神戸新聞NEXT/「フィリピンで戦死、父の「日章旗」75年経て娘の手元に」が掲載されました。(Japanese newspaper featured successful flag return)
11月
13日
1944年4月に出征し、フィリピン・ルソン島で戦死した陸軍大尉の山口則敦さん=当時(34)=が持っていたとみられる日章旗が、75年の時を経て遺族の元へ帰ってきた。受け取った娘の小石則子さん(84)=兵庫県宝塚市=は「思いがけないことでびっくり仰天。父が帰りたいと願ったのだろうか」と話す。(中川 恵)
小石さんは神戸市須磨区で父則敦さんと母清子さんの3人暮らし。幼かった小石さんにとって則敦さんとの思い出は少ないが「夏に海へ泳ぎに出掛け、色白の父は翌朝、真っ赤になっていた」と振り返る。
則敦さんは召集令状を受け取り平壌へ。小石さんの元へは則敦さんから「からだにきをつけなさい」「なかよく遊びなさいよ」と書かれた絵はがきが届いた。ただ、同年末か45年初頭にルソン島へ移ってからは連絡が途絶えた。則敦さんの戦死が知らされたのは、戦後3年ほどたってから。遺品も遺骨もなかった。
母の清子さんは、夫則敦さんの部下を訪ねては戦地での様子を聞き、退職後はフィリピンにも行ったという。小石さんは成人してから「父は腹部に銃弾を受け、その後、自決した」と教わった。
則敦さんの日章旗を持っていた女性は米国在住で、元米兵の叔父が亡くなった際に譲り受けた。叔父は戦争体験について一切語らず、旗の入手経緯は分からなかったが、インターネットで米オレゴン州で活動する団体「OBONソサエティ」を知り、日本遺族会や県遺族会姫路支部を通じて小石さんにたどり着いた。女性は、旗に添えた手紙に「国が引き起こした戦争の責任を兵士個人が負うことなどできない。旗を受け取ったご遺族の心が少しでも癒やされれば」とつづった。
旗には「贈山口則敦君」「祈 武運長久」の文字と十数人の名前が並ぶ。小石さんは「寄せ書きに手形を押した記憶があるけど、戻ってきたのはそれとは別物のようです」と話す。
清子さんは2001年に亡くなった。小石さんは母の墓前に「(父が)帰ってきたよ」と報告した。小石さんは旗を手に「みんなのお世話になって戻ってきた。ありがたいこと」と目を細めた。
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