8月15日は終戦の日です。 戦後、アメリカに渡った旧日本兵の日の丸を遺族の元に返す取り組みを続ける男性に密着しました。
https://www.youtube.com/watch?v=v2-ia8FiC9k&t=4s
8月15日は終戦の日。 太平洋戦争が終わって78年を迎えます。 激しい地上戦となった沖縄では、多くの北海道出身の兵士も命を落としました。 その中のひとりの兵士が身につけていた「お守り」が道内にいる家族のもとへかえりました。
*** 「必勝」「突破」。 寄せ書きされた数々の激励の言葉。 一緒に働く仲間から、戦地に向かう兵士の幸運を祈って贈られた「日の丸の旗」です。 いつ、ついたのでしょう。 血の痕のようなものも…。
■鈴木久子さん: 「よくね、長い年月、耐えたと思いますね…」
■シュバートさん: 「どうしてもその旗を日本の家族へ返す必要があったんです」沖縄、アメリカ、そして北海道へ。 地獄と呼ばれた戦場で命を落とした兵士の「日の丸」がおよそ80年という歳月をかけて家族のもとへかえってきました。
▼沖縄戦太平洋戦争末期、一般住民をも巻き込んだ沖縄戦。 空襲や、海からの艦砲射撃に加え、陸では銃や火炎放射器など激しい攻撃により、沖縄は地形が変わるほどの被害を受けました。 おびただしい数の砲弾が撃ち込まれる様子は、「鉄の暴風」として語り継がれています。 3か月に及ぶ激しい戦闘でおよそ20万人が犠牲に。 沖縄県民に次いで死者の数が多いのが北海道出身者です。 その数、1万805人。 主に満州から沖縄に向かった部隊の兵士です。
■鈴木久子さん: 「これなら1本入ったら華やかだね」 …札幌市に住む鈴木久子さん、87歳。 9歳のときに、父親が沖縄で戦死しました。 6月はじめのある日、沖縄戦で戦没した北海道出身者の慰霊碑がある札幌護国神社を訪れ、花を手向けました。
■鈴木久子さん:「ここだね。母さん、父さんのとこだよ」 久子さんの父・米代由雄さんは、沖縄・糸満市で車両を運転中、戦闘機の機銃掃射を受けて即死。 35歳でした。 助手席に同乗していた仲間が終戦後、最期の状況を久子さんの母に伝えたといいます。
■鈴木久子さん:「きょう祥月命日ね。沖縄は、まだ梅雨のまっさかりです。」 「尺八を吹いていたのを覚えてますけどね/のど自慢の男の人たちが集まってきて、父の尺八で江差追分とか、ああゆうのを歌っている姿を。」 小さいころのときに、目にも耳にも残ってますけれど」由雄さんが沖縄で戦死してから78年。 札幌で暮らす長女・久子さんのもとへ、父が戦地に持って行った「日の丸の旗」が見つかったと、連絡が入りました。 当時、ほとんどの兵士たちが肌身離さず持っていたという日の丸の旗。 親しい人から直筆の寄せ書きがされていて日本兵にとっての「お守り」でした。 しかし、アメリカ兵にとって敵軍の旗は一番の「戦利品」とされ、 当時、たくさんの日の丸が戦場から持ち去られました。 由雄さんの日の丸をアメリカに持ち帰ったのは、当時、陸軍に所属していたジョン・コルベルさんでした。
■米国在郷軍人会ジェイムス・V・シュバート: 「彼は5枚の日本の旗を持っていました。1975年に彼が亡くなるまで旗はクローゼットの引き出しに保管されていました。」 その後、息子のジョンさんがこの旗を引き継ぎますが、2017年に亡くなり妻のキャロルさんが、在郷軍人会に旗を寄贈しました。
■シュバートさん「旗を手にしたとき、これはアメリカにとっての記念品ではないと思いました。 圧倒されるような感覚やスピリチャルな存在を感じ、私たちが持つべきものではない日本の家族が持つべきものだと思いました。」 そこで、こうした旗を日本の遺族へ返す活動をしているアメリカのNPOに、持ち主の家族を探すよう依頼。 由雄さんは七飯町の出身にも関わらず、旗には当時の勤務地だった「平取」とあったことから捜索は困難を極めました。 しかし、米代という珍しい苗字を手掛かりに、およそ2年半をかけて娘の鈴木久子さんにたどり着きました。 こうした旗が、長い月日を経て、いま少しずつ日本へ。 北海道でも現在14枚が家族のもとへかえっています。
■OBONソサエティ工藤公督さん: 「米国サイドで、日本兵がそのように(お守りと)して持っていた旗と知ったときにそんな意味があるものだったということに気づかないで長年持っていたということに対して、ものすごく引け目ではないですけれど。 そういうことであれば一刻も早く日本のご遺族に返還してあげたいと」
■鈴木久子さん: 「やっぱりドキドキするわね。 こんなに大仕掛けになるとは思わなかったものだからね」沖縄戦が終結した6月23日。 札幌護国神社でも、毎年、沖縄戦犠牲者の慰霊祭が開かれています。 今年は、父・由雄さんの旗を受け取る久子さんのため、慰霊祭の合間に返還式を執り行うことになりました。
■元北海道沖縄会会長黒田練介さん: 「日の丸の返還は、戦没霊の魂が家族に暗に帰ってきたことになり、大変意義深いことです。」
■鈴木久子さん: 「よく、長い年月耐えたと思いますね。きっと今残っているたった一人の娘に戻ったっていうことは喜んでくれているんでないかなとは思います。 」妻や幼い子どもを故郷に残し、戦地に赴いていった日本兵たち。 彼らがお守りとして身につけていた寄せ書きの日の丸は、未だアメリカに2500枚以上あり、家族のもとへかえる日を待っています。
■鈴木久子さん: 「薄っぺらい布地だけど。78年の年月の重みですこの旗は
https://www.youtube.com/watch?v=xMzJC9Rs6ps&t=14s
日章旗遺族に 沖縄で戦死 苫前出身の加藤さん
太平洋戦争末期に沖縄で戦死した苫前町出身の加藤馨さんの日章旗が米国から返還され、10日、遺族に手渡された。
加藤さんは1921年生まれ。後方支援を担う旧陸軍第24師団 輜重しちょう 兵第24連隊第五中隊伍長で、1945年6月22日、沖縄本島・ 真栄平まえひら で戦死したという。
日章旗は、沖縄戦に従軍した米海兵隊員が持ち帰り、長らく保管されていた。隊員が2016年に死去した後、日章旗を引き継いだ娘が米国の非営利団体「OBONソサエティ」に所有者と遺族の捜索を依頼。日本遺族会などを通じて加藤さんの弟、等さんを捜し当てた。日章旗には「がんばれ 加藤等」と記されていた。
返還の一報は今年3月、等さんに伝えられたが、7月4日に死去し、この日の返還式への出席はかなわなかった。
親族らが出席した式では、等さんの妻チヤさん(91)と長男の 誉美たかみ さん(71)が福士敦朗町長から日章旗を受け取った。遺族を代表し、誉美さんは「式を目前に父は亡くなってしまったが、どこかで見守ってくれていると思う」とあいさつした。
等さんは戦後、兄の馨さんを捜しに沖縄を訪ねたことがあり、平和祈念公園の平和の 礎いしじ に刻まれた加藤さんの名前を何度もさすっていたという。チヤさんは「(日章旗を)仏壇にお供えしたい」と話した。
https://www.yomiuri.co.jp/local/hokkaido/news/20230810-OYTNT50172/
太平洋戦争の沖縄戦で24歳の若さで亡くなった苫前町出身の男性が持っていた日章旗が、終戦から78年となるのを前に遺族に返還されました。
返還された日章旗は昭和20年6月に沖縄戦に出征し、24歳で亡くなった苫前町出身の加藤馨さんが持っていました。
10日、苫前町内の神社で行われた返還式には、馨さんの弟の妻、加藤チヤさんなど遺族が出席し、福士敦朗町長から日章旗を受け取りました。
チヤさんは涙を浮かべ、日章旗に「おかえりなさい」と語りかけていました。
日章旗は沖縄戦に参戦した元アメリカ兵が持ち帰っていましたが、その娘が戦没者の遺留品を遺族の元に返す活動をしているアメリカのNPO「OBONソサエティ」に遺族を捜し出して返還するよう依頼したということです。
加藤馨さんのおいの加藤誉美さんは「弟にあたる私の父は日章旗の返還を前に7月に亡くなりましたが、きょうは天国から見守ってくれていると思います。日本が二度と戦争がない平和な国であるように願っています」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20230810/7000059913.html?fbclid=IwAR3k6Kv_nZ0PjOWeFhdQ-iqXeq_CCVvh8-hpabZ30OuIqw2cH0Zi_mZu4hk
【苫前】太平洋戦争終結直前の1945年(昭和20年)6月、沖縄戦で亡くなった加藤馨(かおる)さん(享年24)=旧苫前村出身=が、戦地でお守りとして身に着けていた日章旗が10日、町在住の遺族に返還された。今年7月に亡くなった馨さんの弟、等さんの妻チヤさん(91)は、そっと旗をなで「お帰りなさい」と声をかけ、故人をしのんだ。
戦時中、兵士が出征時、友人や親族が日章旗に激励の言葉を寄せ書きした。加藤さんの日章旗は、戦後、米海兵隊員が戦利品として沖縄から米国に持ち帰り、保管していた。米兵が亡くなった後、遺品で見つかった。旧日本兵の遺品返還に取り組む米オレゴン州のNPO法人、OBONソサエティが、依頼を受けて遺族を探していた。
日章旗は、文字がにじんだり薄くなったりして判読が難しかったが、日本人スタッフの工藤公督(こうすけ)さんが、馨さんが苫前出身であることを突き止め、等さんに連絡した。等さんは日章旗を見ることなく7月に亡くなった。
OBONソサエティと遺族によると、馨さんは町内三渓地区出身で、41年に召集された。陸軍第24師団第24連隊第5中隊に所属し、武器や弾薬を運ぶ輜重(しちょう)兵として沖縄で従軍。旧日本軍が組織的な戦闘を終えた日とされる45年6月23日前日の22日に戦死した。
今月10日、苫前神社で行われた返還式には遺族7人が出席し、チヤさんとチヤさんの長男、誉美(たかみ)さん(71)が日章旗を受け取った。チヤさんは「お父さん(等さん)と沖縄を訪ねた時、『兄貴、会いに来たぞ』と涙ぐんでいました」と振り返った。誉美さんは「78年後に帰ってきてくれた。おじの望郷の念が強かったのでは」と声を詰まらせた。
親族の加藤郁子さん(47)は「遺品も遺骨も何一つなかった。とても温厚な方だったと聞いていました」と話した。
OBONソサエティによると、今年、同団体を通じて道内に日章旗が返還されたのは馨さんを含めて3人。スタッフの工藤さんは「沖縄戦で同時期に戦死された3人の方が今年、故郷の北海道に帰ってきました。さらに捜索を進めたい」と話した。(道新)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/891897
【北海道新聞】7月26日に北海道は松前町で執り行われました「鈴木秀二命日章旗返還式」について紙面が届きましたので掲載させて頂きます。
【松前】太平洋戦争末期に多くの住民を巻き込んだ1945年(昭和20年)の沖縄戦で戦死した鈴木秀二さん(享年38)が戦地で持っていた日章旗が、戦後78年を前に町内在住の遺族の元に返還された。旧日本兵の遺品返還に取り組む米国のNPO法人「OBONソサエティ」の仲介で実現した。長男の一弘さん(86)は「父親の形見がひとつもなかった。うれしい」と話した。
同団体や遺族によると、秀二さんは留萌市出身。旧陸軍第24師団輜重兵(しちょうへい)として、武器や弾薬などの運搬を担当していたという。旧日本軍が組織的な戦闘を終えたとされる6月23日の2日前の21日に死亡した。最期の様子は分かっていない。
今月26日に町役場で行われた返還式には、遺族7人が出席した。一弘さんと妻の玲子さん(83)が石山英雄町長から日章旗を受け取った。縦約65センチ、横約80センチの旗には「必勝」「大和心」などの寄せ書きが記され、出征時に渡されたとみられる。一弘さんは「優しい父だった」と在りし日の姿に思いをはせ、玲子さんも「夢のよう」と涙ぐんだ。日章旗は自宅の仏壇に供えるという。
日章旗は、沖縄戦に参戦した元米国陸軍大佐が持ち帰った。その後、孫が旗に込められた思いを知り、2020年に同団体に返還を依頼した。直後に連絡を受けた札幌在住の同団体スタッフの工藤公督さん(48)が留萌市内などで調査を開始。60年ほど前に松前町の企業に就職し、現在も町内で暮らす一弘さんの存在を知り、1カ月ほど前に連絡した。
一弘さんは小学校入学前に秀二さんと別れ、「連絡が来た時はびっくりした。工藤さんや団体には感謝しかない」と話した。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/884427
【松前】第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年6月に沖縄戦で亡くなった留萌市出身の陸軍兵士、鈴木秀二(ひでじ)さん(当時37歳)の日章旗が26日、米オレゴン州のNPO法人「OBONソサエティ」を通じて松前町在住の遺族に返還された。日章旗は米国の元兵士が長年保管していて、78年の年月を経て長男の鈴木一弘さん(86)の手に渡った。一弘さんは「ありがたい。うれしい」と喜んだ。
同法人によると、秀二さんは日本陸軍第24師団に所属し、食料や武器の輸送などを担う輜重(しちょう)兵第24連隊第五中隊の伍長だった。激戦地だった沖縄本島の糸満市真栄平(まえひら)で、6月21日に亡くなった。
秀二さんの日章旗は米国の元陸軍大佐、エイドリアン・リンジー氏(故人)が戦場から持ち帰り、長年保管していた。リンジー氏が他界した後は孫のジョージ・ヘルムスタッター氏(アイダホ州在住)が受け継ぎ、2020年9月に同法人に所有者、遺族の捜索と返還を依頼していた。
遺族探しを担当したのは、同法人スタッフで、札幌在住の工藤公督さん(48)。日章旗に「留萌土木現業所 鈴木秀二君」などと書かれていたことや、日本遺族会の情報などから秀二さんが留萌市礼受(れうけ)出身と特定。工藤さんはさらに礼受の地域住民などから鈴木家の足跡を尋ね、松前町の一弘さんを探し出した。
26日は松前町役場で返還式が行われ、一弘さんら遺族7人が出席。一弘さんは石山英雄町長から日章旗を受け取り感慨深げに旗を見つめた。同法人共同代表のレックス・ジーク氏、敬子・ジーク氏のメッセージが動画で紹介されたほか、石山町長も「故人の家族への思いと関係各位の平和と友好を思う気持ちが実を結んだ。町としても平和の尊さを次世代につないでいく」と述べた。
秀二さんが出征時、一弘さんは小学校入学前だったが「父はマージャンが好きだった。温厚で優しかった」と懐かしみ、「連絡を受けた時はドキドキした。感謝の気落ちでいっぱい」と話した。一弘さんの次男、修二さん(50)は「日章旗が戻ってくるとは思ってなかった。祖父が眠る沖縄にお参りしたい」と話した。
https://hokkaido-nl.jp/article/30215
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