深谷健児さんの墓前で日章旗を広げる英美さん(右)、克己さん夫妻=茨城県桜川市大国玉
79年ぶり日章旗介して再会、米国から茨城の遺族に
2020/12/31 10:30朝日新聞デジタル
「祝武運長久」「体当たり」……。旗の白地にこんな文字がびっしりつづられている。南洋で戦死した茨城県桜川市出身の深谷健児さんが戦地に残した日章旗が今月、米国の民間団体から親類の深谷英美(えみ)さん(54)=同市=に手渡された。健児さんの弟が持たせた旗とわかり、英美さんから93歳の弟に送られた。79年ぶりに兄弟は、弟の入院先の病室でつかの間の再会を果たした。
深谷家の本家を継ぐ英美さんの家には、健児さんの位牌(いはい)があり、近所には健児さんの墓石もある。健児さんは、英美さんの父親のいとこにあたる。健児さんのものと思われる日章旗が米国にあると、英美さんに連絡があったのは今年10月。英美さんは、すぐに住職で健児さんの弟の深谷彦晃(げんこう)さん=滋賀県湖南市=に電話した。入院中の彦晃さんに娘たちが、コロナ禍で限られた面会時間で伝えた。彦晃さんはベッドで上半身を起こし、「そうか。ありがたいな」と涙ぐんだという。
彦晃さんによると、兄の健児さんは1941年に出征し、水戸の歩兵第二連隊に入隊。旧満州を経て南洋パラオ・ペリリュー島で24歳で戦死した。日章旗は、出征前、健児さんのために彦晃さんが持たせたものだという。彦晃さんの氏名と「貫け生死一処の大精神」の書き込みもある。
日章旗の返還活動をする米国の市民団体「OBONソサエティ」が、元米兵の遺族から託され、日本側の団体を通して英美さんを探し当てた。
日章旗は、タテ70センチ、ヨコ98センチほど。茶褐色に変色しているが、寄せ書きの氏名や文言は読み取れる。英美さんは、「破れないでよく残ってくれていた。(彦晃さんと)兄弟で再会させてあげたい」と日章旗を折りたたんで封筒に入れ、滋賀に送り、コロナ禍で短時間だけ許された面会の際に、家族が彦晃さんの病室に持参したという。
日章旗は今、彦晃さんが住職を務める寺で、兄弟水入らずの時を待っている。
◇
OBONソサエティ(米・オレゴン州)によると、深谷健児さんの日章旗は、1944〜45年、グアム島に派遣された元米国海兵隊員、故ケネス・カービィさんが持ち帰った戦利品の一つだという。遺族が保管し、同会に連絡があった。
日章旗に書かれた内容から、日本遺族会などの協力で、健児さんのものだとわかった。ケネスさんの遺族によると、ケネスさんは戦地で日本兵捕虜と関わりがあり、日本軍兵舎を見つけた思い出などを話していたが、日章旗を持ち帰った経緯は不明だという。
同会は活動を始めて11年間で、日章旗約380旗を日本側遺族の元に返還し、調査を待つ旗も1200以上あるという。同会共同代表のジーク敬子さん(53)は、京都出身。ビルマ(現ミャンマー)で戦死した祖父が戦地に携えた寄せ書きされた日の丸が、07年にカナダから返還された。母親が「長い年月をかけて家族に会いたいために帰ってきはったんやわぁ」と涙ながらに話したのが、この活動のきっかけとなった。
09年、歴史家のレックスさん(67)と結婚し、ともに活動を始めた。団体名は、先祖の霊が戻るお盆からとった。戦時中、敵軍の旗である日章旗は戦利品の中で最も人気があったという。日本兵の多くが身に付けていたため、多くの日章旗が米国内などに残されている。
敬子さんは「連合軍兵士たちは日の丸に何が書かれているのか理解していなかった。日章旗を返すことで、過去の歴史と心のわだかまりに終止符をうちたい。敵国として戦った者同士が、一枚の旗を通して、相手を思いやり、平和や友好を分かち合ってほしい」と話している。
https://www.asahi.com/articles/ASNDZ6WWPNDMUJHB00K.html
左・山口則敦さん(小石則子さん提供)
右・返ってきた日の丸と、戦地から届いた則敦さんからの絵はがきを手にする小石則子さん=宝塚市内
フィリピンで戦死、父の「日章旗」75年経て娘の手元に
1944年4月に出征し、フィリピン・ルソン島で戦死した陸軍大尉の山口則敦さん=当時(34)=が持っていたとみられる日章旗が、75年の時を経て遺族の元へ帰ってきた。受け取った娘の小石則子さん(84)=兵庫県宝塚市=は「思いがけないことでびっくり仰天。父が帰りたいと願ったのだろうか」と話す。(中川 恵)
小石さんは神戸市須磨区で父則敦さんと母清子さんの3人暮らし。幼かった小石さんにとって則敦さんとの思い出は少ないが「夏に海へ泳ぎに出掛け、色白の父は翌朝、真っ赤になっていた」と振り返る。
則敦さんは召集令状を受け取り平壌へ。小石さんの元へは則敦さんから「からだにきをつけなさい」「なかよく遊びなさいよ」と書かれた絵はがきが届いた。ただ、同年末か45年初頭にルソン島へ移ってからは連絡が途絶えた。則敦さんの戦死が知らされたのは、戦後3年ほどたってから。遺品も遺骨もなかった。
母の清子さんは、夫則敦さんの部下を訪ねては戦地での様子を聞き、退職後はフィリピンにも行ったという。小石さんは成人してから「父は腹部に銃弾を受け、その後、自決した」と教わった。
則敦さんの日章旗を持っていた女性は米国在住で、元米兵の叔父が亡くなった際に譲り受けた。叔父は戦争体験について一切語らず、旗の入手経緯は分からなかったが、インターネットで米オレゴン州で活動する団体「OBONソサエティ」を知り、日本遺族会や県遺族会姫路支部を通じて小石さんにたどり着いた。女性は、旗に添えた手紙に「国が引き起こした戦争の責任を兵士個人が負うことなどできない。旗を受け取ったご遺族の心が少しでも癒やされれば」とつづった。
旗には「贈山口則敦君」「祈 武運長久」の文字と十数人の名前が並ぶ。小石さんは「寄せ書きに手形を押した記憶があるけど、戻ってきたのはそれとは別物のようです」と話す。
清子さんは2001年に亡くなった。小石さんは母の墓前に「(父が)帰ってきたよ」と報告した。小石さんは旗を手に「みんなのお世話になって戻ってきた。ありがたいこと」と目を細めた。
https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202011/0013860698.shtml?fbclid=IwAR08OiXgNsFkRiV82R3ErsGsz1hrxaHLm6AnNpgV1yvuqEohJKcRSnhi9V4
戦後75年の節目に、姫路へ帰ってきた日章旗を見詰める岡本明さん(左)と四男の崇宏さん=姫路市本町
フィリピンで戦死、形見の日章旗が遺族の元へ 「思いやりに感謝」
太平洋戦争の激戦地フィリピンで1944年秋に戦死した兵庫県姫路市出身の岡本朝夫さんが、出征時に贈られたとみられる日章旗が75年以上の時を経て遺族の元に届けられた。米軍が戦利品として持ち帰ったが、日本兵の遺品の返還を進める米国の団体が仲介して帰郷が実現した。おいの岡本明さん(64)=同市=は「多くの人の思いやりと努力で遺品が戻ってきてありがたい」と喜ぶ。
朝夫さんは同市山野井町で育ち、海軍の1等機関兵曹だった44年10月25日に26歳で亡くなったとされる。明さんは「その日にフィリピン沖で沈没した空母『瑞鶴(ずいかく)』の乗組員だったそうだ」と話すが、最期の詳しい状況は分からないという。
戦時中、出征する人には友人や身近な人が寄せ書きした日章旗が贈られた。受け取った兵士はその旗を丁寧に折り畳んで身に着け、戦地へ向かったとされる。
返還された日章旗は右上に「贈岡本朝夫君」と記され、約30人の名前が連なる。無事を祈る「武運長久」や当時の世相を映す「連戦連勝」「無敵皇軍」といった言葉も並ぶ。米軍の陸軍隊員が戦地から持ち帰ったとされるが、保管状況などの詳細は不明という。
米オレゴン州で活動する団体「OBONソサエティ」から日本遺族会に照会があり、県遺族会姫路支部が調査。姫路護国神社(同市本町)に残る記録などから明さんにたどり着いた。
明さんの父四一(よいち)さんは8人きょうだいの末っ子で、10歳ほど上の朝夫さんもよく面倒を見ていたという。その四一さんは十数年前に死去。明さんはあらためて日章旗に目をやり、「生きている間に見せてあげたかったなあ」とつぶやいた。https://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/202010/0013823488.shtml?fbclid=IwAR3GAcusxBGgjMo-96ODUw6l7GQOfV3-0yuI6ycc2xm4hDk_KPb4Nt_-Gdc
【前葉市長(左)から正さんの日章旗を受け取ったおいの忠さん=津市安濃町東観音寺で】
津 マスク姿で戦没者追悼 規模縮小で式典 日章旗、遺族に返還 三重
©株式会社伊勢新聞社
https://this.kiji.is/693630571213341793?c=62479058578587648
【津】津市戦没者戦災犠牲者追悼式が26日、三重県津市安濃町東観音寺のサンヒルズ安濃であった。新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐため、参列者を例年の4分の1以下に縮小。遺族会の代表ら約70人が参列し、戦没者らの冥福を祈った。米兵が持ち去った日本兵の日章旗が市内では初めて遺族に返還された。
追悼式は毎年10月下旬に実施。例年は遺族ら約400人が参列するが、今年は感染症対策のため、遺族や来賓の規模を縮小した。マスクを着用した参列者は間隔を空けて着席。黙とうをささげ、献花した。
前葉泰幸市長は式辞で世界各国で流行する新型コロナに触れ「世界中が歩調を合わせ、前に進むことが人類の繁栄のために大切なこと。それこそが戦争のない平和な世界の実現に続く道のりである」と述べた。
遺族を代表して市戦没者遺族会副会長の坂口喜代司さん(81)が「75年がたち、平和な国家として発展したが、遺族にとって忘れられるものではない。永遠の平和と冥福を祈る」と追悼の言葉を読み上げた。
また、前葉市長は太平洋戦争中に戦利品として米兵らに持ち去られた日章旗を遺族に返還。フィリピン・レイテ島で昭和19年10月に戦死した大橋正さんのもので、おいの忠さん(67)=安濃町=に手渡した。
この日章旗は米国カンザス州のジェームズ・エッカーさんが米兵だった妻の伯父から譲り受けて保管していた。日章旗の返還活動に取り組む米国のNPO「OBONソサエティ」が日本遺族会を通じて届けた。
式後、日章旗を受け取った忠さんは「突然のことでびっくりした。歓喜に堪えない。遺族会の努力のたまもの」と感謝し「亡くなった祖母や父も喜んでいると思う。75年ぶりに家に帰ってきた」と語った。
父親の唯一の遺品を受け取った大森長秀さん
2020年10月20日:NHKニュースウォッチ9でOBONソサエティの活動について報道されました。関連リンク先は下記となります。
https://youtu.be/uL9PTxCjXi8
届けられた寄せ書き入りの日章旗=揖斐川町三輪で
2020年10月6日付:中日新聞にて
https://www.chunichi.co.jp/article/132602
寄せ書き日章旗、遺族の元に揖斐川町の戦没者追悼式で
太平洋戦争で戦地に向かう日本兵に贈られた寄せ書き入りの日章旗が五日、揖斐川町の戦没者遺族に届けられた。
同町三輪の三輪神社であった戦没者追悼式典に合わせて返還され、関係者らが平和を守る思いを新たにした。
旗の持ち主は、同町三輪のパート高崎ひろみさん(47)の母のいとこにあたり、フィリピンで戦死した高崎正さん。
縦六十センチ、横九十センチほどの旗には、出征兵の無事を願う「武運長久」の文字とともに、家族や友人らとみられる五十人以上の名前が寄せられている。
日章旗は当時、米軍兵が戦利品として持ち帰ったとみられ、旧日本兵の遺留品返還に取り組む米国のNPO「OBONソサエティ」が、日本遺族会などを通じて届けた。
遺族会からの調査依頼にあった正さんの本籍地が遺族を特定する手掛かりになった。
追悼式典に合わせて遺品の返還式を開き、ひろみさんと夫の武記さん(47)が富田和弘町長から日章旗を受け取った。
二人は式典の出席者らと共に旗を広げ、書き込まれた名前をじっくりと確かめていた。
武記さんは「旗に署名してくれた人と、これを持って戦争へ行った正さんはどんな気持ちだっただろうか。
今の時代に生まれた僕には全然分からず、言葉がない。大切に保管して子どもたちに伝えていきたい」と、声を震わせて決意を語った。
この度、ご遺族へ返還できた 内田曻市命「寄せ書き日の丸」
米国インディアナ州在住米国人のクリスティーンさんがOBONソサエティに返還依頼をされた内田曻市様の日章旗は、愛知県在住の内田道子様(姪)のお手元に無事返還されました。
下記リンク先は、8月19日付 東愛知新聞で掲載された関連記事です。http://www.higashiaichi.co.jp/news/detail/6730?
下記リンク先は、メーテレニュースで報道された関連動画です。
https://youtu.be/9omf7d-2NTY
Christine Itt requested OBON SOCIETY to return Good Luck Flag was safely returned to Ms. Michiko Uchida, niece of the soldier, Mr. Shoichi Uchida.
76年ぶりに返還された和泉則男命「寄せ書き日の丸」Mr. Norio Izumi's "Yosegaki Hinomaru"
レイテ島戦没者の日章旗が犬山の遺族の元へ: 2020年8月5日: 中日新聞(Chunichi News)
https://www.chunichi.co.jp/article/99843?rct=aichi
愛知県犬山市:戦死から76年が経って「返還」 日本兵の日章旗が遺族の元に戻る:2020年8月4日: メーテレニュース(TV News)
https://youtu.be/sGHFfjNY47Y
青森県在住の久保田松雄さま(甥)へ返還された久保田松三郎様の寄せ書き日の丸
Mr. Matsuzaburo Kubota's Yosegaki Hinomaru was safely return to his nephew in Japan.
青森県五戸町(旧川内村):
7月22日、青森県五戸町にて「久保田松三郎 命」の日章旗返還式が日町役場にて執り行われました。
下記は記事のリンク先です。
https://www.toonippo.co.jp/articles/-/384230
<東奥日報:記事の文面>
太平洋戦争末期にフィリピンで戦死した青森県五戸町(旧川内村)出身の故久保田松三郎さん=享年(26)=が所持していた「寄せ書き日の丸」が22日、75年ぶりに故郷への里帰りを果たした。この日町役場で若宮佳一町長から日章旗を受け取った同町のおい松雄さん(76)は「75年もたって、こんなきれいな状態で届けられるとは驚いた」と感慨深げに話した。
1920(大正9)年生まれの松三郎さんは海軍の2等整備兵曹として従軍。45年6月、ミンダナオ島レブコ付近で戦死したとされる。日章旗の返還を受けた松雄さんは松三郎さんの兄松次郎さんの長男で、この日は自身の長女の田沼悦子さん(52)、次女の久保田晴美さん(49)と共に町役場を訪れた。
日章旗は縦75センチ、横1メートル10センチの絹製。親族と当時の付近住民など50人以上の署名に加え「祈武運長久」「決死必勝」の激励の文字が記されている。南フィリピン諸島での戦闘に参加した米国ロードアイランド州の元陸軍兵士が所有していたもので、遺族から連合軍兵士が持ち帰った日章旗の返還活動を行っている米国NPO「OBON(オボン)ソサエティ」に託されたという。
松雄さんによると、松三郎さんは小学校卒業後、地元でおけの製造業に関わった後に上京。兵器製造関連の企業で勤務し、後に海軍へ志願した。親戚などの話では、歌が得意な人で、各地の祭りや盆踊りに赴き民謡を披露していたという。
戦死後実家には遺骨や遺品は届かず、海軍に入った当時に撮影したとみられる写真だけが残されている。「父からは(ミンダナオ島に)行く途中で船が沈められたのでは、と聞いていたが、遺品が見つかったということは無事上陸はできたのだろう。アメリカの方もよく保管しておいてくれた」と話していた。
日章旗は今後、親族に実物を見てもらった後、保管方法について相談することにしている。
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