太平洋戦争の沖縄戦で戦死した留萌市出身の男性の日章旗が、終戦から78年となるのを前に、道南の松前町に住む遺族の元に返還されました。
返還された日章旗は、昭和20年6月に太平洋戦争の沖縄戦に従軍し、38歳で戦死した留萌市出身の旧日本陸軍の軍人、鈴木秀二さんが所持していたものです。
松前町役場で行われた返還式には、鈴木秀二さんの長男の鈴木一弘さん(86)ら遺族が出席し、石山英雄町長から日章旗を受け取りました。
日章旗には秀二さんの名前とともに、「必勝」などの文字が寄せ書きされていて、手に取った遺族は時折涙を浮かべ生前の記憶に思いをはせていました。
日章旗は沖縄戦に参戦したアメリカ陸軍の元軍人が戦地から持ち帰っていましたが、その孫が、戦没者の遺留品を遺族の元に返す活動をしているアメリカのNPO「OBONソサエティ」に依頼し、遺族を探し出したということです。
一弘さんの妻の鈴木玲子さんは「夢のようです」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20230726/7000059478.html?fbclid=IwAR19sUCjzSPPEUdxhjpp53TFkwSzhUqOZU6iLE0lTM9C9IZiwdQxrT2sylI
本日令和5年7月14日、来たる7月26日に北海道松前町にて執り行われます「鈴木秀二」命日章旗返還式に関するプレスリリースを北海道内各記者クラブへ配布いたしました。
中日新聞がOBONソサエティが現在捜索を進めている岐阜県の旧下石町(現・土岐市下石町)出身の日本陸軍兵士 【髙木直市 命の遺書】について記事を掲載して下さいました。
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「今初メテ心カラ礼ヲ言フゾ」 妻に宛てた日本兵の遺書、米で発見
太平洋戦争の戦地で死亡した日本兵の遺書が米国で見つかり、返還に向けて岐阜県土岐市の遺族連合会が遺族を探している。遺書を戦地から持ち帰った米軍の軍医の孫が、遺品返還に取り組む米オレゴン州のNPO「OBON(オボン)ソサエティ」に託した。孫は「少しでも早く遺族が見つかれば」と返還を心待ちにしているという。
「三人ノ子供ハ絶對(たい)他人ノ手ニテ育テサスナ」「今日カラハ體(からだ)ヲ皇國ニ捧ゲ第二ノ國民タル三児ヲ守レ」
日本兵の遺書は妻宛てで、便箋三枚。子どもの養育や財産の分配などについて書かれ、妻に子どもたちの将来を託した内容となっている。
「俺ガ今日迄何ノ虞(おそれ)モ無ク常ニ安心シテ一途ニ御奉公ノ出来タノモ心秘(ひそ)カニ節子ヲ信ズレバコソダ 今初メテ心カラ礼ヲ言フゾ」と感謝を伝える言葉もあり、「今戦ノ中場デ斃(たお)レルハ誠ニ残念ナルモ俺ハ笑ツテ死ヌ事ガ出来ル」ともつづっている。
続きはこちら→ https://www.chunichi.co.jp/amp/article/526309
右近恒雄命の義理の息子にあたる市名豊治さん
子供たちを想いカタカナで綴られた葉書
捜索班の工藤です。令和4年4月3日、硫黄島で散華された日本海軍兵士「右近恒雄 命」の遺留品をご遺族へ返還する為、北海道の美深町を訪れました。
遺留品は「右近恒雄 命」が郷里に住む5人の子供たちへ宛てた葉書でした。葉書には幼い子供たちに「仲良く、病気や怪我に気を付け勉強に励み叔母さんの言う事を聞くのですよ」と全文がカタカナで綴られてありました。
返還を受けられたのは兵士の末娘、御年83歳になられる「恒子」さんでした。しかしながら恒子さんは返還の数日前に怪我をされて入院されており、代わりに恒子さんのご主人が葉書を受け取られました。ご夫妻の住まわれる高齢者施設へは昨今のコロナ過という事もあり、入室が制限されてあるため返還は施設の玄関風除室で行われました。職員さんが風除室に椅子を用意して下さりそこで膝を突き合わせ、風呂敷の上で行われた小さなセレモニーでした。
風呂敷から取り出した葉書を見られたご主人は「子供たちが読めるように全部カタカナで書いたんですね」と義理の父の、子を思う優しさを感じていたようでした。OBONからは当会からのメッセージと、遺留品の提供者である米国フロリダ州在住の「マージョリー・ダネヒー」さんからのお手紙についてお話しました。
この時期の北海道は4月とは言え外気温は7度ほど、風除室も外とたいして変わらない温度なので長居は出来ないと判断しなるべくショートカットで進めました。私からは恒雄さんが硫黄島警備隊に配属されており葉書に記された記号などから、恒雄さんは摺鉢山での戦いに参戦されていたであろうこと。戦没日の3月17日は日本軍が上陸した米軍に対し総攻撃を開始した日である事。遺留品の葉書は恒雄さんが郵便としてだされた後に接収された事などOBONの調査で判明した事をお話しました。ご主人はずっと葉書を手に持ち見つめながら話を聞かれていました。私から「恒子さんはこの返還について何かおっしゃてましたか」とお聞きしました。「きっとこの葉書を手にしたら話してくれると思う」と仰ってました。またご主人はゆっくりと口を開き「5人兄妹でね、戦争でお父さんをなくしてからはお母さんが一人で布団屋さんを切り盛りして子供たちを育てたんだよ。布団の修理とか打ち直しなんかをね一人でやってね。。お父さんが硫黄島で戦死した。。。」ここから泣き崩れてしまいその言葉は聞き取れませんでしたが、きっと恒子さんから幼い頃の話を聞いておられたのでしょうか、それともこの世代の皆さんが一様に経験した戦争という悲劇を思い返されていたのでしょうか。そんな色んな感情の混ざった涙だったと感じました。
恒雄命の子供たちは恒子さんを含め3人がご存命で、この返還を待ち望んでおられると仰ってました。色々と落ち着いたらきっと皆で集まりお披露目したいとお話されていました。
この度の返還、誠におめでとうございました。
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79 years on, WWII Japanese soldier's good-luck flag returns from US to his bereaved family
KITAMI, Hokkaido -- After 79 years, a Japanese flag thought to have been taken to battle by a soldier killed in the Pacific War has finally returned to his hometown, the city of Kitami in Hokkaido. Upon receiving it, his sister said through tears: "My brother has finally managed to come home."
On the flag were messages addressed to Shigenori Arae, who died in 1942 aged 23 on Guadalcanal in the Solomon Islands. Arae was the eldest son of nine siblings. His 93-year-old sister Kazuko Nakamata, who lives near the family home, said that because his remains were never returned, the flag meant her brother could finally come home.
Arae was assigned from the Imperial Army reserve officers' academy in Morioka, Iwate Prefecture, to Colonel Kiyonao Ichiki's detachment of the Imperial Japanese Army's 7th division in the Hokkaido city of Asahikawa. He was killed in combat against U.S. forces on Guadalcanal on Aug. 21, 1942, one of some 20,000 Japanese who died in the battle.
Arae was 21 when he left the Tokoro-cho neighborhood, now part of Kitami. His sister, Nakamata, then 13, recalled the day: "I went with him to Abashiri Station and saw him go. He leaned out the window and waved to me." Her big brother apparently asked her to "be good to our parents for me, too." "He was a kind brother," she said.
The flag, which has the words "presented to Shigenori Arae" written in its upper right corner, was found among the belongings of Louis Sowers, a U.S. military pilot who died in 2001. His nephew Mark Shelton was taking care of it when he learned about the movement to return Japanese flags. Shelton entrusted it to the Obon Society, an American non-profit organization. Eventually, they contacted the bereaved family association in Kitami, who took about two years to reach Arae's family including Nakamata.
The flag is quite damaged, as if telling of a fierce battle.
The inscriptions on it include "Buunchokyu (long-lasting good luck in battle)," "Fushakushinmyo (unsparing devotion to Buddhism)" and "Ganbare (do your best)." "They were probably written by his colleagues at work or at the military academy," Nakamata said.
A handover ceremony in Kitami on Nov. 6 was also attended by Arae's other siblings, Noriko Watanabe, 85, and Sanae Kudo, 80, who both live in Hokkaido. It was the first time the sisters had seen their brother's belongings in 79 years. They plan to display the flag along with his portrait in front of the Buddhist altar at the family home.
Nakamata thanked the involved parties including the Obon Society and Shelton, saying, "His remains were never returned. This is the only memento of him. I'm glad I lived long enough to see it." Obon Society staff member Kosuke Kudo, 47, said about 400 of the around 2,000 flags entrusted to it so far have been returned to bereaved families. This is the fourth case in Hokkaido, following others in Sapporo, Chitose, and Uryu.
https://mainichi.jp/english/articles/20211113/p2a/00m/0na/004000d?fbclid=IwAR3p5yrc_R1mYwPCixB9oPz_SVAe3QSmd_NK4710dj1GQYZZwv-Q8kKJjXA
兄ちゃん、お帰り 2021-11-10 掲載(北見市/社会)
北見市常呂の新江繁規さん遺品
太平洋戦争で旭川の陸軍支隊に所属し、激戦地ガダルカナル島で1942(昭和17)年に戦死した、北見市常呂の新江(あらえ)繁規さんが戦地で持っていた日章旗が6日、同市在住の妹ら遺族のもとに返還された。旧日本兵の遺品返還を進める米国の非営利団体OBON(オボン)ソサエティが日本の遺族会の協力を得て実現。81年を経て故郷に帰ってきた兄の生きた証を握りしめ、妹達は「兄ちゃんに会えた」と涙を流し、受け取った。
約80年経て日章旗が妹らの元へ
激戦地ガダルカナルで戦死
米国OBONソサエティの仲介で返還
当時の常呂村豊浜の新江家に生まれた繁規さんは20歳で徴兵検査に合格し、21歳で旭川の部隊に入営するため、働いていた夕張炭鉱を出征。その際に同僚らが寄せ書きした日章旗と思われる。武運長久、七生報國など気持ちを高ぶらせる言葉が並ぶ。
そのとき13歳だった三女の中股かず子さん(93、北見市常呂)は、いったん故郷・常呂に帰ってからの出征を網走駅まで見送りに行った。五女の渡部規子さん(85、江別市)は6歳で「お風呂に入れてくれたり、いい人でした」、六女の工藤早苗さん(80、札幌市)は「市松人形を買ってくれました」とそれぞれ思い出を語る。
新江さんは旭川で一木支隊に配属。OBONソサエティと日本遺族会常呂支部によると「一木支隊には、この地方からかなり配属になり、熊部隊と呼ばれ強健で、畏れられた」という。42(昭和17)年8月に空港奪還の命令でガダルカナル島に上陸侵攻したが、まちぶせに遭い、先発隊の多数が壊滅した。
元米軍パイロットの米ルイジアナ州に住む親族がテレビで遺品返還の活動を知り2019年に同団体に連絡。札幌在住の同団体日本スタッフ・工藤公督さんが「新江という珍しい名前を頼りに」探し出したそう。道内では4例目の返還となった。親族は米国から遺族宛に「心のくぎりとなりますように」とビデオメッセージを寄せた。
6日、市常呂老人いこいの家に妹ら家族3人が集まり、辻直孝市長を通じて返還された。同遺族会の土本勝昭常呂支部長が「お兄さんが帰って来たね」と声を掛けると、中股さんは涙を旗で隠した。そして「兄の形見であり宝ものです。仏壇に供え、みんなで兄ちゃんをしのびたい」とお礼の言葉を述べた。 https://denshobato.com/BD/N/page.php?id=124771&fbclid=IwAR0VY33UrjaDDMkpQgPdJ5-o-dSw7jb7sWU_iMhwosLJ00CssV_isoSdI6M
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