遣米使節団:米海軍造船所視察
2010年1月北米報知掲載
“日米修好条約批准150周年”
時は万延元年(1860年)旧暦1月(新暦2月)。締結された条約批准書交換の為に、240年に渡る鎖国後、日本人が初めて正式に外国を訪れる事となった。波高き太平海(太平洋)に乗り出した米艦ポーハタン号乗船の遣米使節団は、正史・新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使・村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)以下77名。この護衛艦としてオランダ製の咸臨丸(かんりんまる)に提督・木村摂津守喜毅(きむらせっつのかみよしたけ)艦長・勝燐太郎(海舟)以下、福澤諭吉、ジョン万次郎など総員96名が日本を出発した。
ポーハタン号に較べ、サンフランシスコ直行を目指した咸臨丸の37日間の往路は難航したようだ。福澤諭吉は日本人乗り組み員による快挙と記述しているが、実際は同乗した米国籍船の船長ブルック大尉ら米国水夫の技術が無かったら危なかったようだ。到着前に船内で流行った熱病の為、3人の水夫が落命している。この3人、峯吉、源之助、富蔵はサンフランシスコのコルマ日本人共同墓地に葬られている。
一方ポーハタン号は途中、サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)のオアフ島ホノルル港に停泊、使節は、時のハワイ国王、カメハメハ4世夫妻に謁見している。咸臨丸に遅れてサンフランシスコ到着の遣米使節団は船を乗り継ぎワシントンに向う。この時代まだパナマ運河は無い。ワシントンではホワイトハウスにおいて米国第15代大統領ジェームス・ブキャナンに謁見し無事批准書交換を行なう。余談だがこのブキャナン大統領、米国史の中では余り評価が高くない。この翌年、第16代大統領に就任するのが、エブラハム・リンカーンである。
昭和35年(1960年)には、この日米修好条約批准100年の祝賀として皇太子、皇太子妃であられた今上天皇、美智子皇后御夫妻が訪米、当地も訪問されておられる。美智子妃は、この年2月に現皇太子浩宮徳仁親王を御出産されている。
当時の日本国内情勢は日米安全保障条約批准をめぐり極めて不穏、岸信介総理が襲われ瀕死の重傷。日本社会党委員長・浅沼稲次郎が演説中17歳の右翼少年に暗殺されたりと、とても祝賀のムードではなかったが、米国の日系人には日米の親善を祝うのが何故悪いのか納得出来なかったようだ。
さて話を万延元年(1860年)に戻そう。勝海舟らが留守の間に、時の大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士に暗殺される。有名な安政7年(万延元年)3月3日の「桜田門外の変」である。この事件をモデルにした映画の主題歌(昭和6年)が表題のサムライ日本である。「人を斬るのが侍ならば恋の未練がなぜ斬れぬ…」年配の方には懐かしい曲である。今年のNHK大河ドラマ「竜馬伝」の主人公、坂本竜馬は勝海舟暗殺を目論んで接近、結果として勝の弟子となったのが2年後(27才)である。22才で北辰一刀流免許皆伝となるほどの剣の達人だったが、油断からか刀をとること無く暗殺された(享年31才)。その折もピストルを帯びており、進取の気と共に商才もあったようで、亀山社中、後の海援隊を組織、国際貿易にも着手。その意志は岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)に受け継がれる。
その三菱を前身とする日本郵船が明治29年(1896年)三池丸をもって横浜シアトル間の定期航路を開き、今日の当地域の発展に大きく関与してきた事を思うと、その恩恵を甘受する不甲斐なき末裔としては新年にあたり、今この地にあって150年の歴史を振り返り、先人の気概と勇断に思い至る。
ふと、雨音のなかに龍馬の声を聞いた気がする。
「無理せんでいいぜよ。肩の力抜いて遠くを見なよ…」
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