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弓道を極める人は、なぜ美しいのか。澄んだ目をしているのか? ふと思って調べてみた。

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弓道を極める人は、なぜ美しいのか。澄んだ目をしているのか? ふと思って調べてみた。
 
静まり返った道場に、一本の矢をつがえる音が響きます。弓を引く人の背筋はすっと伸び、呼吸は深く、視線は澄み切っています。その姿を見つめていると、誰しも「美しい」と感じずにはいられません。
 
けれど、その美しさは単なる外見の端正さではありません。弓道には、長い歴史の中で培われた精神があり、その精神こそが姿ににじみ出ているのです。
 
日本弓道連盟は、弓道の理念として「礼を重んじ、射をもって心身を鍛え、人格の完成に資する」ことを掲げています。そして、その究極には「真・善・美」があると説きます。
 
「真」とは、正しい射。心と身体の調和の中で放たれた矢は、ただ的を狙うのではなく、射手自身の真実を映し出します。
 
「善」とは、弓道を通じて育まれる人の在り方。礼を尽くし、謙虚であること。その精神性が射のすべてに宿ります。
 
「美」とは、「真」と「善」の積み重ねから自然に現れるもの。正しく誠実に弓を引くとき、その姿は静かな気迫をまとい、観る人の心に深い美を残します。
 
「正射必中」という言葉があります。結果を追うのではなく、正しい射を求め続ければ、必ず道理にかなった結果が生まれるという意味です。矢は的を射抜くと同時に、自らの心の曇りをも射抜いているのでしょう。
 
弓道を極めようとする人は、美しい。そう感じるのは、私たちがその姿の中に、人間が真理を求め、よりよく生きようとする普遍の姿を見ているからなのだと思います。
 
■さらに奥の深い記述を見つけました。
今日はいい日になりました。
 
弓道を極めようとする人の姿が美しいのは、そこに「道」の本質が現れているからです。
 
『老子』に「大成若欠(大成は欠くるがごとし)」とあります。真に完成されたものは、むしろ未完成のように見える。弓を引く人もまた、常に「これでよし」という境地に至ることはなく、つねに自己の未熟を悟り、一本ごとに心を正そうとします。その謙虚な営みこそが、美を生み出す根源です。
 
また『荘子』は「心斎坐忘」を説き、心を斎(いつ)き、己を忘れて大道に従えと語ります。弓を引く者も同じく、我欲や執着を捨て、ただ呼吸と姿勢と心を一にしたとき、矢は自然の理に従って放たれます。そこには「人為」を超えた「無為自然」の美が宿ります。
 
禅の語に「無心是道(むしんこれどう)」があります。矢を放つ瞬間、雑念を抱けばその射は乱れます。無心にして真を射るとき、矢は的を超えて、自己の内奥にある虚妄を貫くのです。弓道とはまさに「己を忘れて道に従う」修行であり、その姿は静謐にして峻厳です。
 
ゆえに、弓道を極めようとする人は美しいのです。その美は、外見の所作を超え、「有限の自己が無限の道へと溶け入ろうとする姿」、すなわち東洋思想が説く「道(タオ)」や「空(くう)」の真理を体現するものだからです。

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