第2次世界大戦で旧平田村(現酒田市)から出征し、フィリピンで戦死した佐藤好(よしみ)さんの日章旗が22日、76年の時を経て遺族の元に届けられた。受け取ったのはただ1人の肉親で、おいの会社員佐藤厚さん(69)=同市若宮町2丁目。厚さんは「ようやく、おじは古里に帰ることができた。若くして散った息子が帰り、亡くなった祖父母も安堵(あんど)していると思う」と語った。 https://www.youtube.com/watch?v=gyYzN8YUJ1E
76年ぶり遺品届く 佐藤さん(旧平田町出身)の寄せ書き入り日章旗 戦没者遺留品調査 米国で発見 日本遺族会が実施している「戦没者遺留品の返還に伴う調査」でこのほど、旧平田町出身の故佐藤好(よしみ)さんの遺品である寄せ書き入りの日章旗が米国で発見され22日、酒田市新橋二丁目の市地域福祉センターで戦没者遺品返還式が行われた。 故佐藤好軍曹は、陸軍野戦重砲兵第22連隊に所属し、終戦2カ月ほど前の1945年6月20日、フィリピン・ルソン島のマニラ東約30キロ地点で25歳の若さで戦死した。旧日本兵の遺留品返還に取り組む米国のNPO法人「OBONソサエティ」のドナルド・ストルニアー氏や日本遺族会、同市の平田遺族会、市社会福祉協議会の尽力により、76年ぶりに遺族へ返還された。 この日は、丸山至酒田市長や平田遺族会の東海林正会長、おいの佐藤厚さん(69)=酒田市若宮町二丁目=が出席し、丸山市長から佐藤さんへ日章旗が渡された。佐藤さんは「連絡を受けた時は本当にびっくりした。彼岸なので祖父母の墓前に報告したい」と語り、丸山市長は「遺留品の返還に携わった関係者に感謝。次代を担う世代に戦争の悲惨さを語り継がなければならない」と話した。 http://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2021%3A09%3A24%3A10655&fbclid=IwAR0FAhrKJB3gVo_SlHsM8ifPEksmpytHf7hKm-sVZL1kfTOeGPZKPsuE-xI
第2次世界大戦で旧平田村(現酒田市)から出征し、フィリピンで戦死した佐藤好(よしみ)さんの日章旗が22日、76年の時を経て遺族の元に届けられた。受け取ったのはただ1人の肉親で、おいの会社員佐藤厚さん(69)=同市若宮町2丁目。厚さんは「ようやく、おじは古里に帰ることができた。若くして散った息子が帰り、亡くなった祖父母も安堵(あんど)していると思う」と語った。 佐藤さんは陸軍野戦重砲兵第22連隊に所属し、終戦2カ月ほど前の1945(昭和20)年6月20日、ルソン島のマニラ東方約30キロ地点で戦死したとされる。25歳だった。佐藤さんの日章旗は、フィリピン戦線に米兵として赴いたドナルド・ストルニアーさんの義父が戦利品として米国に持ち帰っていた。義父の死後、遺品整理をしていてストルニアーさんが発見した。 米国では近年、先の大戦に参戦した米兵の遺品整理により、戦地から持ち帰った日本兵の日章旗や写真などが見つかるケースが増えている。NPO法人などが遺族に返還する活動をしており、佐藤さんの日章旗も「OBONソサエティ」というNPO法人が仲介し、日本遺族会、同市の平田遺族会、市社会福祉協議会などを通して厚さんの元に返された。 「祝入営 佐藤好君」「祈武運長久」…。市地域福祉センターでの返還式で広げられた日章旗には、力強い書体の激励と、何人もの名前が日の丸の周りに書かれていた。穴が空き色あせてはいるものの、戦地に散ったおじのただ一つの遺品。厚さんは、感慨深そうに見つめ、丸山至市長から丁寧な手つきで受け取った。 佐藤さんは独身のまま戦死し、今や佐藤さんを知る肉親は厚さんだけだ。日章旗返還の情報は平田遺族会に2年前にあったが、酒田市から出征し、戦死したのは陸海軍合わせて3316人。手掛かりは少なく、人づてに厚さんに行き着くまでには半年以上かかった。さらに新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、返還が遅れた。 厚さんの父も海軍兵として出征したが、復員することができた。「おじのことは写真でしか見たことがないが、相撲が強い人だったと父から聞いた。どんな状況で戦死したかは詳しくは分からないままだ」と厚さん。祖父母や父の墓前に報告後、日章旗は多くの人が見られるようにしたいと考えている。 https://www.yamagata-np.jp/news/202109/22/kj_2021092200487.php?fbclid=IwAR27WvjzUaKNqyI7Pbi-WT9qGxR8_TWNFcPTCcCXgRM0W9VdOQ_BZmHhO04
番組URL https://www.youtube.com/watch?v=qs6yOXjoiKQ&t=209s キャスター:小野寺まさる(元北海道議会議員) 特別ゲスト:工藤公督(OBONソサエティ捜索&広報) ◆チャンネル桜北海道公式HP http://ch-hokkaido.jp/
こちらの日章旗、太平洋戦争で命を落とした兵士の遺品です。 今月30日 77年の時を経て北海道の家族のもとに返ってきました。 岡村義人さん「肌身離さず持ってたんだろうなあ」 日の丸に寄せ書きされた激励の言葉。 戦地に向かう海軍兵士に贈られた日章旗です。 8月30日その兵士の故郷・雨竜町で遺族のもとに返還されました。 岡村義人さん「こうして日章旗が返ってきたことは大変嬉しく思います・・・」 日章旗の持ち主だった岡村耕平さんは1944年にニューギニア島中北部で命を落としたといいます。38歳でした。 日章旗は日本兵にとってのお守り代わりでしたが当時のアメリカ人にとって敵軍の旗は一番の戦利品とされ、持ち帰ることは名誉なことでした。 今回、日章旗を返還したのはアメリカ・ロードアイランド州に住むジェームズ・ルイスさん。 ジェームズさんの父、ポールさんはアメリカ陸軍兵としてニューギニアなど南太平洋で従軍していた時、岡村さんの日章旗を手に入れたと見られています。 ジェームズさん「旗はトランクに入っていました。父の制服やナイフ、剣など南太平洋で集めたものが入っていました。」 ポールさんが亡くなった後、遺品の中から日章旗が見つかったそうですがそれまで家族もその存在を全く知らなかったといいます。 ジェームズ・ルイスさん「私はこの旗の意味を、全くわかっていませんでした。父は、戦争時の体験を一度も話したことがなかったからです。それらの記憶は相当苦しいものだったのだと思います。父は旗をしまい込んでいました。」 この旗を兵士の家族に返したい。去年、ジェームズさんは日章旗を遺族に返す活動をしている米国の非営利団体に捜索を依頼。 ことし7月に岡村耕平さんの息子義人さんにたどり着きました。 OBONソサエティ工藤公督さん「この返還活動っていうのは日本のご遺族に対してその心の安らぎであったり何らかのけじめであったり色んな思いを断ち切る、次に進むためのイベントだと思ってたんですけど、米国側にも、戦争で傷ついた心を癒すために何かしら日本と和解をしたいという気持ちが非常に大きいんですね」 ニューギニアからアメリカを渡り77年かけて家族のもとに帰ってきた日章旗。 岡村義人さん「自分としても、ひとつのこれで区切りがつきます。(旗が)返ってきたっていうことは、自分たちにとっては最高の幸せですね。」 https://www.htb.co.jp/news/archives_12974.html
日章旗、北海道の遺族に返還 親族ら「気持ちに一つの区切り」 第二次世界大戦中、ニューギニア島北岸の町ホーランジアで戦死した北海道空知管内雨竜町出身の岡村耕平さん=享年38=が持っていた日章旗が30日、民間非営利団体を通じて米国から北海道内の遺族に返還された。 同町内の雨竜神社で返還式が行われ、親族や地元関係者ら約10人が出席した。長男の岡村義人さん(82)=滝川市=は「自分の気持ちの中で一つの区切りがついた」と述べ、返還に携わった関係者に感謝の思いを語った。 日章旗は米国ロードアイランド州在住のジェームス・ルイスさん(73)が所有していたもの。1992年に73歳で死去した父親のポール・ルイスさんの遺品の中にあった2枚の日章旗のうちの1枚で、日米で日章旗返還を通じた平和活動に取り組む「OBONソサエティ」を通じて親族に返還したいと申し出があったという。ポールさんは元米国陸軍第2大隊の歩兵隊に所属し、ニューギニアやフィリピンなどに従軍していたといい、その途中で戦利品として日章旗を持ち帰ったとされる。 同団体で広報などを担当する工藤公督(こうすけ)さん(46)は「ジェームスさんによると、父親から戦争に関する話は聞いたことがなく、日章旗についても見つかるまでは知らなかったという。自らインターネットなどで調べて寄せ書き入りの日章旗の意味を知り、昨年4月に返還したいと当団体に連絡してくれた。もう1枚の日章旗も親族へ返還されている」と話す。 雨竜町内の雨竜神社で行われた返還式には、長男の岡村義人さんをはじめ、長女の渋谷富子さん(86)=滝川市=、次女の武田美枝子さん(84)=岩見沢市=の3きょうだいと孫など6人の親族が集まった。 返還された日章旗には「元気で頼む」「忠勇義烈」「守れ祖国の生命線を」など31人分の寄せ書きとともに「岡村耕平君 雨竜村第9区住民一同」と記されており、父親の遺品を見ながら涙をぬぐう姿もあった。 義人さんは「60歳を過ぎたころに靖国神社へお参りして父に別れを告げてきたが、こうして遺品が戻ってきてくれたことで自分自身の気持ちに一つの区切りがついた」と率直な思いを述べた。義人さんの長男で、耕平さんの孫にあたる英司(ひでし)さん(57)は「日章旗がどうして向こう(米国)に渡ってしまったのか複雑な思いもあるが、祖父の遺品が戻ってきてくれたことはうれしい。私の子供にも伝えたい」と話した。 OBONソサエティによると、日章旗は米兵が戦利品として持ち帰ったケースが多く、米国内には約3万枚があるとされる。同団体はこのうち約2千枚について返還に係る捜索依頼を受けており、400枚以上返還した実績を持つ。工藤さんによると、最近はコロナ禍により米国でもステイホームが長期化。自宅を片づけている中で見つかるケースが増えているという。コロナ禍の影響で遺族捜索が難しいケースもあるが「さまざまな団体・機関の理解と協力をいただきながら、今後も返還活動を進めていきたい」と話している。 https://www.sankei.com/article/20210830-632LMKICV5PX5F3CONZAWNMBYY/?fbclid=IwAR1x1zv7bLDVWDR1YQgFDq_09_0qJp9cZa_ai06VTjyYFIZf1D1uwPaZYDU
【北海道雨竜】太平洋戦争中の1944年(昭和19年)5月に南太平洋のニューギニア島で戦死した空知管内雨竜町出身の岡村耕平さん(享年38歳)が戦地で携行していた日章旗の返還式が30日、町内の雨竜神社で行われた。 旧日本兵の遺留品返還を進める米国の団体「OBONソサエティ」の仲介で、道内遺族への返還は3例目。岡村さんの長男義人さん(82)=滝川市在住=は「これで父の死に一つの区切りをつけることができた」と語った。 同団体などの調査によると、岡村さんは旧日本海軍第九艦隊第九十警備隊に配属され、44年4月22日に激戦地のニューギニア島に上陸。その後の戦闘で散り散りとなり、旧陸軍の記録によると同年5月3日に部隊の玉砕が報告されており、岡村さんも同日に亡くなったとされる。 日章旗は出征時に「雨竜村第九区住民一同」から贈られたもので岡村さんの名前のほか、「守れ祖国の生命線を」などと約30人からの寄せ書きがある。92年に亡くなった元米陸軍兵士の遺品の中にあった旗を遺族が発見し、2020年4月に「OBONソサエティ」に連絡。札幌在住の同団体スタッフ工藤公督(こうすけ)さん(46)=札幌在住=が調査を行い、今年7月、義人さんに連絡を取り、返還が実現した。 返還式には義人さんら遺族6人と西野尚志雨竜町長らが出席。義人さんは「父の生きた姿を見た記憶はなく、遺品も残っていない。旗は大事に仏壇の中で保管したい。尽力してくださった方々には感謝しかない」と語った。 同団体は道内では15年に札幌と千歳の遺族に日章旗を返還している。工藤さんは「団体では未返還の遺品が2千点以上ある。今後、道内遺族への返還につながっていけば」と話している。 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/583847?rct=n_society
米国で保管の日章旗 昭和19年戦死兵士の遺族に返還 雨竜町 太平洋戦争で戦死した空知の雨竜町出身の男性のものとみられる日章旗が見つかり、30日、遺族に返還されました。 返還されたのは、当時の雨竜村、現在の雨竜町出身で、太平洋戦争中の昭和19年に戦死した岡村耕平さんのものとみられる日章旗です。 日章旗を返還する活動にあたっているNPOによりますと、この日章旗はアメリカの元陸軍兵士の自宅に保管されていたということです。 30日は雨竜町の神社で遺族への返還式が行われ、岡村さんの子どもや孫など14人が集まり長男の岡村義人さんに日章旗が手渡されました。 旗には岡村耕平さんの名前とともに村の人たちによる激励や健康を願う手書きのメッセージが書き込まれていて、義人さんたちは涙ぐみながら旗を見つめていました。 また、日章旗を見つけたアメリカ軍兵士の息子からは「お父様の旗が帰郷され、皆様に心の安らぎと幸福をもたらしますように」という手紙が代読されました。 義人さんは「父の日章旗が見つかり、このように手元に戻ってきて感激です。家に持ち帰って大切に保管したいです」と話していました。 https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20210830/7000037822.html
「武運長久祈ル」「元気で頼む」「北海男子」「盡(じん)忠報国」「守れ祖国の生命線を」。その日章旗には、戦地へ行くのを見送った故郷の人たちの、数々の寄せ書きが残されていた。 太平洋の激戦地で戦死した北海道雨竜町出身の海軍兵の所持品とみられる日章旗が、77年の時を経て遺族の元に戻る。元米国兵の家族が保管していたもので、旧日本兵の遺品を遺族に返す活動をしている米オレゴン州の非営利団体「OBONソサエティ」の仲介で、30日に同町の雨竜神社で返還式が行われる。 OBONソサエティは、オレゴン州在住のジーク敬子さんが戦死した祖父の日章旗の返還を受けたのをきっかけに、夫のレックスさんと2009年につくった団体だ。兵士らの遺品の返還活動を通じて旧交戦国との和解と友好を訴えている。これまでに戦利品などとして米国などに持ち帰られた日章旗約400枚などを、日本の遺族らに届けてきた。 今回返還される日章旗には、旧日本海軍の第九艦隊第九十警備隊に所属した、岡村耕平一等兵曹の名が書かれていた。妻子4人と農家を営んでいた岡村さんの出征の際に「雨龍村第九区住民一同」が贈ったとみられ、日の丸を囲んで約30の寄せ書きがあった。 防衛研究所の戦史叢書(そうしょ)やOBONソサエティの調査によると、太平洋南部・ニューギニア島の北岸ホーランジアに上陸した同警備隊は、1944(昭和19)年4月、連合国軍の急襲を受け、29日に部隊は散り散りになった。 「ゲリラ活動を続行せよ」との命令で戦闘を継続したが、5月3日には艦隊司令長官以下の玉砕が報告された。岡村さんも同日に戦死、38歳だった。部隊の生存者は数人にすぎなかったという。 岡村さんの日章旗を所有していたのは、米国陸軍兵士の息子のジェイムス・ルイスさん(73)。亡くなった両親の遺品の中に階級章などと共に保存されていたのを見つけ、OBONソサエティに連絡した。https://news.yahoo.co.jp/articles/e6851d11616d50371691889a85ff52b4d80e4d77?fbclid=IwAR3nOnUWECtsTSjp4xxc3tlt48JzNrx0qagDV0arqToLWBX598rWfPlYxZE
「武運長久祈ル」「元気で頼む」「北海男子」「盡(じん)忠報国」「守れ祖国の生命線を」。その日章旗には、戦地へ行くのを見送った故郷の人たちの、数々の寄せ書きが残されていた。 太平洋の激戦地で戦死した北海道雨竜町出身の海軍兵の所持品とみられる日章旗が、77年の時を経て遺族の元に戻る。元米国兵の家族が保管していたもので、旧日本兵の遺品を遺族に返す活動をしている米オレゴン州の非営利団体「OBONソサエティ」の仲介で、30日に同町の雨竜神社で返還式が行われる。 OBONソサエティは、オレゴン州在住のジーク敬子さんが戦死した祖父の日章旗の返還を受けたのをきっかけに、夫のレックスさんと2009年につくった団体だ。兵士らの遺品の返還活動を通じて旧交戦国との和解と友好を訴えている。これまでに戦利品などとして米国などに持ち帰られた日章旗約400枚などを、日本の遺族らに届けてきた。 今回返還される日章旗には、旧日本海軍の第九艦隊第九十警備隊に所属した、岡村耕平一等兵曹の名が書かれていた。妻子4人と農家を営んでいた岡村さんの出征の際に「雨龍村第九区住民一同」が贈ったとみられ、日の丸を囲んで約30の寄せ書きがあった。 防衛研究所の戦史叢書(そうしょ)やOBONソサエティの調査によると、太平洋南部・ニューギニア島の北岸ホーランジアに上陸した同警備隊は、1944(昭和19)年4月、連合国軍の急襲を受け、29日に部隊は散り散りになった。 「ゲリラ活動を続行せよ」との命令で戦闘を継続したが、5月3日には艦隊司令長官以下の玉砕が報告された。岡村さんも同日に戦死、38歳だった。部隊の生存者は数人にすぎなかったという。 岡村さんの日章旗を所有していたのは、米国陸軍兵士の息子のジェイムス・ルイスさん(73)。亡くなった両親の遺品の中に階級章などと共に保存されていたのを見つけ、OBONソサエティに連絡した。---------- 全文は添付の画像かリンク先で読んでいただけると幸いです。 https://www.asahi.com/articles/ASP8M4K7QP8KIIPE01H.html