第一巻表紙
このエッセイは2006年6月に北米報知誌に掲載されたものです。
埃と黴の臭いがダストマスクをしていても鼻腔を突く。廃棄されるものの中に何か採っておいた方が良いものがないか一度見て下さいと、日系人会の関根夫人から依頼されたものの書籍類の整理どころかゴミの山に分け入り、まずは作業場を作らなければならない。廃棄処分とされた本類は雨露にさらされ鼠に齧られたものなど痛みの激しいものばかりだが一冊の表紙に眼が止まった。 グラフィックデザイナーという職業上、良いデザインには敏感である。埃を払ってみると背表紙は無くなっているが、とりのこ風(注1)の地に朱色と金文字を配した見事なアールヌーヴォー(注2)。表題は「吾輩ハ猫デアル」。もちろん日本人なら特に文学に傾倒していなくても文豪夏目漱石の名とこの表題は誰でも知るところ。私もどこかの文庫本かとの第一印象を持ったのであるが、開いて見れば驚くなかれ明治三十九年(1906)発刊のオリジナルなのである。この「吾輩ハ猫デアル」はじめ雑誌ホトトギスに連載されたものがを単行本として発刊されたものであるが、漱石はその序の中で普通の小説ではないからとその価値を心配し此の一巻で消えてしまっても差し支へはないといっている。しかしその人気の程は初版から一年の間に十二版が再版印刷されている事でも憶測できる。定価は金九十五銭。 高いのか安いのか。 漱石の生い立ちや業績にはあらためて触れないが、少し横道にそれる。 「吾輩ハ…」の中で主人公の大学教授の給料の話が出てくるが夏目金之助(漱石の本名)は北米報知誌に以前、津波のストーリーで触れた小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの後任として明治三十六年東京帝大英文科講師として年俸八百円をもらっている。 この頃の公務員の初任給が月給五十五円、大工の日給が九十銭です。
話を本に戻します。表紙裏には早坂の署名があります。おそらく一世の御自身あるいは家族の方が蔵書を日本人会か國語学校に寄贈されたものと思われますが幾霜月を耐え、百年目を迎える今、眼の前にあるのが信じられない気持ちです。塵の山に座りこんで時間を忘れてしまいました。
装丁をされた橋口五葉氏は東京美術学校(現芸大)を卒業間もない英才。大正初期に新版画運動で大正の歌磨とよばれた人です。活版多色刷りの見事な挿絵を担当したのは中村不折(ふせつ)画伯。フランスのアカデミー・ジュリアンに学び洋画界に大きな足跡を残されているが、書道家としても知られています。漱石はやはり序の中で両氏の知遇に感謝しています。 漱石に「吾輩ハ…」の発表を勧めたのは高浜虚子、この前年には若き滝廉太郎そして尾崎紅葉が亡くなっています。 漱石の門には若き芥川龍之介がいますし明治の芸術界の活況が眼に見える様です。漱石は「吾輩ハ…」に続きホトトギスに「坊ちゃん」を発表します。 漱石が文学博士号を辞退したのは有名な話ですが、これが明治四十四年。 胃潰瘍により今なら早世といえる死は大正九年(1916)四十九才でした。 御名前は伏せますが漱石の孫娘になられる御婦人がオレゴンに御健在と伺っています。
最初に発見した一巻は上巻で中巻、下巻と続くことが判り塵の山を探り続けて保存状態は良くないものの幸いにも全巻発見する事ができました。美術史などで見聞はしていたものの手にとって見る事ができるとは思いもよりませんでした。 いずれシアトル日米会館が出来、日系遺産展示の一部となる日が近いことを期待しています。 日本語学校に限らず百年を越える日系社会にはまだまだ忘れられた宝が眠っているのではないでしょうか。 それにしても背表紙を齧った鼠ども、表紙まで齧らなかったのは鎮座する二匹の猫君のせいか…。
(注1)鳥の子屏風など鳥の子は和紙の名。卵の殻に近い白色。
(注2)アールヌーヴォー:19世紀末ヨーロッパでの芸術運動。日本の浮世絵などの影響を受けたといわれるが日本に逆輸入された。
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