKではない。なぜならクリスチャンも引き続き罪を犯すし、それはなくならない。彼のように善と悪のせめぎ合いは毎日続く。頓珍漢な失敗もしてしまう。だが、キリストを救い主と信じる者は、神の恵みによる救いをもはや失うことはない。周囲の方々に迷惑をかけつつも、毎日神に感謝し、悔い改めつつ歩んで行く。お陰さまで、私も何とかクリスチャンをさせていただいている。キリストの愛にただ感謝である。 2014-7-27
私は、善には褒美を、悪には罰を与える”神学の神”を信じない。
私の神は法則を造り、それらの世話をされる。
神の宇宙は、憧れのような考えによって成り立っているのではなく、
不変の法則によって支配されている。
アルバート・アインシュタイン
主はあなたの時を堅く支えられる。
知恵と知識は救いを豊かに与える。
主を畏れることは宝である。
イザヤ書33章6節、共同訳
もの言う牧師のエッセー 第141話 再投稿
「 エミネムの謝罪 」
何とエミネムが母親に謝罪した! いったい何が起こったのだろうか。今やアルバム総売り上げ1億枚。白人でありながら、史上最も売れた大物ラップ歌手である彼が引き起こしてきた母親とのいざこざについては、アメリカ人では知らぬ者はおるまい。彼は自分が歌うラップミュージックの中で母親を「Bitch(淫婦)」と呼び、「酷い麻薬常習者だ」と侮蔑し、「地獄で火あぶりにされろ」とまで言い放ってきた。
実は彼は典型的な貧困家庭に生まれ、幼少期に父親は蒸発、母は酒浸りとなり育児を放棄、薬物に溺れるようになり、トレーラーハウスで国内を転々とし、転校した先々でいじめに遭い、自殺未遂も経験、中学の時は3回留年するなど悲惨な少年時代を送った。そして90年代にスターになってからは、自分の苦しかった思い出や感情を歌にして叫び続けてきた。たまりかねた彼の母親デビーはエミネムを名誉毀損で訴え、親子関係は絶望的な泥沼に落ち込んだのだった。
しかし、今年の母の日、彼は新曲「ヘッドライツ」のビデオを公開。その中で長年にわたり確執のあった母への謝罪を表し、もう2度と彼女を侮辱する詩を歌わないことを誓ったのだ。さらに「俺はあんたを憎んじゃいない。だって母さんだから。あんたは俺にとっては今もきれいだ。だって 俺の母さんだから」と。それにしても、若者たちから絶大に支持されてきた彼も今年41歳。年を重ねてきたことが謝罪の要因ではないかと見るのは私だけだろうか。
聖書には多くの人物が登場するが、その中でもヨブという人物は、切っての善人で知られる人物 である。その彼が神に向かって
「私に対して苦い定めを書き記し、
若い日の罪をも今なお負わせられる。」
ヨブ記13章26節:共同訳、
と 弱気な心情を吐露している。誰もが善人と認める彼でさえ、若い頃に引き起こした数々の愚かさを思い起こす時、ただ頭を垂れ、神の前にへりくだるのである。そしてそれらの罪が神によって赦されたことを知っているからこそ、誰に対しても謙虚に振る舞い、人の罪を赦し、施し や善行に励む尊敬に足る人物と成長できたのではなかろうか。時間。これは神が人間に与えてくれた素晴らしい恵みの一つである。時間をかけ、年を取ることによって、人は少しずつ本来あるべき強さや優しさを持つことが出来るのだ。神の知恵に脱帽である。 2014-7-10
55年型シェビー・ベルエア! 優しいオーナさんが乗せてくれました!
もの言う牧師のエッセー 第128話 再投稿
「 たこ焼きロボ」
グーグルがロボット開発に乗り出したり、ドイツのハノーバーでは人型ロボがポールダンスをしたり、東京の国立情報学研究所では人工知能「東ロボくん」に東大受験勉強をさせたりと、最近ロボットの話題が多い。そんな中、数年前にたこ焼きロボを開発して業界に衝撃を与えた大阪市西淀川区の町工場、東洋理機工業の細見成人社長が、今度はお好み焼きロボを開発した。文字通りお好み焼きを手早く器用にひっくり返していく“機械の職人さん”だ。
もともと産業用ロボットは殺風景な工場ラインでひたすら部品製造などをするイメージがあり、現に“冷凍たこ焼き”もその様にして作られているが、なぜこのようなものをわざわざ作ったのだろうか。「子供の頃からロボットが好きでした」と笑う細見氏は、関西らしい遊び心を前面に出し、「ロボットをもっと他の場所で使えないか。例えば少子高齢化で職人の技能継承が危ぶまれるなか、ロボットが熟練技能を継承できないか。ロボットを工場から解放するのが目標です」 と言う。
実はこのたこ焼きはコストを考えたら1個1000円もするそうで、首をかしげる人もいるそうだが、「そんな小さなことではなく、まず出し物として作り、その中から新しい技術の芽を掴もうとする。お遊びだけど真剣にやっているんです」。 この細見氏の話は、
「神である主は、東の方エデンに園を設け、
そこに主の形造った人を置かれた。
そこを耕させ、またそこを守らせた。」創世記2章8,15節、
という神による人類創造の物語にソックリだ。神は彼自身に似せて人を造り、自分でやれる創造的な仕事をわざわざ人間に任せて下さった。常に失敗し、割の合わない仕事ぶりの人間ではあるが、小さなことは言わず、優しく見守り、我々が成長するのを助けて下さる。何と言っても神は人間のことが大好きで、ついには失敗まみれの人類を救おうと、一番大切なものであるキリストさえも遣わして下さった。洒落っ気たっぷりの神に感謝である。
2014-3-12
父の日スペシャル
もの言う牧師のエッセー 第147話 再投稿
「 57歳になった父へ57年型のシェヴィを 」
父の日を前に、とある田舎の青年が父に捧げた心温まる行為が全米を感動の渦へ巻き込んだ。ケンタッキー州ルイスビル市に住むマイク・キングさんは、何と彼がまだ8歳の時に、彼の父ロジャーさんがいつも欲しがっていた「57年型シェビィ・ベルエア」を、父の57歳の誕生日にプレゼントする約束をしたのだが、ついにそれを実現してしまったのだ。
マイクさんを含め7人の子供たちに恵まれたキング家は典型的な “貧乏人の子沢山” で、ロジャーさんにアメリカのステータスシンボルである57年型シェヴィを買う余裕など当然なかった。大人になって工場で働きだしたマイク君は、週6日残業して一心不乱に働いた。金がたまるとイーベイなどのサイトをあちこち検索してクルマ探しに没頭し、ついにニュー・ハンプシャー州で売りに出ているのを発見、ケンタッキー州から往復2500キロかけて引き取りに行った!
それだけではない。実は彼がこの車を買ったのは2年前と言う。そう、彼はこの日のために2年間ガレージで隠していたわけで、ここまで来ると執念を感じてしまう。「彼は僕の血のつながった父さんではないんだ。本物は僕と母さんを残して出て行ってしまった。でも彼こそが僕の父さんなんだ。彼は僕にとって全てであり、僕の人生にとって最高の存在なんだ!」、と笑うマイクさん。 車を見て思わず絶句するロジャーさんの目に涙が。がっちり抱き合う父と息子。
「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」
マタイの福音書6章9節:共同訳
これは 祈りの定番とも言える「主の祈り」の最初の一節である。毎週のように教会の礼拝では これを唱える。大抵の人々にとって祈りと言えば “祈願”、つまり頼みごとであるが、これは「感謝と賛美」である。私たちは我らの創造主である「父なる神」に感謝しているだろうか。ただ苦しい時の神頼みではないだろうか。そして父なる神は今も、尊い御子であるキリストを十字架にかけてまで、我々一人ひとりを罪による滅びから救おうとされている。とことん息子を愛する父と、その父を心の底から愛し敬う息子を見て、いつも神に頼みごとばかりしている自分が恥ずかしくなった。いつも我らを愛し、救い主キリストを下さった神を称えよう。 2014-8-14
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