2002年2月北米報知誌掲載。
「消えるか?日本館劇場の灯」
瑤曲、琴、三味線の音が九十数年を経た壁に響渡る。去る一月二十六日、日本館劇場に於ける“お正月”で「日本館劇場伝統保存会」主催による“日本芸能シリーズ”も二十周年を迎えた。最も主催者にとっては二十周年を祝うというより辛うじて辿り着いたといった感じの方が正直な気持ち。誤解が多いようなので始めに断わっておくが、日本館劇場を含む「神戸パークビルデング」は某企業の所有であり、「日本館劇場伝統保存会」は賃貸料を支払って同劇場を借りるクライエントの一つにすぎない。
「日本館」の建立は1909年(明治42年)に遡る。以来1942年の日系人強制収容による閉鎖まで日系コミュニテーの中心として数々の催しに使われてきたことは、ロビーに飾られている写真パネルからも窺い知れる。催しは日本芸能にかぎらず政治演説会や、今やベナロヤホールを本拠とするシアトルシンフォニーもこの劇場で演奏したことがある。上記の写真パネルの一つ(1925年付)には、戦前の日本がおくりだした世界的オペラ歌手“三浦 環”(みうらたまき)の姿もある。しかし最も特筆に値するのは、かって舞台正面に緞帳(どんちょう)として掛けられていた広告幕だろう。ここには六十数年前の日系人社会が凍結して見る者の前にある。年配者には日本の銭湯を思いおこさせる広告の中には当時のシアトルの銭湯の名もみうけられる。今、この中で残っているのは「まねき」と「肥後十仙(ひごテンセントストア」だけだが、中央にはシアトルの風雲児、古屋政次郎の起こした戦後日本の総合商社のモデルともいえる「古屋商店」、そして米国銀行に門を閉ざされた移民の為に設立した「東洋銀行」。その他広告費滞納の為か白く塗りつぶされた部分があるのもおもしろい。
戦後、収容所から戻った日系人にも忘れられ廃虚と化していた建物の中に日系人達が置き捨てていった歴史の爪痕を発見したのは、70年代のはじめに此のビルを買い取った建築家エド・バーク氏である。日系史遺産としての重要さを感じたバーク夫妻の奔走により1978年に連邦史跡遺産として登録され、政府援助金の助成を得て劇場を含めて全ビルが生まれ変わったのが1981年のことである。隣接地も神戸パークとして桜の名所に生まれ変わった。しかし建物が再生されても中身がなくては何の意味も無いとの気持ちに賛同する有志により1983年に結成されたのが「日本館劇場伝統保存会」である。その名の示す様に芸能に限らず、かって劇場が果たした役割をも保存していきたいというのがその趣旨である。「日本館劇場伝統保存会」では劇場にまつわる記録をとどめるパネル展示も制作、このパネルは、桜祭などでの展示後、日系人会に引き継がれ、現在は西北部日系博物館の主要展示の一部となっている。
恒例となった“お正月”をはじめとして数々のプログラムに使われてきた劇場も、諸々の事情により建物の所有権がバーク夫妻を離れてからは、劇場部分を除いて各種事務所に賃貸され以前より楽屋スペースの手狭な所に、階段の踊り場さえ使用出来ない有様で衣装の着付けなど不可能に近く、近年は管理の不行き届きか、常設の筈の照明機具や音響、舞台資材の紛失や破損も酷く今年のイベントも出演者諸氏に不便を我慢願っての開催となってしまった。政府援助金助成を得ての保存責務期間も過ぎ、税制上の特典も無くなった今、所有者に劇場補修を期待する事は望み薄であり、最悪の場合、他の施設に改築されてもやむを得ぬのが現状である。いまだ同劇場を訪れた事の無い方には機会があれば是非今のうちに一見をお薦めする。最近、戦前のパナマホテルの一部が日系遺産の保存も含めて新店舗として生まれ変わった朗報があったが、日本館劇場の復旧時といい、何れも非日系人によるのは日系コミュニテーの一員として有難くもあり、また残念な気もする。文化的事業は採算が取れない事もあろうが次の世代に何を残し何が出来るか身近な所から一度見直しては如何なものであろうか。
注:「古屋政次郎」と戦前の日本人社会については武田勝彦著のドキュメンタリー小説「富士ふたつ」の一読推薦。おもしろい事うけあい
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