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左・山口則敦さん(小石則子さん提供)
右・返ってきた日の丸と、戦地から届いた則敦さんからの絵はがきを手にする小石則子さん=宝塚市内
フィリピンで戦死、父の「日章旗」75年経て娘の手元に
1944年4月に出征し、フィリピン・ルソン島で戦死した陸軍大尉の山口則敦さん=当時(34)=が持っていたとみられる日章旗が、75年の時を経て遺族の元へ帰ってきた。受け取った娘の小石則子さん(84)=兵庫県宝塚市=は「思いがけないことでびっくり仰天。父が帰りたいと願ったのだろうか」と話す。(中川 恵)
小石さんは神戸市須磨区で父則敦さんと母清子さんの3人暮らし。幼かった小石さんにとって則敦さんとの思い出は少ないが「夏に海へ泳ぎに出掛け、色白の父は翌朝、真っ赤になっていた」と振り返る。
則敦さんは召集令状を受け取り平壌へ。小石さんの元へは則敦さんから「からだにきをつけなさい」「なかよく遊びなさいよ」と書かれた絵はがきが届いた。ただ、同年末か45年初頭にルソン島へ移ってからは連絡が途絶えた。則敦さんの戦死が知らされたのは、戦後3年ほどたってから。遺品も遺骨もなかった。
母の清子さんは、夫則敦さんの部下を訪ねては戦地での様子を聞き、退職後はフィリピンにも行ったという。小石さんは成人してから「父は腹部に銃弾を受け、その後、自決した」と教わった。
則敦さんの日章旗を持っていた女性は米国在住で、元米兵の叔父が亡くなった際に譲り受けた。叔父は戦争体験について一切語らず、旗の入手経緯は分からなかったが、インターネットで米オレゴン州で活動する団体「OBONソサエティ」を知り、日本遺族会や県遺族会姫路支部を通じて小石さんにたどり着いた。女性は、旗に添えた手紙に「国が引き起こした戦争の責任を兵士個人が負うことなどできない。旗を受け取ったご遺族の心が少しでも癒やされれば」とつづった。
旗には「贈山口則敦君」「祈 武運長久」の文字と十数人の名前が並ぶ。小石さんは「寄せ書きに手形を押した記憶があるけど、戻ってきたのはそれとは別物のようです」と話す。
清子さんは2001年に亡くなった。小石さんは母の墓前に「(父が)帰ってきたよ」と報告した。小石さんは旗を手に「みんなのお世話になって戻ってきた。ありがたいこと」と目を細めた。
https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202011/0013860698.shtml?fbclid=IwAR08OiXgNsFkRiV82R3ErsGsz1hrxaHLm6AnNpgV1yvuqEohJKcRSnhi9V4
戦後75年の節目に、姫路へ帰ってきた日章旗を見詰める岡本明さん(左)と四男の崇宏さん=姫路市本町
フィリピンで戦死、形見の日章旗が遺族の元へ 「思いやりに感謝」
太平洋戦争の激戦地フィリピンで1944年秋に戦死した兵庫県姫路市出身の岡本朝夫さんが、出征時に贈られたとみられる日章旗が75年以上の時を経て遺族の元に届けられた。米軍が戦利品として持ち帰ったが、日本兵の遺品の返還を進める米国の団体が仲介して帰郷が実現した。おいの岡本明さん(64)=同市=は「多くの人の思いやりと努力で遺品が戻ってきてありがたい」と喜ぶ。
朝夫さんは同市山野井町で育ち、海軍の1等機関兵曹だった44年10月25日に26歳で亡くなったとされる。明さんは「その日にフィリピン沖で沈没した空母『瑞鶴(ずいかく)』の乗組員だったそうだ」と話すが、最期の詳しい状況は分からないという。
戦時中、出征する人には友人や身近な人が寄せ書きした日章旗が贈られた。受け取った兵士はその旗を丁寧に折り畳んで身に着け、戦地へ向かったとされる。
返還された日章旗は右上に「贈岡本朝夫君」と記され、約30人の名前が連なる。無事を祈る「武運長久」や当時の世相を映す「連戦連勝」「無敵皇軍」といった言葉も並ぶ。米軍の陸軍隊員が戦地から持ち帰ったとされるが、保管状況などの詳細は不明という。
米オレゴン州で活動する団体「OBONソサエティ」から日本遺族会に照会があり、県遺族会姫路支部が調査。姫路護国神社(同市本町)に残る記録などから明さんにたどり着いた。
明さんの父四一(よいち)さんは8人きょうだいの末っ子で、10歳ほど上の朝夫さんもよく面倒を見ていたという。その四一さんは十数年前に死去。明さんはあらためて日章旗に目をやり、「生きている間に見せてあげたかったなあ」とつぶやいた。https://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/202010/0013823488.shtml?fbclid=IwAR3GAcusxBGgjMo-96ODUw6l7GQOfV3-0yuI6ycc2xm4hDk_KPb4Nt_-Gdc
【前葉市長(左)から正さんの日章旗を受け取ったおいの忠さん=津市安濃町東観音寺で】
津 マスク姿で戦没者追悼 規模縮小で式典 日章旗、遺族に返還 三重
©株式会社伊勢新聞社
https://this.kiji.is/693630571213341793?c=62479058578587648
【津】津市戦没者戦災犠牲者追悼式が26日、三重県津市安濃町東観音寺のサンヒルズ安濃であった。新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐため、参列者を例年の4分の1以下に縮小。遺族会の代表ら約70人が参列し、戦没者らの冥福を祈った。米兵が持ち去った日本兵の日章旗が市内では初めて遺族に返還された。
追悼式は毎年10月下旬に実施。例年は遺族ら約400人が参列するが、今年は感染症対策のため、遺族や来賓の規模を縮小した。マスクを着用した参列者は間隔を空けて着席。黙とうをささげ、献花した。
前葉泰幸市長は式辞で世界各国で流行する新型コロナに触れ「世界中が歩調を合わせ、前に進むことが人類の繁栄のために大切なこと。それこそが戦争のない平和な世界の実現に続く道のりである」と述べた。
遺族を代表して市戦没者遺族会副会長の坂口喜代司さん(81)が「75年がたち、平和な国家として発展したが、遺族にとって忘れられるものではない。永遠の平和と冥福を祈る」と追悼の言葉を読み上げた。
また、前葉市長は太平洋戦争中に戦利品として米兵らに持ち去られた日章旗を遺族に返還。フィリピン・レイテ島で昭和19年10月に戦死した大橋正さんのもので、おいの忠さん(67)=安濃町=に手渡した。
この日章旗は米国カンザス州のジェームズ・エッカーさんが米兵だった妻の伯父から譲り受けて保管していた。日章旗の返還活動に取り組む米国のNPO「OBONソサエティ」が日本遺族会を通じて届けた。
式後、日章旗を受け取った忠さんは「突然のことでびっくりした。歓喜に堪えない。遺族会の努力のたまもの」と感謝し「亡くなった祖母や父も喜んでいると思う。75年ぶりに家に帰ってきた」と語った。
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