2010年4月北米報知掲載
ヴィドロ、アンブリア、ヴィクトローラ それとも定番のスタバでしょうか?
あなたの御好みの珈琲は何でしょうか? いまやグルメコーヒーのメッカとなったシアトル。 トール・アンド・スキニーは彼氏のことじゃないの?とか、キャラメルマキアートって何なの?なんて言う時代は過ぎました。お好みのコーヒーの一杯がないと仕事も始まらない方も多い事と思います。
ところで、あの紙コップに被さってくるプラスチックの蓋、小さな飲み口の開いているだけのものから、バーガーキングの様に開けた飲み口を塞げるタブの付いた凝ったものまで色々。 動かした時に溢れない様に、飲み口に差し込む栓?までカラフルにデザインされたものが出回っていますが、肝心の問題は飲み方です。 ほとんどの方が、この飲み口から啜って?いるのが普通のようですが、でも、これでは折角のグルメコーヒーが味わえていないのです。
口内に入った食べ物、飲み物の味覚は基本的には、舌の表面と軟口蓋(口内の上壁奥の部分:英語ではソフトパレット)にあるザラザラした感じにびっしりと並んだ味蕾(みらい:英語ではテーストバッド)とよばれる部分によって感じ採られます。 以前は辛味、甘味、苦味など違う部分の味蕾によって別けて感じられていると思われていましたが、その後の研究で味蕾自体には差の無いことが判っています。それでも口内全体の味蕾の共同信号で味覚が脳に伝えられるのは間違いないようです。
コーヒーのフルフレーバーを味わうには動いている車の中などでなかったら、是非あの蓋を外して、ゆっくりと飲んでみて下さい。 口内いっぱいにフレーバーが広がって、いつも飲んでいるブランドでも改めておいしさの再発見があると思います。 味覚には香りも重要なパートナーです。 蓋をしていては香りも判りません。 あの小さな飲み口から啜っているのでは、ワインやお酒をストローで飲んでいるようなものです。 ストローで焼酎なんて考えただけで寒気がしませんか?
おいしい飲み方に気付いていただいても走行中の車内などでは御気を付け下さい。火傷をされても責任はとれません。 その為にカップホルダーがあるのですから。 幸いカップホルダーはリコールされていませんし? それにしてもメルセデスベンツのカップホルダーについては…? 又の機会に御話いたしましょう。
遣米使節団:米海軍造船所視察
2010年1月北米報知掲載
“日米修好条約批准150周年”
時は万延元年(1860年)旧暦1月(新暦2月)。締結された条約批准書交換の為に、240年に渡る鎖国後、日本人が初めて正式に外国を訪れる事となった。波高き太平海(太平洋)に乗り出した米艦ポーハタン号乗船の遣米使節団は、正史・新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使・村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)以下77名。この護衛艦としてオランダ製の咸臨丸(かんりんまる)に提督・木村摂津守喜毅(きむらせっつのかみよしたけ)艦長・勝燐太郎(海舟)以下、福澤諭吉、ジョン万次郎など総員96名が日本を出発した。
ポーハタン号に較べ、サンフランシスコ直行を目指した咸臨丸の37日間の往路は難航したようだ。福澤諭吉は日本人乗り組み員による快挙と記述しているが、実際は同乗した米国籍船の船長ブルック大尉ら米国水夫の技術が無かったら危なかったようだ。到着前に船内で流行った熱病の為、3人の水夫が落命している。この3人、峯吉、源之助、富蔵はサンフランシスコのコルマ日本人共同墓地に葬られている。
一方ポーハタン号は途中、サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)のオアフ島ホノルル港に停泊、使節は、時のハワイ国王、カメハメハ4世夫妻に謁見している。咸臨丸に遅れてサンフランシスコ到着の遣米使節団は船を乗り継ぎワシントンに向う。この時代まだパナマ運河は無い。ワシントンではホワイトハウスにおいて米国第15代大統領ジェームス・ブキャナンに謁見し無事批准書交換を行なう。余談だがこのブキャナン大統領、米国史の中では余り評価が高くない。この翌年、第16代大統領に就任するのが、エブラハム・リンカーンである。
昭和35年(1960年)には、この日米修好条約批准100年の祝賀として皇太子、皇太子妃であられた今上天皇、美智子皇后御夫妻が訪米、当地も訪問されておられる。美智子妃は、この年2月に現皇太子浩宮徳仁親王を御出産されている。
当時の日本国内情勢は日米安全保障条約批准をめぐり極めて不穏、岸信介総理が襲われ瀕死の重傷。日本社会党委員長・浅沼稲次郎が演説中17歳の右翼少年に暗殺されたりと、とても祝賀のムードではなかったが、米国の日系人には日米の親善を祝うのが何故悪いのか納得出来なかったようだ。
さて話を万延元年(1860年)に戻そう。勝海舟らが留守の間に、時の大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士に暗殺される。有名な安政7年(万延元年)3月3日の「桜田門外の変」である。この事件をモデルにした映画の主題歌(昭和6年)が表題のサムライ日本である。「人を斬るのが侍ならば恋の未練がなぜ斬れぬ…」年配の方には懐かしい曲である。今年のNHK大河ドラマ「竜馬伝」の主人公、坂本竜馬は勝海舟暗殺を目論んで接近、結果として勝の弟子となったのが2年後(27才)である。22才で北辰一刀流免許皆伝となるほどの剣の達人だったが、油断からか刀をとること無く暗殺された(享年31才)。その折もピストルを帯びており、進取の気と共に商才もあったようで、亀山社中、後の海援隊を組織、国際貿易にも着手。その意志は岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)に受け継がれる。
その三菱を前身とする日本郵船が明治29年(1896年)三池丸をもって横浜シアトル間の定期航路を開き、今日の当地域の発展に大きく関与してきた事を思うと、その恩恵を甘受する不甲斐なき末裔としては新年にあたり、今この地にあって150年の歴史を振り返り、先人の気概と勇断に思い至る。
ふと、雨音のなかに龍馬の声を聞いた気がする。
「無理せんでいいぜよ。肩の力抜いて遠くを見なよ…」
2010年8月北米報知誌掲載
「数の話」…数字の魔術と落とし穴
「ヒヤリ・ハット」と「フェイル・セーフ」
前回に続き「安全性」について考えてみましょう。皆さんは表題の「ヒヤリ・ハット」という言葉を聞いたことがありますか? 「フェイル・セーフ」は勿論、英語ですが「ヒヤリ・ハット」は外国語ではありませんし、新種のドリンクでもありません。思わず「ひやり」とした。「はっと」気付いた。あの「ヒヤリ・ハット」なのです。これはジョークではありません。「安全性」を考える上で重要な概念なのです。ハインリッヒの法則とよばれるものがあります。大きな事故や災害の裏には29件の軽い事故があり、300件のヒヤリ・ハットがあるという報告がもとになっています。つまり見過ごしてしまいがちな「ひやり」としたや、「はっと」した体験に注目することで、大きな事故や災害を予期、未然に防ごうという事です。医療関係では何が「ヒヤリ・ハット」にあたるのか、厚生省がちゃんと定義しています。
海底油田でも、トヨタ車でも、報告された事故の以前に多くの「ヒヤリ・ハット」があったのではないでしょうか?。歪んだ報道バッシングも下火になりましたが、これを教訓に「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということにはなってほしくないですね。
さて、物事の起こりえる可能性を数字として表すのが[確率]です。何事によらず完全という事は有り得ません。人間の身体にしろ、機械にしろ動いているという現象の裏には、止まるという現象が背中合わせで存在します。動いているものは、いつかは止まるという事です。マーフィーの法則としてトリヴィア化されていますが、それが大自然の法則です。起こり得るものは必ず起こるのです。例え「十万分の一」、「百万分の一」といっても、人命にかかわるような事故は絶対に防げないのでしょうか? 可能性はあります。それが「フェイル・セーフ」の概念です。不慮の間違いに対する安全措置です。可能性はありますという意味は、完全はありえないとしても、どこまでも安全を第一に考える。これが「安全工学」、あらゆるエンジニアリングの基本です。コンピューターの概念ができても、いままでは、最終的な対処は人間が行なう考えが主流でしたが、ヒューマンエラー(人為的過失)を無くす為には、発展したコンピューターに任せた方が安全という考えが強くなってきているようです。しかしコンピューターも完璧でないことは御承知の通りです。次回はコンピューターに「フェイル・セーフ」は任せられるのかを、考えてみましょう。
このエッセイは2010年7月に北米報知誌に掲載されたものです。
以前に「コミュニケーションしてますか?」の表題下に、「数の話」をいたしましたが、読者の方から続きはどうなっているの?との御催促を戴きました。今回は気になる事件が続きましたので、少し見方を変えた「数の話」をしてみたいと思います。
ただいま渦中のメキシコ湾油田事故、毎日、テレビでも騒がれてはいますが、この事故を、あまり報道されていない面から見直してみましょう。
「写真1」が今回の爆発事故後に水没した海底油田「ディープウォーター・ホライゾン」です。総工費5億6千万ドル、韓国の現代(ハンデイ)重工製。海底油田の種類には詳しく触れませんが、海上の採掘採油総合施設はプラットフォームとよばれます。一つのプラットフォームは平均30ヶ所程の採孔(海底の原油、ガスの出口)を管理しています。「写真2」はNOAA(2006年現在)によるメキシコ湾の油田分布図です(矢印が事故箇所)。驚かれる方も多いと思いますが、メキシコ湾には現在4,000余りのプラットフォームが稼動しているのです。前述のようにプラットフォーム毎に30ヶ所の採孔があるとすると、実に10万ヶ所以上が海底に穿孔されている事になります。今回の事故でBPの責任者は油田、ガス田を合わせ約5万の採孔がBPの管理下にあると表明しています。同責任者は技術及び管理面でのインティグリティー(保障精度)について問われ「100,000:1」つまり間違いの起こりうる確率(プロバビリティー)を10万分の1といっています。普通に考えれば、これは非常に高い安全率(99.999%)です。あらゆる技術面において、このレベルを達成するのは至難の技です。しかし今回の事故のような採孔が10万ヶ所あるとなると、業界全てに同様のインティグリティーがあるとしても、今にでも又、メキシコ湾のどこかで次の事故の起きる可能性があるということです。
今ひとつは、信頼性世界一を誇ったトヨタ車のリコール問題です。問題の故障は世界で約80件報告されていますが、対象となった車は800万台。つまり、この故障はトヨタ車10万台に一台の割で起きた事になります。偶然にも油田業界と同じインティグリティーに直面した事になります。トヨタは「カイゼン」で知られた様に製産精度を極限まで上げる努力をしてきましたが、精度が高くなるにつれ、あと僅かの向上に膨大な費用がかかります。若しも企業が「10万が一」の不備を正すことより、事故の事後処置(人命も含めて)の方が安いという判断を下したとしたら経営陣の倫理感が問われる事になります。今日の経営首脳陣の多くが現場での物作りを体験しておらず、株主の為に利潤のみを追求させられている事は考えさせられます。今、私はこの原稿をコンピューターで書いていますが、コンピューター業界のインティグリティーはどの辺でしょうか? どうも、あまり高いようには思われません。それは「万が一」、「10万が一」で起き得る故障に対する保障経費と投資の比較によるからです。パソコンがクラッシュしても人命に関わる事は少ないでしょうから、有る程度のバグは市場に出す際、無視されています。ユーザーはもっと高いインティグリティーをソフト会社に要求すべきかもしれません。しかし、「十万に一つ」、「百万に一つ」の事故は防げないのでしょうか? 可能性はあります。それが「フェイル・セーフ」の概念です。次回はこの「フェイル・セーフ」に触れてみます。
日本語の一万集まるごとの単位ですが、億、兆、京(けい)、に続き 垓(がい)、穣(じょう)、溝(こう),澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(こうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)となります。
一万倍ごとの十七段階の単位で「一無量大数」とは10の68乗、1のあとに0が68個続いた数となります。今度は一より小さな数を見てみましょう。通貨の単位は今は一円が最小ですが、以前は百分の一円は一銭(せん)を使っていました。一世の方達は一ドルを一円、一セントを一銭(仙)とよんでいましたが都合がよかったのでしょう。通貨でない数量の場合はちょっと複雑になりますが、比率や割合にかぎっては十分の一が割(わり)、百分の一は(ぶ)、千分の一は厘(りん)となります。イチローの打率は3割3 分3厘とか歳末セール5割引きなどと使われています。その他の数量の単位では十分の一が分(ぶ)になり、百分の一が厘(りん)になります。通貨の場合も含めて、これより下は千分の一が毛(もう)、一万分の一が糸(し)となり、壱円拾参銭五毛弐糸(いちえん・じゅうさんせん・ごもう・にし)などと使われていたわけです。死語になりましたが,「一分一厘も無駄にするな」「勝負は五分と五分」というような言葉もよくきかれました。さらに小さくなって十万分の一は忽(こつ)、一千万分の一は微(ぴ)、一億分の一は繊(せん)、これ以下も前の単位の十分の一ごとに沙(しゃ)、塵(じん)、挨(あい)、渺(びょう)、漠(ばく)、模糊(もこ)、逡巡(しゅんじゅん)、須臾(しゅゆ)、瞬息(しゅんそく)、弾指(だんし)、刹那(せつな)、六徳(りっとく)、虚空(こくう)、清浄(せいじょう)と続きます。「清浄」は百垓分の一、10のマイナス21乗、小数点のあとに0が20ならんで1です。これらの単位は量や時間を表現する言葉の中で使われていることに気付くと興味深いと思います。ホコリは小さいから塵埃なのか? 小さすぎてはっきりしない事から漠とし、模糊としているのでしょうか。刹那とは指を弾く間の十倍も早い?「清浄」とは細菌ほどの小さなものも存在しない等々です。
次回は英米語の数の単位についてみてみます。
2007年2月北米報知誌掲載。
1月17日付5頁の読み物「コミュニケーションしてますか?」の掲載文中、下記を訂正いたします。
掲載文:
日本語ですと600百億ドル、日本円に換算すると約6兆円、約6トリリオン円ということになります。
原文による訂正:
日本語ですと六百億ドル、日本円に換算すると約六兆円、約シックス・トリリオン円ということになります。
いきなり記載文章の訂正告示から始まるという異例の続編になりました。優しい編集者が読みにくかろうと素人の原稿を直して下さったのだと思いますが、話の核心たるプロも陥るコミュニケーションの盲点なので、あえて異例の文頭となりました。慧眼なる読者の御指摘の通り、600百億ドルは6百億ドルの間違いです。ここで気付いていただきたいのは筆者が「日本語ですと」とことわっている事です。ここは「600億ドル」とも書けたのですが、1、2、3…0というアラビア数字は日本語ではありません。世界共通の数字シンボルですが言語により読み方(発音)は勿論違います。「6トリリオン円」とは英米語圏向けの表記(と思われている)ですが「ろく・トリリオン円」と読まれたらこまります。ですから「シックス・トリリオン円」でないと筋道が立ちません。「600億ドル」というような表示は日本でも漢字を使うよりも一般的になってきましたが、特に縦組の場合は雑誌などでも間違いがよくあるようです。書いた側も読む側も気がつかないとしたら、コミュニケーションの第一歩から成り立っていないことになります。零の数といった安易な間違いを防止する為に手書きのチュックでは数を読みあげた通りにスペルアウトしますが法令上はアラビア数字の記載よりも裁判で優先されるのは御存知のとおりです。前回は触れませんでしたが表にあるように日本語の数の単位は一万集まるごとに次の単位にかわります。ですから便宜の為に打つコンマは四桁ごと(算盤)になり、米語の場合は千集まるごとに単位が変わりますから三桁ごとにコンマを打つことになります。
このエッセイは2007年1月に北米報知誌に掲載されたものです。
世はあげてアイティー革命時代。アイ・ティーはインフォメーション・テクノロジーの略で日本語に訳せば情報技術革命となりますが、情報を伝えるのがコミュニケーション。言い換えればコミュケーション技術革命です。二人の人間がいれば、そこにコミュニケーションが必要になります。もちろん他の動物や植物ともコミュケーションはあると言われる方もおられるでしょうが、ここはひとまず人間同士のコミュニケーションに絞ります。二人が三人となり、十人となりコミュニティー社会、国、世界へと広がっていきます。コミュケーションが正しく行われていれば戦争もない平和な世界がある筈です(後で詳しくふれますが正しくとは正確なという意味だけではありません)。
コミュニケーションのプロである報道機関は正確さを至上とします。特に日本の報道機関や政府の報道はそれだけに頼る傾向が強いようです。誤報や、やらせなどはもってのほかですが、残念ながら正確さのみでコミュケーションが達成するとの思い違いの何と多いことか。情報を判読出来た事は理解出来た事ではありません。本当のコミュニケーションとは、その判読が理解に進み、その理解がなんらかの判断の要素となり、さらになんらかの行動を起こさせる動機となる事。それがコミュニケーションを達成したという事です。ほとんどのコミュニケーションが判読させるところ迄で終わってしまっています。これだけ情報量が多いと受け手に理解の努力を期待するのは無理で、容易に理解できる情報を作るのが義務とまでいわなくとも提供する側の仕事であり、さもないと全てが無駄になってしまいます。
ニュースなどの基本的な情報要素として日米の通貨を例にとってみましょう。日本円とドルを比較する場合、四通りの表現があります。表を見て下さい。よくニュースで見かける数字を例にとってみますが、マイクロソフトのビル・ゲーツ氏の推定資産はシックスティービリオン・ダラーといわれています。日本語ですと六百億ドル、日本円に換算すると約六兆円、約シックス・トリリオン円ということになります。いずれも正確なのですが、大きな数になって比較できる目安がないと実感は湧いてきません。約六兆円という数字を競馬や宝くじの売り上げや日本の国家予算と比較して初めてその大きさに納得がいきます。アメリカの人に宝くじの売り上げがトリリオン円だといっても不思議な顔をされるだけですが、日本人にもわからないでしょう。この表現は政府関係の英語広報などによくみられます。大きな数字の単位も兆が限度で、その上の京(けい)になると馴染みが薄くなります。米語でもビリオンが限度でその上のトリリオンなると実感が無くなると思います。ここで英語と言わずにあえて米語といったのはアメリカとヨーロッパではミリオンから上では読み方に違いがあるからですが、極めて大きな数や小さな数の読み方については次の機会にふれてみたいと思います。
ここでは表に最近のニュースで話題となった数字を当てはめてみました。日本の国家予算は名目で、これに特別会計と呼ばれる別枠の予算を足すと米国の国家予算に近いものになります。減少傾向の郵便貯金を見て下さい。今もこれだけのお金を企業ではない一般の日本の人達が0.12パーセントの年利(10万円預けて120円=千ドルで1ドル20セント…年利ですよ)で預けているのです。これだけのお金がうまく流通していたらと考えると小泉前首相が民営化を押し進めた理由も判る気がしてきませんか。パチンコの年間売り上げはゲイツ氏の資産の五倍もあります。パチンコ業界の七割近くはコリア系の企業ですからかなりの現金が北朝鮮に流れているといわれていますが大変な額だと感じられるでしょう。
こうして見ると、毎日のニュースで聞き流してきた数字が実感として感ぜられニュースそのものも全く新しい意味を持ってくる事と思います。これがコミュニケーションなのです。次回に実感の湧かない数字を見たり聞いた時には通貨に限らずこの表に当てはめてみて下さい。より深い理解のお手伝いになる筈です。
第一巻表紙
このエッセイは2006年6月に北米報知誌に掲載されたものです。
埃と黴の臭いがダストマスクをしていても鼻腔を突く。廃棄されるものの中に何か採っておいた方が良いものがないか一度見て下さいと、日系人会の関根夫人から依頼されたものの書籍類の整理どころかゴミの山に分け入り、まずは作業場を作らなければならない。廃棄処分とされた本類は雨露にさらされ鼠に齧られたものなど痛みの激しいものばかりだが一冊の表紙に眼が止まった。 グラフィックデザイナーという職業上、良いデザインには敏感である。埃を払ってみると背表紙は無くなっているが、とりのこ風(注1)の地に朱色と金文字を配した見事なアールヌーヴォー(注2)。表題は「吾輩ハ猫デアル」。もちろん日本人なら特に文学に傾倒していなくても文豪夏目漱石の名とこの表題は誰でも知るところ。私もどこかの文庫本かとの第一印象を持ったのであるが、開いて見れば驚くなかれ明治三十九年(1906)発刊のオリジナルなのである。この「吾輩ハ猫デアル」はじめ雑誌ホトトギスに連載されたものがを単行本として発刊されたものであるが、漱石はその序の中で普通の小説ではないからとその価値を心配し此の一巻で消えてしまっても差し支へはないといっている。しかしその人気の程は初版から一年の間に十二版が再版印刷されている事でも憶測できる。定価は金九十五銭。 高いのか安いのか。 漱石の生い立ちや業績にはあらためて触れないが、少し横道にそれる。 「吾輩ハ…」の中で主人公の大学教授の給料の話が出てくるが夏目金之助(漱石の本名)は北米報知誌に以前、津波のストーリーで触れた小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの後任として明治三十六年東京帝大英文科講師として年俸八百円をもらっている。 この頃の公務員の初任給が月給五十五円、大工の日給が九十銭です。
話を本に戻します。表紙裏には早坂の署名があります。おそらく一世の御自身あるいは家族の方が蔵書を日本人会か國語学校に寄贈されたものと思われますが幾霜月を耐え、百年目を迎える今、眼の前にあるのが信じられない気持ちです。塵の山に座りこんで時間を忘れてしまいました。
装丁をされた橋口五葉氏は東京美術学校(現芸大)を卒業間もない英才。大正初期に新版画運動で大正の歌磨とよばれた人です。活版多色刷りの見事な挿絵を担当したのは中村不折(ふせつ)画伯。フランスのアカデミー・ジュリアンに学び洋画界に大きな足跡を残されているが、書道家としても知られています。漱石はやはり序の中で両氏の知遇に感謝しています。 漱石に「吾輩ハ…」の発表を勧めたのは高浜虚子、この前年には若き滝廉太郎そして尾崎紅葉が亡くなっています。 漱石の門には若き芥川龍之介がいますし明治の芸術界の活況が眼に見える様です。漱石は「吾輩ハ…」に続きホトトギスに「坊ちゃん」を発表します。 漱石が文学博士号を辞退したのは有名な話ですが、これが明治四十四年。 胃潰瘍により今なら早世といえる死は大正九年(1916)四十九才でした。 御名前は伏せますが漱石の孫娘になられる御婦人がオレゴンに御健在と伺っています。
最初に発見した一巻は上巻で中巻、下巻と続くことが判り塵の山を探り続けて保存状態は良くないものの幸いにも全巻発見する事ができました。美術史などで見聞はしていたものの手にとって見る事ができるとは思いもよりませんでした。 いずれシアトル日米会館が出来、日系遺産展示の一部となる日が近いことを期待しています。 日本語学校に限らず百年を越える日系社会にはまだまだ忘れられた宝が眠っているのではないでしょうか。 それにしても背表紙を齧った鼠ども、表紙まで齧らなかったのは鎮座する二匹の猫君のせいか…。
(注1)鳥の子屏風など鳥の子は和紙の名。卵の殻に近い白色。
(注2)アールヌーヴォー:19世紀末ヨーロッパでの芸術運動。日本の浮世絵などの影響を受けたといわれるが日本に逆輸入された。
このコラムは2004年作(掲載没…マイロソフトに遠慮?)
横丁の隠居:「八っあん、精が出るがそろそろ昼時、ちょいと休んだらどうかね」
八五郎: 「ご隠居、じゃあ昼飯にさせていただきやす。かかあの野郎がどじなもんで今日はコンビニの弁当なんでやすがねえ…。あれ!ご隠居もパソコンでやすか? あっしにゃあどうにも馴染めない代物でやんすが…」
隠居: 「便利になったもので、難しかったのは昔の事で今じゃあ家電なみ、箱から出してすぐに使える様になったねえ。そのうちコンピューターなんて名も無くなってそこいら中の物に組み込まれてしまって、知らず知らずのうちに使っている事になるだろうな。おまえさんの乗っている車にも八個位のコンピューター(マイクロプロセサー)が眼に見えない所で働いているよ」
八: 「なるほど、そんなもんでやんすかねえ…。所でご隠居、マイクロソフト屋のゲーツ旦那が独占だどうのと、お上のお調べを受けてなさるそうなんでやんすが、あっしにゃあさっぱり判らねえ…インタネットのブラウザがどうのこうのたって…」
隠居: 「まあ、商売というのは競争だから少しでも多く売りたいのは人情。競争があるから良いものが安く出回る訳だからな…。今、おまえさんの食べなされている弁当に例えてみよう。弁当に無くてならないものは何だね?」
八: 「そりゃあ勿論、オマンマで。メシがなくっちゃあ話にならねえ」
隠居: 「そうそう、まあ弁当屋がコンピューター機器の会社としてごらん。OS(オペレーテング・システム)というのはコンピューターの頭脳で、これがなくちゃあどうにもならない。つまり弁当ならオマンマだ。ゲーツの旦那は旨い飯の炊き方を考えなさって世界中のパソコンという弁当の十のうち九つに“ウインドウズ米”という飯を供給してなさるといっていい」
八: 「そりゃあすげえ! どうりで将軍様よりでけえお城に住める訳だ」
隠居: 「弁当は飯だけじゃあ足りない。オカズもいれば調味料もいる。色々な店が卸している訳でマイクロソフト屋じゃあ、そっちの方も大きく手をのばしている。流行のインタネットの世界に通じるにはブラウザという取次役がいるんだが、オマンマとオカズと…他に何がいるかね?」
八: 「えーと、刺身だって醤油がねえことにはしまらねえですが?」
隠居: 「さしずめブラウザは醤油と思ってごらん。おまえさんの弁当には、どうやってついてきているかね?」
八: 「へい、小さな袋入で…。これにゃあ他のソースもついてやす」
隠居: 「マイクロソフト屋では出遅れたが、自分のブランドのエクスプローラーという醤油を売りたい。所が弁当屋では、客の好みもあるからネットスケープ銘柄とか色々組み合わせて売りたい。そこでマイクロソフト屋では、だだで付けるから、うちの醤油を付けなければ飯を卸さないぞと…いったとか、言わなかったとか」
八: 「なるほど、それで御役人がこれはいかがなものであろうかと、言いなさる訳でやんすね」
隠居: 「お上では醤油を付けずに卸せ。…付けるのであれば他銘柄のものもつけよ。との仰せだ」
八: 「それでゲーツ旦那は、どうお答えになさってるんで?」
隠居: 「新米では飯に醤油をかけている。客の便宜を考えてしている事で、かけてしまった醤油が取り除けられるかと‥まあ、開き直りなさった」
八: 「先にかかってりゃあ手間は省けるが、客の好み通りという訳にゃあいきやせんね」
隠居: 「マイクロソフト屋以外の醤油袋を付けているのもあるのだが、袋が開けにくい上、お客に“本当にこれをかけるんですか?‥マイクロソフト印は同じか、もっとおいしいですよ”といった但し書きが開けようとする度に出てくる」
八: 「まあ、大して味が変わらなきゃあ手近な方を使いやすねえ‥やっぱり」
隠居: 「そこがマイクロソフト屋の狙いだな。将来は味が予めついた新種米を交配して売り出すと、いきまいていなさるが‥他の店が旨いもの作っても販路は無し…心配なのは皆が同じものしか食べなかったら旨いもまずいも、味が判らなくなる事じゃな」
八: 「成る程ねえ、それでご隠居もマイクロソフト屋の飯を食べなさってる訳で?」
隠居: 「いやいや、わしは此のシアトル長屋一番の偏屈者として通っておる。わしは米ならぬ林檎かじり(アップル・マッキントッシュ)じゃよ」
…おあとがよろしいようで…
“マイクロソフトの巻” 終
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