世界の核弾頭データ
今年も原爆記念日が来ます。
ロシアのウクライナ侵略戦で原爆の使用可能性が取り沙汰されてきました。核抑止の意味も変わってきています。日本の防衛も本気で考えないとならない時です。
「長崎大学核兵器廃絶研究センター」が毎年発表するデータポスター
また暑い夏がやってきました。1960年に締結された「日米安全保障条約」が60年を迎え、マスコミでも騒がれることなく10年ごとの自動更改がされました。日本はこの60年「安保」による「核の傘」と米軍駐屯によって守られて?きました。
この「核の傘」の大きな部分を担っているのがシアトル近郊であることをワシントン州シアトル地区の住民はご存知でしょうか? 昨年8月7日付の当ブログを見て頂くと解りますので是非再読してください。全体数は下がっていますが時代遅れのものが解体されているので現役で配置されているものは減っていません。トランプ政権とロシアは再び核装備を増やしつつあります。広島、長崎に原爆が落とされてから75年、平和維持の代償について新ためて考えてみてはどうでしょう?
このポスターは毎年6月に長崎大学核兵器廃絶研究センターが発表しているものです。
中央の時計は世界が絶滅する危険への時間を示し、残り2分となっています。
爆弾マークの一つが5基を表しています。グレイ色のものは退役解体待ちです。赤色は空爆用、グリーンはサイロに待機する大陸弾道弾ですが、戦略的主体はブルー色の「潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)」に移っています。
バンゴール原潜基地は現在、ブレマトン、シルバーデールも含めてのキットサップ海軍基地の一部です。聞きなれない名前かもしれませんが、シアトルから直線距離なら32キロ、イサコアまでと同じくらいです。ここに上記ポスターの赤線で囲んだ部分(SLBMの半数)が配置されています。
また原爆記念日がやってきました。74年に及ぶ核兵器廃絶の声も、日本人でも若い人には無関心な人が多くなったようです。さて59年前(1960)、日米安全保障条約を巡って揺れに揺れた日本、安倍晋三総理の祖父、岸信介総理は暴漢に襲われ重傷、社会党の浅沼稲次郎委員長は17才の右翼青年に刺殺されました。10年後(1970)の更新時には学生の抗議デモ中に樺 美智子さんが死亡。これらの犠牲者を出してまで日本が頼り今も頼っているアメリカの「核の傘」、その主力がニューメキシコ州のカークランド空軍基地。そして大西洋艦隊のジョージア州キングズベイ原潜基地と大平洋艦隊のワシントン州バンゴール原潜基地です。
バンゴール原潜基地には8隻のオハイオ級原潜が配置されています。一隻のオハイオ級はトライデントD5ミサイルの発射管24本を装備、1基のトライデントD5には8発〜14発の核弾頭が収容されており、核弾頭1発の破壊力は平均100キロトン(広島原爆15キロトン 長崎21キロトン)。
各原潜は70日から90日の任務に就きますが、交替で整備点検の為、2隻がいつも基地にいるとすると、約400発の弾頭が常時整備点検中であり、これは広島原爆2,700個分に相当します。これが全米一危険?な理由。
この基地を守るためにピュージット湾圏は24時間、陸海空米軍最強の防御に守られています。彼らはSilent Service(静かなる任務)と呼んでいます。これが最も安全?な理由。
誰もが核兵器など無い方が良いと思っています。反対するのは良い。しかしその「核の傘」に守られて74年間、世界大戦も核戦争も避けてこられたのも事実です。
どうしたら廃絶の一歩が進められるか? 今、危ない人達が世界の指導者に増えています。
ブルーエンジェルスの勇姿の向こうから、なぜかワルチングマチルダの調べが…
追記:記載した内容は全て検索可能な公開されている資料からです。
左は武蔵が「五輪の書」の四年前(1641)に著述した「兵法三十五箇條」より抜粋。右の「五輪の書」(1645)からのは、これを下敷きに推敲したものと思われる。推敲の過程が極意を汲む手掛かりとなりそう。(出典:武術叢書 大正4年 国書刊行会復刻版)
「五輪の書」、宮本武蔵の残した二天一流の皆伝書。近年は剣術だけでなく企業の経営理念にも当てはまるとして外国語にも訳され広く読まれるようになった。他の武術書の解説なども読んで思うのだが、解説を試みる以上、其々の道で名人と呼ばれるような方が書いておられるのだが、訳者の解釈の違いで原書が伝えようとする所とは違っているように思えるものもある。
ここでは武術としての技術的な皆伝である「水の巻」より「目付け」の事という部分を抜粋し原文を掲載したので参照されたい。
武蔵は「目付け」目の付け方には「見の眼」と「観の眼」があり、大事なのは「観の眼」ではあり日常的にも「観の眼」で見るようにと言っています。普通に私達がモノを見るという行為では、目標に焦点を合わせるという事が無意識に行われます。これが「見の眼」です。これは最新カメラの何十倍もの速度で行われています。問題はこの焦点の合わされた部分外の視界が認識されないという事です。 “遠くを近く見、近くを遠く見ろ”とは、周囲も含めて全てを見ろと言う事でしょう。白内障などで水晶体を摘出して挿入されるのは固定焦点レンズですから焦点合わせの機能は無くなり、近くから遠くまで焦点が合っていますが、物理的には全てに焦点が合っていても「見の眼」の目で見ようとする意思が働いていますから「観の眼」にはなりません。「観の眼」とは見る眼ではなく観える眼なのです。
この「観の眼」だが、速読法の「フォトリーディング」が使うソフトアイと呼ぶ技法に近い。普通に言う視力、静止したモノを識別する解像力の「静止視力」や、動いているモノを 識別する「動体視力」(左右の動き、前後の動き)とは違うものです。
いわゆる「無念無想」(思考を止めて自我を消す)になれると「目付け」は自ずと「観の眼」になります。これは全てに対応できる自然体になることでもあります。同時に自分から攻撃に出る(先をとる)という事も出来ません。攻撃には「見の眼」とならざるを得ないですから。武道の本旨とは、「死を覚悟し相打ちを本懐とする」ことに尽きるのかも知れません。
ここでやっと表題の「イチロー選手」ですが、私は、彼は今でも“4割”を打てると思っています。絶頂期の同選手の「動体視力」は抜群のものだったのでしょうが、戦列を離れる前に三振などが増えたのは、他の身体能力が若い選手に劣らず、技術的には神技と言われるまでに鍛練されていますから視力(見方)だけが課題でしょう。ボールが投手の手を離れてホームプレートに届くには約0.4秒かかります。短いと言えば短いが、好調の時には充分に長く感じられた筈です。メジャーリーガーでもボールが投手の手を離れた瞬間からスイングを開始するようですが、ボールのよく見える時は充分に引き込んで(後半の0.2秒で)調節できるようです。イチロー選手の場合、最後の0.1秒での調節も出来ていたように思えます。武蔵なら、今のイチロー選手に“ボールを見るのを止めろ!「観の眼」で観ろ”と言うのではないでしょうか。「観の眼」で0.2秒に球質とコースを、次ぎの0.2秒を「見の眼」で変化を。「観の眼」から「見の眼」への切り替えは瞬時です。名選手は好調時にはボールが止まったように縫い目まで見えたと言っていますが、本当でしょう。イチロー選手には彼の言葉のように、“50歳で4割を打って引退”して欲しいですね。
©1956 GORDON PARKS, source VOGUE Dec 2017
この写真は1956年、アラバマ州百貨店の店頭です。服装から黒人母娘と思われる二人 が貧困家庭でないことは明らかです。ここで「COLORED ENTRANCE」というサインに注目して下さい。「有色人種 入り口」という意味ですが、此の頃は「黒人」をさしています。奇麗なネオンサインです。これを揚げた経営者はお金のある買い物客は「黒人」でも大歓迎、但し白人の御客様とは別の入り口からということです。勿論、日本人は有色人種ですよ。日本が経済力をつけて「preferred colored」 と呼ばれた事もありました。「優遇有色人種」です。今の米政権は「再び偉大なアメリカを」標榜していますが、これは一部の白人にとってであり、高齢の黒人や日系人、少数人種にとっては過去に「偉大なアメリカ」など無かったのです。安倍首相やソフトバンクの孫社長の頭の上にも此のネオンサインがちらついて見えませんか?
自分では人種差別者ではないと思っている人は多いです。この内在した差別が大きな波になり正当化されることが一番恐いのです。日本の政治家でも、そういう人いますねえ。
2017年3月 北米報知掲載
「日系人社会」とは?
“「日系人」は何人位いますか?” 観光にしろ仕事にしろ、日本から訪れた人から必ず出るのが、この質問。以前は「日本人」は何人位いますか?だった。移民130年にして、やっと日本の人にも、アメリカには日本人を祖先とするアメリカ人もいるのだという事が理解されてきたのだが、海外在留邦人、日系人社会などと呼ばれる,その中身は複雑である。 その所謂「日系人社会」の中にあっても個々の背景は文化的社会的に異なり大きな差がある。日本のように北から南まで共通した価値観によるのとは大きく違う。初期の一世時代のように、まず日本人であること、次に同郷人であることで互いを拠り所にしたのと違い、最近の移住者はアメリカ社会に受入れられる事を当然とし、最初から独立起業など同胞(今の人には死語 ?)を頼らぬ自信も有り、仕事を除けば、接触が無いか少ない傾向にありますが、ここにきて少数民族や宗教に対し、あからさまに差別危害を加える輩が出て来るなど、被差別対象マイノリティーであるという、日本にいては想像も出来なかった事実に直面する危険が起き始めています。
御自分や子供達、友人、知人が、どのブロックに属するかを知り、夫々の社会観や価値観の背景を理解する事は、「日系人」として、この国で暮らして行くには仕事の上でも、個人としての付き合いでも、不可欠であると思います。
そこで「日系人社会」という国勢調査の数字だけでは判らないものを、俯瞰的に大きな波として目に見える形にすることを試みてみました。但し、これは学術的に正確なものではないことは予め御断りしておきます。各年代のブロックは80才を平均寿命とし、出生年には20年の巾を持たせましたが、ブロックのサイズは人口に比例したものではありません。あくまでも大きな波を掴んだものであって、高低はありますが途切れてはいません。例えば遅く生まれた2世であって世代的には同級生が3世に属する方もおられますし、「新1世」でも数は少ないですが、50年代初めには留学目的で渡米された方もおられます。
「1世」「新1世」「新・新1世」における「点線」は渡米時期(各世代の日本文化を持ち込んだ時期)を示します。「新1世」という呼称は当初一世からは、苦労も知らずに「一世」という言葉を気軽に使うなとのお叱りを受けた事もあったのですが、国際結婚した女性を中心に広がりました。「新・新1世」は筆者の造語です。「帰米2世」についてはあらためて説明しませんが、特に日本文化の影響を考え独立のブロックとしました。
特筆したいのは「新1世」の男子の場合、ベトナム戦争中は日本国籍であれ,学生、駐在員であっても徴兵対象となり、実際に徴兵され従軍された方もいた事です。この時期の渡米者は筆者も含め、米国に対し違った感情を持っています。「新・新1世」男子が徴兵の対象にならなかったのは幸運でしたが、徴兵制は大統領の一言で復活します。その場合は在留外国人にも容赦なく適用されるでしょう。
「新2世」の特徴は「新1世」の母を持つ初代の「ハパ HAPA」が多くを占める事です。初期の「混血」「ハーフ」などという呼称が侮蔑的であるとして、ハワイ語を語源とするのが日本人だけでなく他の人種間の血をひく場合もの一般呼称となりました。「新・新2世」世代も多くの「新HAPA」を含みます。
「ハパ」でない「新2世」は両親が戦後移住者で、日本文化を避ける示唆や影響を受けていない事が、同世代の「3世」と異なります。
What is a Nikkei Community ?
“How many Nikkei live here?” Either as businessman or as tourist, this is a question always asked. Question used to be, “How many Japanese live in this area ?” After 130 years of Japanese immigration in this area, the visitors finally understood the fact that there are generations of Americans who are descendants of Japanese settlers. However, “Nikkei community” or “Japanese community” is very complicated.
Even within the so called “Nikkei community,” backgrounds are varied socially and culturally. Early Issei immigrants relied on being Japanese and if one was from the same local area in Japan (doukyo) became comrades and helped each other. In contrary, recent immigrants are more confident and independent and even start new businesses right away and take it for granted they would be accepted into American society and not look for community help.
However, the tide is changing with undesirable movements of racists and white supremacists noticeable now. Thoughts of becoming a victim of such racially or religiously motivated discriminations are unthinkable in Japan, but what happened some seventy years ago here is starting up again.
It is important to know and understand where you, your children, friends or acquaintances stand in this society.
On this chart, I am trying to catch the major wave or trend of Nikkei immigration that one is unable to see from the Census numbers. This is not an academic study. Each block or group shows average life expectancy of 80 years old and a span of 20 years of birth date. The size of block is not proportioned to the population of the group. It is my intention to show the major trend or characteristic of the group. For example: if you are late born Nisei, it is possible, generation-wise, most of your friends are Sansei.
The dotted lines of Issei, Shin Issei, Shin-Shin Issei show the period of immigration (Time of each generation bringing in Japanese culture). When the word “Shin Issei” was used for the first time, some Issei objected because it seemed to disrespect their generation, not having experienced the hardship they went through. However, the usage was spread by international marriage groups. “Shin-Shin Issei” is a word made up by the author. I will skip the explanation of “Kibei Nisei” but feel they were a significant influence on carrying on Japanese culture, so a separate block is made from general Nisei.
One important note is a case of “Shin -Issei” men. During the Vietnam war period, regardless of nationalities, students, visitors or workers for foreign company, all were subject to U.S. military service draft (until 1973). They were even some who served in the infantry and returned wounded. Anyone who immigrated during this period including myself has uneasy feelings toward this country. “Shin-Shin Issei” are very lucky not to have experienced that.
One characteristic of “Shin Nisei” is many first “HAPA” generation who were born between Japanese and American parents are in this group. Words like “Konketsu” and “Ha-fu” were once considered inappropriate, Hawaiian word “Hapa” became common and now even refers to mix of different races other than Japanese. Near perfect bilinguality (bi-cultural) comes out from this group.
Wartime experiences made many Nisei generation reluctant to endorse traditional culture to Sanseis. Yonsei became more assimilated resulting in having the highest inter-racial marriages among all Asian populations. The last Census reported that some over 100 thousand in this area were registered as part Japanese. However how many of them are familiar with Japanese heritage or customs and even think they are members of the Nikkei community?
2005年1月北米報知掲載
多数の犠牲者を出したインド洋における大津波のニュースがメデアを占め、命拾いをした人達の体験談が聴かれるが、難を免れた人達全てが必ずしも幸運だっただけではない。共同通信によると、インドネシア・アチェ州のシムル島(人口6万9700人)では震源地から僅か25マイルに有り、家や建物の大半が津波に破壊されたにも拘らず犠牲者は8人にとどまった。アチェ州全域での犠牲者は9万人を越えるとされている中でである。
シムル島の一教師によると、同島では多くの犠牲者をだした1907年の大津波での経験が住民から子供達に語り継がれていると言う。「強い地震を感じたら、海を見なさい。海水が水平線に向かって引けば、津波となってかえってくる。高い所に避難しなさい」。
ある程度年配の日本人なら、この話にすぐに聴いた事のある話と気付かれる筈である。教科書などで「稲むらの火」として知られる自分の稲田を焼いて村人を津波から救った浜口五平衛の物語である。「生き神様」と祀られた五平衛の話は帰化人、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン 1850〜1904))によって著書「仏の畑の落ち穂」(1897)の中で世界中に紹介された。
シアトル市内ビーコンヒルの第13消防分署の前庭には美術家エレン・ジーグラー氏による彫刻石にこの物語の要約が地区のアジア系住民への敬意として刻まれている。エレン・ジーグラー氏は1995年、阪神淡路大震災に際して鎮魂碑を製作された事でも知られる。
八雲の著書の中では明記されていないが浜口五平衛の物語が起きたのは現在の和歌山県広川町、安政元年(1854)に紀伊半島を襲った大津波での事。
文化や伝統の伝承は歴史保存の為だけではない。時として多くの人命を救う事もある。
第一巻表紙
このエッセイは2006年6月に北米報知誌に掲載されたものです。
埃と黴の臭いがダストマスクをしていても鼻腔を突く。廃棄されるものの中に何か採っておいた方が良いものがないか一度見て下さいと、日系人会の関根夫人から依頼されたものの書籍類の整理どころかゴミの山に分け入り、まずは作業場を作らなければならない。廃棄処分とされた本類は雨露にさらされ鼠に齧られたものなど痛みの激しいものばかりだが一冊の表紙に眼が止まった。 グラフィックデザイナーという職業上、良いデザインには敏感である。埃を払ってみると背表紙は無くなっているが、とりのこ風(注1)の地に朱色と金文字を配した見事なアールヌーヴォー(注2)。表題は「吾輩ハ猫デアル」。もちろん日本人なら特に文学に傾倒していなくても文豪夏目漱石の名とこの表題は誰でも知るところ。私もどこかの文庫本かとの第一印象を持ったのであるが、開いて見れば驚くなかれ明治三十九年(1906)発刊のオリジナルなのである。この「吾輩ハ猫デアル」はじめ雑誌ホトトギスに連載されたものがを単行本として発刊されたものであるが、漱石はその序の中で普通の小説ではないからとその価値を心配し此の一巻で消えてしまっても差し支へはないといっている。しかしその人気の程は初版から一年の間に十二版が再版印刷されている事でも憶測できる。定価は金九十五銭。 高いのか安いのか。 漱石の生い立ちや業績にはあらためて触れないが、少し横道にそれる。 「吾輩ハ…」の中で主人公の大学教授の給料の話が出てくるが夏目金之助(漱石の本名)は北米報知誌に以前、津波のストーリーで触れた小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの後任として明治三十六年東京帝大英文科講師として年俸八百円をもらっている。 この頃の公務員の初任給が月給五十五円、大工の日給が九十銭です。
話を本に戻します。表紙裏には早坂の署名があります。おそらく一世の御自身あるいは家族の方が蔵書を日本人会か國語学校に寄贈されたものと思われますが幾霜月を耐え、百年目を迎える今、眼の前にあるのが信じられない気持ちです。塵の山に座りこんで時間を忘れてしまいました。
装丁をされた橋口五葉氏は東京美術学校(現芸大)を卒業間もない英才。大正初期に新版画運動で大正の歌磨とよばれた人です。活版多色刷りの見事な挿絵を担当したのは中村不折(ふせつ)画伯。フランスのアカデミー・ジュリアンに学び洋画界に大きな足跡を残されているが、書道家としても知られています。漱石はやはり序の中で両氏の知遇に感謝しています。 漱石に「吾輩ハ…」の発表を勧めたのは高浜虚子、この前年には若き滝廉太郎そして尾崎紅葉が亡くなっています。 漱石の門には若き芥川龍之介がいますし明治の芸術界の活況が眼に見える様です。漱石は「吾輩ハ…」に続きホトトギスに「坊ちゃん」を発表します。 漱石が文学博士号を辞退したのは有名な話ですが、これが明治四十四年。 胃潰瘍により今なら早世といえる死は大正九年(1916)四十九才でした。 御名前は伏せますが漱石の孫娘になられる御婦人がオレゴンに御健在と伺っています。
最初に発見した一巻は上巻で中巻、下巻と続くことが判り塵の山を探り続けて保存状態は良くないものの幸いにも全巻発見する事ができました。美術史などで見聞はしていたものの手にとって見る事ができるとは思いもよりませんでした。 いずれシアトル日米会館が出来、日系遺産展示の一部となる日が近いことを期待しています。 日本語学校に限らず百年を越える日系社会にはまだまだ忘れられた宝が眠っているのではないでしょうか。 それにしても背表紙を齧った鼠ども、表紙まで齧らなかったのは鎮座する二匹の猫君のせいか…。
(注1)鳥の子屏風など鳥の子は和紙の名。卵の殻に近い白色。
(注2)アールヌーヴォー:19世紀末ヨーロッパでの芸術運動。日本の浮世絵などの影響を受けたといわれるが日本に逆輸入された。
2004年4月北米報知掲載。
…日本の顔を知ってもらう…
男の右手に銀色のものが光った‥ナイフだ。 しかしナイフの冷たい光りより私を襲ったのは男の言葉の方だった。慣れた手つきでブレードを開閉してみせながら男は言った…「このナイフは日本製、凄く切れる。ジャップの身体も良く刻めるぞ」と…。連れの男はかなり酔っているが、この男の眼は酔っていない…。パイオニアスクエアのビルの前で同僚を待っている間の出来事だった。男は最初から私が日本人であると見極めて罵声を浴びせてきた。日頃から東洋人との接触が多くないと中国人、日本人、韓国人の見分けはつけにくい。身なりは悪くない。気に入らないボスが日本人だったのだろうか?‥それとも日系の会社を首にでもなったのだろうか?…。日本人を侮辱する雑言を吐き続ける男を見つめながら私は考えていた…。 彼我の距離は武道で云う攻撃間合い、つまりいずれかが一歩踏み込んで手足や武器が互いに届く距離である。幸いナイフの刃わたりは小さいし不意打ちの心配は無い。アメリカに住むようになって数十年、こういう場面は初めてではない。血気盛んだった頃なら挑発にのって相手を懲らしめてやろうとしていただろう。懲らしめというのは相手に反省の機会を与え同じ過ちを繰り返させないということだが、たとえこの場で彼を屈服させても日本人への憎しみは消えはしないだろうし、むしろ憎しみを増し、次の機会にはもっと弱い相手を狙って鬱憤をはらそうとするだけだろう…。そう考えながらも、私を困惑させ応対を躊躇させたのは、ナイフを見せびらかす男の態度だった。そこには質の高い物(日本製)への尊敬?…とそれを所持することの誇りのようなものさえ感じられたからだ。同じようなことは、日本製の車が欲しいばかりに、運転していた日本人が襲われたというニュースを聞いた時にも感じた。どこかが間違っている。一体どこが間違っているのだろう。物に対して価値を認める同じ気持ちが、何故それを作った民族や国には向けられないのだろうか? …何の反応も見せない私に拍子抜けがしたのか、男は連れの男に袖を引かれ、捨て台詞を残して去っていった。
日本の企業は質の高さを売り物にアメリカはもとより世界に市場を拡げてきた。その価値を疑うものはいないのに、何故、日本はすぐ攻撃の対象にされジャパンバッシングが起きるのだろうか。それは物を作った人間の存在が見えないからではないだろうか。人間の不在とは、文化の不在と言い換える事も出来る。カラオケで歌い、寿司を食い、日本製の電化製品に囲まれ、日本製の車を運転していても、そこには日本の文化は無い。これが戦後60年近く日本がしてきた日米交流の成果なのだ。大衆にとって、自分もまた同じ立場にあったらと同感できる顔がそこに見えない限り、容易に煽動に踊らされバッシングは起きる。もしも今、あなたやあなたの会社が大衆の攻撃に曝され、政治家も役人も学識者も警察でさえも頼れない時、金では買えない彼等自身の意志であなたの側に立ってくれると確信できるアメリカ人の友人知人があなたには何人いますか? …たとえ友人知人でなくとも、あなたに並んで立ってくれる普通のアメリカ人が一人でも増えてくれる様、私は今年も桜祭を手伝いにいこうと思います。…日本の顔をもっと知ってもらう為に
2002年2月北米報知誌掲載。
「消えるか?日本館劇場の灯」
瑤曲、琴、三味線の音が九十数年を経た壁に響渡る。去る一月二十六日、日本館劇場に於ける“お正月”で「日本館劇場伝統保存会」主催による“日本芸能シリーズ”も二十周年を迎えた。最も主催者にとっては二十周年を祝うというより辛うじて辿り着いたといった感じの方が正直な気持ち。誤解が多いようなので始めに断わっておくが、日本館劇場を含む「神戸パークビルデング」は某企業の所有であり、「日本館劇場伝統保存会」は賃貸料を支払って同劇場を借りるクライエントの一つにすぎない。
「日本館」の建立は1909年(明治42年)に遡る。以来1942年の日系人強制収容による閉鎖まで日系コミュニテーの中心として数々の催しに使われてきたことは、ロビーに飾られている写真パネルからも窺い知れる。催しは日本芸能にかぎらず政治演説会や、今やベナロヤホールを本拠とするシアトルシンフォニーもこの劇場で演奏したことがある。上記の写真パネルの一つ(1925年付)には、戦前の日本がおくりだした世界的オペラ歌手“三浦 環”(みうらたまき)の姿もある。しかし最も特筆に値するのは、かって舞台正面に緞帳(どんちょう)として掛けられていた広告幕だろう。ここには六十数年前の日系人社会が凍結して見る者の前にある。年配者には日本の銭湯を思いおこさせる広告の中には当時のシアトルの銭湯の名もみうけられる。今、この中で残っているのは「まねき」と「肥後十仙(ひごテンセントストア」だけだが、中央にはシアトルの風雲児、古屋政次郎の起こした戦後日本の総合商社のモデルともいえる「古屋商店」、そして米国銀行に門を閉ざされた移民の為に設立した「東洋銀行」。その他広告費滞納の為か白く塗りつぶされた部分があるのもおもしろい。
戦後、収容所から戻った日系人にも忘れられ廃虚と化していた建物の中に日系人達が置き捨てていった歴史の爪痕を発見したのは、70年代のはじめに此のビルを買い取った建築家エド・バーク氏である。日系史遺産としての重要さを感じたバーク夫妻の奔走により1978年に連邦史跡遺産として登録され、政府援助金の助成を得て劇場を含めて全ビルが生まれ変わったのが1981年のことである。隣接地も神戸パークとして桜の名所に生まれ変わった。しかし建物が再生されても中身がなくては何の意味も無いとの気持ちに賛同する有志により1983年に結成されたのが「日本館劇場伝統保存会」である。その名の示す様に芸能に限らず、かって劇場が果たした役割をも保存していきたいというのがその趣旨である。「日本館劇場伝統保存会」では劇場にまつわる記録をとどめるパネル展示も制作、このパネルは、桜祭などでの展示後、日系人会に引き継がれ、現在は西北部日系博物館の主要展示の一部となっている。
恒例となった“お正月”をはじめとして数々のプログラムに使われてきた劇場も、諸々の事情により建物の所有権がバーク夫妻を離れてからは、劇場部分を除いて各種事務所に賃貸され以前より楽屋スペースの手狭な所に、階段の踊り場さえ使用出来ない有様で衣装の着付けなど不可能に近く、近年は管理の不行き届きか、常設の筈の照明機具や音響、舞台資材の紛失や破損も酷く今年のイベントも出演者諸氏に不便を我慢願っての開催となってしまった。政府援助金助成を得ての保存責務期間も過ぎ、税制上の特典も無くなった今、所有者に劇場補修を期待する事は望み薄であり、最悪の場合、他の施設に改築されてもやむを得ぬのが現状である。いまだ同劇場を訪れた事の無い方には機会があれば是非今のうちに一見をお薦めする。最近、戦前のパナマホテルの一部が日系遺産の保存も含めて新店舗として生まれ変わった朗報があったが、日本館劇場の復旧時といい、何れも非日系人によるのは日系コミュニテーの一員として有難くもあり、また残念な気もする。文化的事業は採算が取れない事もあろうが次の世代に何を残し何が出来るか身近な所から一度見直しては如何なものであろうか。
注:「古屋政次郎」と戦前の日本人社会については武田勝彦著のドキュメンタリー小説「富士ふたつ」の一読推薦。おもしろい事うけあい
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