辻さんの軍隊手帳を受け取った善明さん(中)山田さんの日章旗を受け取った明宏さん(右)ら=県公館で
日章旗、軍隊手帳が遺族らの手に 旧日本兵3人の遺品返還
2021年2月10日 05時00分
太平洋戦争で県内から出征して亡くなった旧日本兵三人の遺品が九日、県公館で三人の遺族らに返還された。遺品は戦勝国の兵士らが母国に持ち帰ったとみられ、終戦から七十六年ぶりに遺族らの手に戻った。
返還されたのは、現在の米原市から出征した岡田勘平さんと、東近江市の山田芳蔵さんの日章旗、甲賀市の辻英次さんの軍隊手帳。いずれも、遺族へ返還する活動を続ける米国の団体「OBON SOCIETY」の依頼で、県遺族会が遺族を捜した。
返還式では山田さんの兄の孫、明宏さん(61)、辻さんの兄の孫、善明さん(56)に、三日月大造知事が遺品を手渡した。岡田さんの娘、信子さんは高齢のため欠席し、米原市遺族会が代理で受け取った。
山田さんの兄は二〇〇四年に亡くなったといい、明宏さんは「祖父が生きていれば、どれだけ喜んだことか。遺品が故郷に帰れたことを喜んでいると思う」と謝辞を述べた。
祖父も戦死したという善明さんは「先祖の苦労があって、今日私たちがいることを実感した」と話した。県遺族会相談役の国松善次元知事(82)は「遺品は無音の語り部。戦争の悲惨さ、平和の尊さ、友好の大切さを力強く語っている」と語った。
1枚目 返還された軍隊手帳と写真。手帳の右上には銃弾を受けたとみられる痕がある
2枚目 軍服姿の時雄さん(岡部昭治さん提供)
3枚目 幼少時の昭治さんと一緒に写真に写る時雄さん(右)。夏に大学から帰省した際の1枚とみられる(岡部昭治さん提供)
4枚目 返還された写真をてにする昭治さん
「兄さんが帰ってきた」 軍隊手帳と写真、米国から返還
太平洋戦争に出征し、フィリピンのルソン島で1945年に戦死した秋田県三種町川尻出身の岡部時雄さん=当時(23)=が携帯していた軍隊手帳と写真が米国で見つかり、2日遺族へ返還された。弟の岡部昭治さん(86)は「兄さんが帰宅したような思い。多くの方々の協力にお礼を言いたい」と話した。
手帳には時雄さんの入隊後の経歴や行動記録の一部が記され、右上には戦闘で銃弾を受けたとみられる痕がある。写真は時雄さんが軍隊の仲間と一緒に撮影したと思われる集合写真で、手帳に挟み込まれていた。
三種町役場で行われた返還式には、昭治さんや県遺族連合会の田口昭益事務局長(66)などが出席。田川政幸町長が昭治さんに遺品を手渡した。
昭治さんの元には、幼い頃に時雄さんと写った写真が残っていた。今回の返還に「敵と味方に分かれて戦った相手の遺品を米国の人が大事に保管し、届けてくれた。兄さんも両親もきっと喜んでいると思う」と話した。
元記事 https://www.sakigake.jp/news/article/20210203AK0021/
深谷健児さんの墓前で日章旗を広げる英美さん(右)、克己さん夫妻=茨城県桜川市大国玉
79年ぶり日章旗介して再会、米国から茨城の遺族に
2020/12/31 10:30朝日新聞デジタル
「祝武運長久」「体当たり」……。旗の白地にこんな文字がびっしりつづられている。南洋で戦死した茨城県桜川市出身の深谷健児さんが戦地に残した日章旗が今月、米国の民間団体から親類の深谷英美(えみ)さん(54)=同市=に手渡された。健児さんの弟が持たせた旗とわかり、英美さんから93歳の弟に送られた。79年ぶりに兄弟は、弟の入院先の病室でつかの間の再会を果たした。
深谷家の本家を継ぐ英美さんの家には、健児さんの位牌(いはい)があり、近所には健児さんの墓石もある。健児さんは、英美さんの父親のいとこにあたる。健児さんのものと思われる日章旗が米国にあると、英美さんに連絡があったのは今年10月。英美さんは、すぐに住職で健児さんの弟の深谷彦晃(げんこう)さん=滋賀県湖南市=に電話した。入院中の彦晃さんに娘たちが、コロナ禍で限られた面会時間で伝えた。彦晃さんはベッドで上半身を起こし、「そうか。ありがたいな」と涙ぐんだという。
彦晃さんによると、兄の健児さんは1941年に出征し、水戸の歩兵第二連隊に入隊。旧満州を経て南洋パラオ・ペリリュー島で24歳で戦死した。日章旗は、出征前、健児さんのために彦晃さんが持たせたものだという。彦晃さんの氏名と「貫け生死一処の大精神」の書き込みもある。
日章旗の返還活動をする米国の市民団体「OBONソサエティ」が、元米兵の遺族から託され、日本側の団体を通して英美さんを探し当てた。
日章旗は、タテ70センチ、ヨコ98センチほど。茶褐色に変色しているが、寄せ書きの氏名や文言は読み取れる。英美さんは、「破れないでよく残ってくれていた。(彦晃さんと)兄弟で再会させてあげたい」と日章旗を折りたたんで封筒に入れ、滋賀に送り、コロナ禍で短時間だけ許された面会の際に、家族が彦晃さんの病室に持参したという。
日章旗は今、彦晃さんが住職を務める寺で、兄弟水入らずの時を待っている。
◇
OBONソサエティ(米・オレゴン州)によると、深谷健児さんの日章旗は、1944〜45年、グアム島に派遣された元米国海兵隊員、故ケネス・カービィさんが持ち帰った戦利品の一つだという。遺族が保管し、同会に連絡があった。
日章旗に書かれた内容から、日本遺族会などの協力で、健児さんのものだとわかった。ケネスさんの遺族によると、ケネスさんは戦地で日本兵捕虜と関わりがあり、日本軍兵舎を見つけた思い出などを話していたが、日章旗を持ち帰った経緯は不明だという。
同会は活動を始めて11年間で、日章旗約380旗を日本側遺族の元に返還し、調査を待つ旗も1200以上あるという。同会共同代表のジーク敬子さん(53)は、京都出身。ビルマ(現ミャンマー)で戦死した祖父が戦地に携えた寄せ書きされた日の丸が、07年にカナダから返還された。母親が「長い年月をかけて家族に会いたいために帰ってきはったんやわぁ」と涙ながらに話したのが、この活動のきっかけとなった。
09年、歴史家のレックスさん(67)と結婚し、ともに活動を始めた。団体名は、先祖の霊が戻るお盆からとった。戦時中、敵軍の旗である日章旗は戦利品の中で最も人気があったという。日本兵の多くが身に付けていたため、多くの日章旗が米国内などに残されている。
敬子さんは「連合軍兵士たちは日の丸に何が書かれているのか理解していなかった。日章旗を返すことで、過去の歴史と心のわだかまりに終止符をうちたい。敵国として戦った者同士が、一枚の旗を通して、相手を思いやり、平和や友好を分かち合ってほしい」と話している。
https://www.asahi.com/articles/ASNDZ6WWPNDMUJHB00K.html
左・山口則敦さん(小石則子さん提供)
右・返ってきた日の丸と、戦地から届いた則敦さんからの絵はがきを手にする小石則子さん=宝塚市内
フィリピンで戦死、父の「日章旗」75年経て娘の手元に
1944年4月に出征し、フィリピン・ルソン島で戦死した陸軍大尉の山口則敦さん=当時(34)=が持っていたとみられる日章旗が、75年の時を経て遺族の元へ帰ってきた。受け取った娘の小石則子さん(84)=兵庫県宝塚市=は「思いがけないことでびっくり仰天。父が帰りたいと願ったのだろうか」と話す。(中川 恵)
小石さんは神戸市須磨区で父則敦さんと母清子さんの3人暮らし。幼かった小石さんにとって則敦さんとの思い出は少ないが「夏に海へ泳ぎに出掛け、色白の父は翌朝、真っ赤になっていた」と振り返る。
則敦さんは召集令状を受け取り平壌へ。小石さんの元へは則敦さんから「からだにきをつけなさい」「なかよく遊びなさいよ」と書かれた絵はがきが届いた。ただ、同年末か45年初頭にルソン島へ移ってからは連絡が途絶えた。則敦さんの戦死が知らされたのは、戦後3年ほどたってから。遺品も遺骨もなかった。
母の清子さんは、夫則敦さんの部下を訪ねては戦地での様子を聞き、退職後はフィリピンにも行ったという。小石さんは成人してから「父は腹部に銃弾を受け、その後、自決した」と教わった。
則敦さんの日章旗を持っていた女性は米国在住で、元米兵の叔父が亡くなった際に譲り受けた。叔父は戦争体験について一切語らず、旗の入手経緯は分からなかったが、インターネットで米オレゴン州で活動する団体「OBONソサエティ」を知り、日本遺族会や県遺族会姫路支部を通じて小石さんにたどり着いた。女性は、旗に添えた手紙に「国が引き起こした戦争の責任を兵士個人が負うことなどできない。旗を受け取ったご遺族の心が少しでも癒やされれば」とつづった。
旗には「贈山口則敦君」「祈 武運長久」の文字と十数人の名前が並ぶ。小石さんは「寄せ書きに手形を押した記憶があるけど、戻ってきたのはそれとは別物のようです」と話す。
清子さんは2001年に亡くなった。小石さんは母の墓前に「(父が)帰ってきたよ」と報告した。小石さんは旗を手に「みんなのお世話になって戻ってきた。ありがたいこと」と目を細めた。
https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202011/0013860698.shtml?fbclid=IwAR08OiXgNsFkRiV82R3ErsGsz1hrxaHLm6AnNpgV1yvuqEohJKcRSnhi9V4
戦後75年の節目に、姫路へ帰ってきた日章旗を見詰める岡本明さん(左)と四男の崇宏さん=姫路市本町
フィリピンで戦死、形見の日章旗が遺族の元へ 「思いやりに感謝」
太平洋戦争の激戦地フィリピンで1944年秋に戦死した兵庫県姫路市出身の岡本朝夫さんが、出征時に贈られたとみられる日章旗が75年以上の時を経て遺族の元に届けられた。米軍が戦利品として持ち帰ったが、日本兵の遺品の返還を進める米国の団体が仲介して帰郷が実現した。おいの岡本明さん(64)=同市=は「多くの人の思いやりと努力で遺品が戻ってきてありがたい」と喜ぶ。
朝夫さんは同市山野井町で育ち、海軍の1等機関兵曹だった44年10月25日に26歳で亡くなったとされる。明さんは「その日にフィリピン沖で沈没した空母『瑞鶴(ずいかく)』の乗組員だったそうだ」と話すが、最期の詳しい状況は分からないという。
戦時中、出征する人には友人や身近な人が寄せ書きした日章旗が贈られた。受け取った兵士はその旗を丁寧に折り畳んで身に着け、戦地へ向かったとされる。
返還された日章旗は右上に「贈岡本朝夫君」と記され、約30人の名前が連なる。無事を祈る「武運長久」や当時の世相を映す「連戦連勝」「無敵皇軍」といった言葉も並ぶ。米軍の陸軍隊員が戦地から持ち帰ったとされるが、保管状況などの詳細は不明という。
米オレゴン州で活動する団体「OBONソサエティ」から日本遺族会に照会があり、県遺族会姫路支部が調査。姫路護国神社(同市本町)に残る記録などから明さんにたどり着いた。
明さんの父四一(よいち)さんは8人きょうだいの末っ子で、10歳ほど上の朝夫さんもよく面倒を見ていたという。その四一さんは十数年前に死去。明さんはあらためて日章旗に目をやり、「生きている間に見せてあげたかったなあ」とつぶやいた。https://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/202010/0013823488.shtml?fbclid=IwAR3GAcusxBGgjMo-96ODUw6l7GQOfV3-0yuI6ycc2xm4hDk_KPb4Nt_-Gdc
【前葉市長(左)から正さんの日章旗を受け取ったおいの忠さん=津市安濃町東観音寺で】
津 マスク姿で戦没者追悼 規模縮小で式典 日章旗、遺族に返還 三重
©株式会社伊勢新聞社
https://this.kiji.is/693630571213341793?c=62479058578587648
【津】津市戦没者戦災犠牲者追悼式が26日、三重県津市安濃町東観音寺のサンヒルズ安濃であった。新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐため、参列者を例年の4分の1以下に縮小。遺族会の代表ら約70人が参列し、戦没者らの冥福を祈った。米兵が持ち去った日本兵の日章旗が市内では初めて遺族に返還された。
追悼式は毎年10月下旬に実施。例年は遺族ら約400人が参列するが、今年は感染症対策のため、遺族や来賓の規模を縮小した。マスクを着用した参列者は間隔を空けて着席。黙とうをささげ、献花した。
前葉泰幸市長は式辞で世界各国で流行する新型コロナに触れ「世界中が歩調を合わせ、前に進むことが人類の繁栄のために大切なこと。それこそが戦争のない平和な世界の実現に続く道のりである」と述べた。
遺族を代表して市戦没者遺族会副会長の坂口喜代司さん(81)が「75年がたち、平和な国家として発展したが、遺族にとって忘れられるものではない。永遠の平和と冥福を祈る」と追悼の言葉を読み上げた。
また、前葉市長は太平洋戦争中に戦利品として米兵らに持ち去られた日章旗を遺族に返還。フィリピン・レイテ島で昭和19年10月に戦死した大橋正さんのもので、おいの忠さん(67)=安濃町=に手渡した。
この日章旗は米国カンザス州のジェームズ・エッカーさんが米兵だった妻の伯父から譲り受けて保管していた。日章旗の返還活動に取り組む米国のNPO「OBONソサエティ」が日本遺族会を通じて届けた。
式後、日章旗を受け取った忠さんは「突然のことでびっくりした。歓喜に堪えない。遺族会の努力のたまもの」と感謝し「亡くなった祖母や父も喜んでいると思う。75年ぶりに家に帰ってきた」と語った。
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