入れ替わり直後の不自然さにまったく気付かない周囲の鈍感さは
突っ込みどころ満載。
さらにラストの「もっと早く気付いていれば、こんなことには…」も
違和感ありあり。
あれで気付くくらいなら、絶対もっと前に気付いてるし、
双子がいようといまいと道彦さんは殺人を犯してたでしょ(笑)
回を追うごとに、対照的な双子の生きざまと2人の「芝居」に
惹きつけられていっただけに残念です。
脚本・演出にこじつけ感が否めないのと、
それを演技でカバーするには主役が力不足だったんだと思う。
どうしても「這いずり回りながら生きてきたが故に、
金のためなら売春でも何でもする女」としての凄みというか、重みが足りない。
母の愛に気付いて復讐を思いとどまる過程も伝わりにくい。
石原さとみちゃんとかだったらもっと見応えあったんじゃないかな。
設定や全体の流れとしては凄くおもしろくて、
毎週楽しみにしていたドラマだったので、もったいないです。
「この闇と光」に似てる。
「とられた側」の視点をろくに描かないところや、
本来の場所で居心地の悪さを感じてしまうところが。
同時期に放送された「Mother」とも似てるのは、
前々から耳に挟んでいたけれど。
でも、この作品が「Mother」と違うのは、
「あなたのやっていることは犯罪だ」、
「その子はあなたの子どもじゃない」って
言ってくれる身近な人物がいないこと。
いないから、視聴者である私自らが突っ込んでしまう(笑)
いないから、安心してヒロインの視点に寄り添うことができない。
あと、逃亡生活(特に前半)があまりにも無計画。
「あてもなく名古屋へ・・・」って、
ダメ元でも良いからあてくらい作ろうや(笑)
「天使の家」とその入居者が抱える過去や想いには引き込まれました。
客観的に見れば、いかにもきな臭い宗教集団。
でも、彼女たちにとっては「最後の砦」。
そこに縋るしかない彼女たちの「叫び」が胸に迫ってきて、
後に明かされる「入居条件」に心が痛みました。
今まで「恐ろしくて奇妙な集団」としか思わなかったある種の社会現象を、
違った側面から垣間見た気がします。
いろいろと突っ込みながらも、
夢中で見てしまったもう一つの理由は、この作品のタイトル。
どんな意味が込められているのか疑問に思いながらも、
「蝉=薫との逃亡生活」だと朧気に解釈していた私は、
「8日目=その儚い幸せが終わるとき」に「何が起こるのか」が
気になって仕方がなかった。
でも、本当の意味は、
「8日目まで生きた蝉は孤独だけれど、
その分、他の蝉が見ることのできないもの
(=希望)を見ることができる」だそうで。
・・・この解釈、私には腑に落ちない。
誰にとって、何が希望だったの・・・?
希和子が懐かしむ小豆島の日々は、
あくまで「思い出=過去」であって、
「8日目以降=未来」ではないし。
「堕ろすつもりだった恵理菜の子ども」や「成長した薫との再会」、
「フェリー乗り場から見える夕日(朝日?)」が「希望」だとするのも、
とってつけたようで安易な気がする。
ご都合主義に思えて好みじゃありません。
青臭いけど人情味があって、
責任転嫁や自己嫌悪を繰り返しながらも
一生懸命歩いていくゆりちゃん。
そして、そんなゆりちゃんを疎みつつも放っておけず、
複雑な感情をないまぜにしながらも
正論を突き付ける継母、響子さん。
前者の生き方には共感を覚え、
後者の言葉や態度には納得させられたり惹き付けられたり。
顧問税理士さんの「人間は割り切れない」って言葉も印象的でした。
おもしろかったです。
何気ない仕種や言葉や表情が、深い意味を持っている、
味わい深いドラマ。
無邪気な表情から一転して、
くしゃっと歪む継美の泣き顔。
周りを嘲笑い、自分自身を嘲笑うかのような怜南の母、仁美。
自分は犯罪者だと、
傍観者が犯罪者になっただけなのだと明かす奈緒に、
それなら自分は共犯者だと笑う葉菜。
敵とも味方ともつかない記者、藤吉の言葉にも重みがあります。
もう一度最初から見たら、また別の見方ができるのでしょう。

朝日放送開局50周年記念企画として2006年に放送された、
三浦綾子さん原作、石原さとみちゃん主演のドラマです。
凍っては溶けて、溶けては凍る。
氷点と融点はおんなじ温度。
愛と憎しみも、同じかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
ふたりの母親が思いをぶつけ合うシーンと
流氷が燃えるシーンが印象的。
元ちとせの歌う主題歌、六花譚も大好き。
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