王勃《夏日仙居觀宴序》での則天文字
写字モノクロ画像は正倉院「王勃詩序」第(11)紙から
「日・年・月」の則天文字(次3字)を桃色あみがけに加工
Ꮻ・𠡦・☮
(☮で代用した「月」は他で𠥱の字体となる)
今回は、則天文字そのものの字体には、ほぼ触れず。引き続き則天文字が使われていて、正倉院に伝わった慶雲四年(707年)七月廿六日書写という御物「王勃詩序」のことを、ひとくさり。
過去の「正倉院展」の図録に載ってる、ってお話からね。古本で手に入れたんでしょ。
昭和58年と平成6年の図録、2冊とも入手。表紙は上の画像の右側に置いたとおり。ともに一部のカラー図版と、王勃「詩序」全巻のモノクロ画像を縮小掲載。
昭和58年(第35回) 正倉院展
p12上段[出品目録]に「6 詩 序 一巻 中倉 三二」
p26p27に用紙の貼り継ぎがわかる箇所のカラー写真2点と、モノクロでの巻子を巻いた状態でのぢか書きの外題「詩序一卷」という写真。
pp112-126に「6 詩序(全巻)」として(1)から(29)までの番号を付し上下2段にモノクロ写真。
平成6年 第46回 正倉院展
p7上段[出品目録]に「54 詩序 一巻 中倉 二三【御物目録番号】」
pp89-91に昭和58年とほぼ同じ「 54 詩序 部分(および解説)」
pp123-137に「詩序 全文図版」として(1)から(29)までの番号を付し上下2段にモノクロ写真。
あら2度とも、ほぼ同じ写真じゃないの。
そうなんだ。冊末のほう、モノクロ写真が載った箇所から「年・月・日」の則天文字が見える一篇《夏Ꮻ仙居觀宴序》を、スキャナで読みとってみたんだけど……。
いかにもの、地がまだら斑点になっちゃってるね。
うん。楊守敬『日本訪書志』巻十七での翻刻と対照させようと、試みたんだけど。咸亨(かんこう)二年は、西暦671年で唐の高宗の治世につき、則天武后はまだ、おきさき様。この王勃の文章《夏Ꮻ仙居觀宴序》の前半を、明治初期に訪日した清・楊守敬が紹介し、則天文字もそれらしく翻字している。
で、楊守敬が清国に持ち帰った王勃の遺文、どんな資料だったか推測できたの?
まだ確信はないんだけど、30枚の紙を貼り継いでいる正倉院の巻物「詩序」の転写本か、あるいは石版という方法での複製を入手していながら、それがあちこち欠けての20枚分だけだった、と推測。
なぜそう思うの。
上に挙げた『日本訪書志』【卷十七】八丁での《夏Ꮻ仙居觀宴序》は、次のように句読点を入れ再現できるけど、篇末に割注「下闕」があって終わってる。
咸亨二𠡦四𠥱孟夏,龍集丹純,兔躔朱陸。時属
陸沈,潤褰恒雨。九隴縣今河東柳易。式嵇彜典,
【▼訪書志卷十七 八】
歷禱名山。爰昇白鹿之峯,佇降玄虬之液。楊法
師以烟霞勝集,諧遠契於詞場;下官以書札小
能,敘高情於祭牘。羞蕙葉,奠蘭英,舞闋哥終,雲
飛雨驟。靈機蜜邇,景 下闕。
そして次の篇《至眞觀夜宴序》が続くよね。ところが正倉院の「詩序」では、あえてモノクロ画像に、赤い▼を置いてみたけど、行末「……靈機蜜迩景」で終わるわけじゃなくて、次行「况始然……」以下に続いてる。実はここが、正倉院の巻物では第(11)紙から第(12)紙への貼り継ぎ箇所なんだ。
つまり楊守敬という学者さんは、その巻物の第(11)紙に何が書いてあるかは知りえたけど、続く第(12)紙などは未見のまま『日本訪書志』をあらわした、って推測したのね。
そのとおり。書誌学者・楊守敬がまったく言及していない篇や、「闕前半」「下闕」などと不完全な篇だと注記しているところも、正倉院の「詩序」の特定の貼り継ぎ紙を見ていないと仮定すると、すべて説明できるんだ。
またまた、そんな考察、優秀な別の学者さんが発表してるんじゃなくて。
そうだった。やはり王勃研究の専門家で、京都大学大学院人間・環境学研究科にご所属という、道坂昭廣先生が、すでに述べてたと、次の新刊書でようやく確認。
道坂昭廣 2016.12 『王勃集』と王勃文学研究 研文出版 8,100円
やっぱり先行研究で触れられてたのね。
この書での三部構成の最後「Ⅲ 日本伝存『王勃集』をめぐる問題」の二番目
日・中における正倉院蔵「王勃詩序」の発見
に、楊守敬がどれほど不完全な「王勃詩序」の複製を、資料として入手したのか述べてあった。実はこのブログの記事を書き終え発表した同じ月末になって、前の月というか昨年末に刊行の、この専著を販元である神保町・山本書店の店頭でめくってみたんだ。
研文出版、って古本屋街にあるの。
老舗として漢籍・中国図書の売買をしている山本書店の出版部門が「研文」。地下鉄「神保町」駅(東京メトロ・半蔵門線および都営・新宿線)の、九段下にもっとも近いほうの出入り口を上がってすぐだからね。
で、お買い求めずみ?
でへっ、まだなんだ。初出の次の論文集、B5判横書き(横組み)の誌面で内容確認中、ってことで、ご勘弁を。
日・中における正倉院藏「王勃詩序」の"發見"について (道坂昭廣著)
2014.6 『[高田時雄教授退職記念] 東方學研究論集 [日英文分册]』pp228-241
こちら、ネット上での公開がなかったもんで、このブログに記事をさらした当初は、次のオープン・アクセス可能な学術出版物のみに目を通し、「おゃ、ご専門の道坂先生も楊守敬につき突き詰めた考証、されてないのかな」って思ったけど、違った。2016年12月刊行の専著にも収録されている一論文だけど、2015年3月刊行の研究誌「敦煌寫本研究」9号は全編、オープン・アクセス可能。
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~takata/NIANBAO_9.pdf
最後のほう、pp147-162が道坂先生の論考「日本傳存『王勃集』殘卷景印覺書」。論文トップページに最初の項目「一、正倉院藏『王勃詩序』1 」があって、そこの註1は、脚注に置かれ次のよう。
1 明治17年(1884)石版景印、大正11年(1922)玻璃版景印。
さらに、次の論述が続いてる。
『王勃集』殘卷のなかで、最初に發見されたのは正倉院に藏されていた『王勃詩序』である。明治5年(1872)、博物局局長町田久成等による壬申檢査と稱される調査の際に發見された。明治17年に博物局より石版景印され 2 、楊守敬が『日本訪書志』で紹介、佚文を翻刻し廣く知られることとなった。
2 東京國立博物館資料館と遼寧省圖書館(羅振玉舊藏本)に保存されており、『詩序 唐人書 東大寺正倉院御物』と題されている。また「明治十七年三月二十七日出版屆 博物局藏版」と記されている。
じゃあ、その明治17年(1884)刊行という石版を閲覧して、原本どおり30枚の紙の貼り継ぎが再現されているか、確認すればいいのね。
まぁ、もう道坂先生が、正倉院の巻物に貼り継がれた原紙どおり、そのうちの何枚かを抜いての複製がされたバージョンと、原紙ごとに分断せずに全巻を再現した石版があること、報告ずみだったけど。新たに上野の東博・資料室とかに行って「見ぃ~せて」って言えば、閲覧させてもらえるかな。さらに同時期、同じシリーズなのかわからないんだけど「朝陽閣集古」と題されるものにも「第3: 東大寺所傳詩序」という題名が見える。ただし国立国会図書館の「朝陽閣集古」8軸の中には、この「詩序」なし。12集まで揃えているのが東大史料編纂所で、[大蔵省印刷局], 1882-1884とか石版複製・巻子本との注記あり。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB03806532
あら本郷ね。そのくらいなら無縁というわけじゃないから見に行ってあげましょうか。
おうおう東大の赤門くぐりぃ~の、史料編纂所で「朝陽閣集古」第3:東大寺所傳詩序、っうのがどんなもんだか見てきてもらおうかぃ。こちとら、古本500円で買った「正倉院展」図録、にぎりしめて待っとるさかい!
楊守敬『日本訪書志』卷十七「古鈔王子安文」での則天文字6種
「年月」を則天文字で刻す1例の掲出はここで省く(前に続く記事参照)
別の1種「𡕀」(載の則天文字)は下の画像参照
正倉院「王勃詩序」の《至眞觀夜宴序》を楊守敬『日本訪書志』卷十七はこのように翻刻していた
【なお正倉院本で紙の貼り継ぎのあと書写された《遊廟山序》につき、『日本訪書志』は触れておらず、楊守敬は「王勃詩序」全体の3分の2ほどの複製を手渡されただけと思われる】
上にアップした左側は、「正倉院展」図録のカラー写真の転載でしょ。
そう、平成6年「第四十六回」の図録54ページから。「至真觀夜宴序」一篇分に、黄土色の紙を貼り継いだ「遊廟山序」の出だし部分のみ。
載を別の字にした則天文字「𡕀」に注目、ってことね。で、その右側は?
明治初期にやってきて、清朝では失われた漢籍を日本で探し出した楊守敬(1839~1915)の著書から。間接的に、正倉院に伝わった「王勃詩序」の3分の2ほどを見たようで、それを『日本訪書志』という著書の巻十七に「古鈔王子安文」の題で紹介してたんだ。
へぇ、それなりに則天文字を、再現してるのね。
正倉院本と、左右対照させた『日本訪書志』の「至眞觀夜宴序」では、「載」の字体を換えた「𡕀」と、ここは「月」のまんなかがグチャっと草書体になったようで、とうてい匚(はこがまえ)の中に出の「𠥱」とは思えない字のふたつ。それに「年・月」とある則天文字を、「𠡦・𠥱」と刻している例は別の記事に示すけど、ほかで刻された字は画像から切り出して、さらに上に掲げておいたよ。
で、蔵書家さんを自称してるけど、版本『日本訪書志』、もってないんでしょ。この画像、どこから取ってきたの。
ネット! 国会図書館のレファレンス事例に「『日本訪書志』を見たい。」ってのがあって、幸運にも小樽商科大学附属図書館の所蔵本が、全編、画像公開されていることを知ったんだ。「史部」5品のうちの一つだった。
貴重図書全文画像データ(漢籍)(小樽商科大学附属図書館)
http://www.otaru-uc.ac.jp/htosyo1/siryo/kanseki/
清・楊守敬『日本訪書志』は清光緒23年(1897)刊(楊氏鄰蘇園)の8冊。全17卷それぞれが、PDFデータとして開くようになってた。
「古鈔王子安文」の紹介は最終の巻十七ね。あら、モノクロ画像!
『日本訪書志』卷一七【一表】
これで十分! 10丁半分に、解題から始めて、題目を30かかげたあと、題名につづけ王勃の文まで刻したのが13篇。ただし首尾が欠けている「残缺」の篇も込みでの13篇。一応は、則天文字もそれらしく再現、提示してくれてる。
句読点、切ってないけど、読めるの。
読みまちがえないよう、そこもネットで標点ありのサイトを検索! 中国版の青空文庫っぽい Wikisource 「維基文庫・自由的圖書館」 に『日本訪書志』を見つけたょ。《古鈔王子安文》一卷(卷子本)にリンクさせたんで、どうぞ。
でも、則天文字らしい字体が見当たらないわ。
たしかに。比べてみたんだけど版本で「埊」と則天文字を置いている箇所が、ただしく常用の「地」に置き換わってなくて、Wikisource じゃ「睪」に誤ってる。しかも目録部分の最後の篇題
《春日送呂三儲學士序》(缺後半)
が、次のような書誌情報(ちょっとだけ試訳ぞえ)の部分のタイトルのように組まれちゃったのは、明らかに誤った読解だったり。
此卷首尾無卷第,尾殘缺。其第一首題王勃名,以下則不題名,似當時選錄之本。然以勃一人之作,采取如此之多,則其書當盈千卷。考唐人選集唯《文館詞林》一千卷,而編錄在顯慶三年,非子安所及,抑唐人愛勃序文者鈔之耶?疑不能明,記之以俟知者。(子安有《舟中篡序》五卷,然校此卷中文不盡舟中作,《滕王閣序》其一也。)今以逸文十三篇抄錄於左,其他文十七篇異同,則別詳《劄記》。
此の(王勃詩序の)巻物は、首尾に書名や第いくつの巻かも書かれてなく、末尾も途切れている。其の第一首の題には王勃の名があるが、以下は題に名が添えられず、当時(唐代)の選録本のようである。…… 【以下、試訳を略】
あら、ほんと。画面を下までスクロールさせると
本页面最后修改于2016年9月26日 (星期一) 04:19。
ってあるから、またこれから改修されるんじゃない。
とにかく、小樽商科大が、版本『日本訪書志』の画像をオープンし、文字テキストをコピペできる Wikisource もあった。ここから、楊守敬という書誌学者が正倉院に伝わった「王勃詩序」のどんな複製を入手したのか、追及したいな、っていう興味がわいたのさ。
そんなこと、優秀な研究者が調べつくしているんじゃ、ありません。王勃や、則天文字についての、きちんとした研究者が。
どうも、明らかにされてないようなんだ。下に、仮の訳を置くけど、「古鈔王子安文」の解題の出だしで、巌谷 修(いわや しゅう 1834~1905)から渡された、と書いている。
号で呼べば、巌谷一六ね。楊守敬から六朝風の書を学んだ政治家、って人名辞書にあるわ。
その息子、児童文学者の巌谷小波(いわや さざなみ)のほうが、文学史上の知名度は高いかも。ともかく『日本訪書志』巻十七には、次のようにあるよ。
古鈔王子安文一卷 卷子本
古鈔王子安文一卷,三十篇,皆序文,日本影照
本,書記官巖谷修所贈。首尾無序、跋。森立之訪
古志所不載,惜當時未細詢此本今藏何處。書
法古雅,中間凡「天」「地」「日」「月」等字,皆從武后之制,
相其格韻,亦的是武后時人之筆。此三十篇中
不無殘缺,而今不傳者凡十三篇,其十七篇皆
見於文苑英華。異同之字以千百計,大抵以此
本爲優,且有題目不符者,眞希世珍也。
【試訳(適宜改行)】
古い手写しの『王子安文』一卷,三十篇は,みな「序」というスタイルの文。
日本での影照(複製)本を,書記官の巖谷修が贈ってくれた。
首尾に序・跋は無い。森立之の『訪古志』には載せていない。
惜しいことに(複製を入手した)当時に此の本が今どこに蔵されるか、こまかく尋ねなかった。
書法は古雅で,中みの、およそ「天」「地」「日」「月」等の字はみな武后が制した(則天文字の)字体に従っている。
其の格や韻をみても,たしかに武后の時代の人の筆である。
此の三十篇中には(首尾を欠く)殘缺の篇が多いが,しかし今に伝わらなかったものも凡そ十三篇ある。
(差し引きして)他の十七篇はみな『文苑英華』に見えているが、異同のある字は千百をもって数えられる。
大抵は此の(巻子)本のほうが(テキストとして)優っている。
かつ題目が符合しないものも有って,まさに希世の珍品である。
句読点は、Wikisource のを借りて原文を示し、訳を添えたんだ。
そうした解題に続く、『日本訪書志』巻十七【一丁裏】からの「目録」は、「日」はすべて「Ꮻ」の字体ね。
最初から、楊守敬が引いたとおりに題目を並べてみようか。割注の再現では、これまた Wikisource の句読点を入れておいたけど。
目録
王勃於越州永興縣李明府送蕭三還齊州序
《文苑英華》作「《越州永興李明府宅送蕭三還齊州序》」。
山家興序 《文苑英華》「家」作「亭」,誤。
秋Ꮻ宴山庭序 《文苑英華》作「《秋日宴季處士宅序》」。
三𠥱上巳祓禊序
① 春Ꮻ序 缺後半。
② 秋Ꮻ送沈大虞三入洛詩序
③ 秋Ꮻ送王贊府兄弟赴任別序 闕後半。
④ 失題 缺前半。
⑤ 秋晚什邡西池宴餞九隴柳明府序
上巳浮江讌序
⑥ 聖泉宴序
⑦ 江浦觀魚宴序 缺後半。
梓潼南江泛舟序
餞宇文明府序 《文苑英華》「餞」作「送」。
仲氏宅宴序 僅存末十字。
⑧ 夏Ꮻ仙居觀宴觀序 缺後半。
秋Ꮻ登洪府滕王閣餞別序 闕後半。
送劼赴太學序 缺前半。
秋夜於綿州羣官席別薛昇華序
宇文德陽宅秋夜山亭宴序
晚秋遊武擔山寺序
新都縣楊乾嘉池亭夜宴序 《文苑英華》作「《越州秋日宴山亭序》」。按:序文有「揚子雲之故地」句,則非「越州」審矣,《英華》誤。
⑨ 至眞觀夜宴序
秋晚入洛於畢公宅別道王宴序 缺首尾。
秋Ꮻ楚州郝司戶宅遇餞崔使君序 缺前半。
江寧縣白下驛吳少府見餞序 《文苑英華》作「《江寧吳少府宅餞宴序》」。
⑩ 秋Ꮻ登冶城北樓望白下序
⑪ 冬Ꮻ送儲三宴序 缺後半。
⑫ 失題 僅存末五字。
⑬ 春Ꮻ送呂三儲學士序 缺後半
①から⑬までの〇数字は、なに。
楊守敬が、自国に伝わってない佚文と判断し、目録を挙げ終わったあと、続けてテキストまで翻字掲載した篇。その順番を、行頭に〇数字で添えてみたんだよ。
つまり〇数字がないのは、目次に挙がっただけで、『日本訪書志』に本文の再現はない篇というわけね。
そう。そして正倉院の「王勃詩序」での順番と照らし合わせると、おや、と疑問に思えることが……。正倉院「王勃詩序」に書写されていながら、『日本訪書志』に篇名がないものは……
〈八〉 夏日喜沈大虞三等重相遇序
◆〈九〉 冬日送閭丘序 【④失題 「人」の則天文字「𤯔」を使用】
〈十四〉 與邵鹿官宴序
〈十九〉 張八宅別序
〈二十〉 九月九日採石館宴序
〈二十一〉衛大宅宴序
〈二十二〉樂五席宴羣公序
〈二十三〉楊五席宴序
〈二十四〉與員四等宴序
〈二十五〉登綿州西北樓走筆詩序
〈三十三〉遊廟山序
〈三十五〉別盧主簿序
◆〈四十〉初春於權大宅宴序【⑫失題 】
【⑫は末5字「人皆成四韻」のみあって⑬〈四十一〉春日送呂三儲學士序が続く】
このリストでの〈八〉から〈四十一〉までの漢数字は、正倉院に伝わった「王勃詩序」の並び順を、篇の題にかぶせたようね。
そうなんだ。ある程度のまとまりで、楊守敬が言及していない篇があるのが不思議だった。それを『日本訪書志』の「下闕」などや、「失題」とされている◆マークを添えた2篇から考えて、巖谷修から渡されず楊守敬が見ていなかった部分があるに違いない、と想定。それを正倉院「王勃詩序」の貼り継ぎ紙から特定すると、計(10)枚ほどが未見だったと判断。そうみて、かなりすっきり解決した気分。
へぇ。次での( )内洋数字は、全(30)枚が貼り継がれているとかの、正倉院「王勃詩序」の料紙の順番ね。
③〈七〉秋日送王贊府兄弟赴任別序【楊守敬は「闕後半」とする】
(6) 〈八〉夏日喜沈大虞三等重相遇序【楊守敬はこの篇に触れず】
〈九〉冬日送閭丘序【これを④「失題」として前半がないが「人」の則天文字を「𤯔」の字体で刻す】
⑦ 江浦觀魚宴序【楊守敬は「缺後半」とし次に言及せず】
(10) 〈十四〉与邵鹿官宴序
仲氏宅宴序【「目録」割註で「僅存末十字」とする】
⑧ 夏Ꮻ仙居觀宴觀序【「缺後半」とあるので(11)は手にしたが】
(12)(13)(14)紙の書写は巌谷修から渡されていない!
〈十九〉 張八宅別序
〈二十〉 九月九日採石館宴序
〈二十一〉 衛大宅宴序
〈二十二〉 樂五席宴羣公序
〈二十三〉 楊五席宴序
〈二十四〉 与員四等宴序
〈二十五〉 登綿州西北樓走筆詩序
【この7篇は連続して見ていないので楊守敬は触れてない】
【次が書写された(15)紙を楊守敬は見ているが】
秋Ꮻ登洪府滕王閣餞別序 【で「闕後半」】
送劼赴太學序 【「缺前半」とあるので】
(16)紙一枚分を不見 【続く4篇は既知として目録に掲出】
秋夜於綿州群官席別薛升華序
宇文德陽宅秋夜山亭宴序
晚秋遊武擔山寺序
新都縣楊乾嘉池亭夜宴序
【つまり(17・18・19・20)紙は見ており】
⑨〈三十二〉 至眞觀夜宴序【は新発見の佚文として翻字】
(21)紙の第一行から書写されている
〈三十三〉 遊廟山序 に言及がない
〈三十四〉 秋晚入洛畢公宅別道王宴序 【は「缺首尾」とあるので(22)紙を見て】
(21)(23)紙を未見ヵ
〈三十五〉別盧主簿序【正倉院での原本も「3行」切り取られ不完全】
秋Ꮻ楚州郝司戶宅遇餞崔使君序【「缺前半」とあるのでこの題のある】
(24)紙も不見ヵ 【(25・26・27)紙は見ている】
江寧縣白下驛吳少府見餞序(《文苑英華》作「《江寧吳少府宅餞宴序》」。)
⑩ 秋Ꮻ登冶城北樓望白下序
冬Ꮻ送儲三宴序 【で「缺後半」とあり(28)紙を見ていない】
(28)〈四十〉初春於權大宅宴序【を⑫失題として末5字のみ第(29)紙から翻字】
人皆成四韻
【まとめ 全30紙のうち渡されず楊守敬が見ていないのは次10紙となるヵ】
【正倉院「王勃詩序」(6・10・12・13・14・16・21・23・24・28)】
さも得意そうだけど、きっともう、ほかの研究者が論著で発表してるんじゃない。
見るべくして、次の2冊は図書館や中国学の専門書店に近寄らず論をたててみたけど。
日中文化交流史研究会 (編) 2014.10 正倉院本 王勃詩序訳注
601ページ: 翰林書房 19,440円
道坂 昭廣 2016.12 『王勃集』と王勃文学研究
406ページ 研文出版 8,100円
あら。則天文字の字体そのものから、話がそれていったと思えば、そんなだったのね。でも、もし先行研究で立論されていることを、くどくど、ここで論じていたのでしたら、罰としてその「学術書を定価でお買い求め」の刑に処するわょ。
ひぇー!
掘り出された「文字」―出土文字資料からさぐる古代の下野 ―
【栃木県立博物館 2000.10 から】
則天文字について、調べた文献をまとめてくださる。
則天武后の時代そのもの、8世紀初頭の石刻や拓本の文字や、我が国にもたらされた筆写資料をもとに、どんな研究がなされてきたか、お勉強いたしました、ってところかな。
古くは、昭和10年代の常盤大定から、近年の蔵中進先生まで、主だった研究論文は、目を通しての感想なんでしょうね。
まぁ、そこそこ文献は集めて読みました。そして東博・東洋館1階に展示中の、三尊仏龕への銘に刻された則天文字は、蔵中進『則天文字の研究』にも触れられてないようで、これまで調査対象にならなかったんじゃないかな。蔵中先生は2008年に亡くなっていて、著書に収録された学術論文は初出は1990年前後が多く、おもに勤務先だった「神戸外大論叢」掲載なんだけど、デジタル化されてのWeb上の公開がないようなんだよ。
「論文、図書・雑誌や博士論文などの学術情報で検索できるデータベース・サービス」とかの、CiNii(NII学術情報ナビゲータ[サイニィ])を使って調べたのね。
http://ci.nii.ac.jp/
そう。次なんか一般向けの執筆。10数年前に廃刊になった月刊雑誌「しにか」の文字関連の特集号だから、たしかバックナンバー買って置いてあるぞ。
蔵中 進 1997.6 則天文字 女帝の権力が生んだ17字
大修館「月刊しにか」8巻6号(特集◎失われた文字の世界 発見から解読まで)pp72-76
【積み重なりを片付けつつ、ごそごそっと取り出して】これこれ。蔵中進 1995年 翰林書房『則天文字の研究』は学術論文を並べたふうで手に取りにくいようだから、このダイジェストがお勧めかなぁ。
それに日本古代史ご専門のかたの次も、蔵中先生の考察を要約してあって、読みやすかったわ。
田熊清彦 「(Ⅳ 文字の展開) 2 則天文字」
吉川弘文館 2006.2 「文字と古代日本」5『文字表現の獲得』pp261-283
その方面だと、奈良・平安時代の、文字が墨書された土器の発掘報告に、注目すべき事例があるようだね。
参考文献に挙がっていたので、次なんか、ぜひ読んでみたいゎ。
平川 南 1989《則天文字を追う》「歴博」34
初出は月報パンフレットっぽいので、探して見てはいないけど、次の専著の第四章「三 墨書土器とその字形」のpp320-324に《付 則天文字を追う》として取り込まれているよ。
平川南 2000.11『墨書土器の研究』吉川弘文館
また部分コピーでお示しね。学術書、お買い求めなさらないようね。
定価12000円也! そんなこんなを私費購入しちゃうと、食うに困ります。それに研究機関にご所属の学者さんが出した専著って、収録論文を初出誌までさかのぼれば、たいがいWeb上でPDFバージョンとして公開されてる。
平川南 先生って、千葉県佐倉市にある国立の大きな博物館の館長を務めたあと、出身地の山梨県立博物館長をなさってる日本古代史の研究家ね。
そう。「国立歴史民俗博物館研究報告」第35集(クリックすれば目次にリンク)のpp67-130,
平川南「墨書土器とその字形 ――古代村落における文字の実相」
が吉川弘文館『墨書土器の研究』第四章 墨書土器と古代の村落 「三」の篇題として、そのまま取り込まれてる。
あら「1991年11月刊行/B5/606ページ」の35集は、冊子そのものも、まだ販売中ね。定価7,136円が抹消され、半額ダンピング価格の3,670円(送料460円)、って。
個人で買うやつ、いないからだろ。佐倉にある博物館での刊行物は〈創設10周年記念論文集〉と銘打ったこの第35集あたりから、収載論文がPDFデータでダウンロードできるし。
なるほど。PDFバージョンでも、平川論文94ページ「3.特殊文字の存在」からの10ページ分は、掘り出された土器に墨で書かれている則天文字ふうの「天」についての報告ね。
初出誌での横書きを、吉川弘文館『墨書土器の研究』で縦書きに換えてるけど、図版はそのまま掲載だね。だから学術書を買いそろえよう、って気にならないわけ。むしろ新刊書店の棚に並ぶことのない、各地の博物館や教育委員会が出した図録・調査報告書を、古書でみつけたら、なるべく求めるようにしてるよ。次なんかが、土器のカラー写真ありで、みっけものだった。
掘り出された「文字」―出土文字資料からさぐる古代の下野 ―
栃木県立博物館 2000.10
この図録から、則天文字なのかな? の「天」を墨書した写真を拝借し、上に掲出。
「呪術的な記号」との関連で紹介されているようね。文字の力を感じるわ。最後に調べを、ちょいのちょい、と入力。
おいおい、ジッちゃまの本名を入れて今更、検索するってか。
あら少ないわねぇ、「CiNii収録論文: 7件」だって。研究活動してないってことね。
ばれたか。同人誌扱いの雑誌に発表した分はカウントされないもんで……。でも散らばってた「同姓同名」のIDを「本人です」って申告し一つにまとめて、これなんだょ。
一応、どんな研究をしてきたか、わかるのね。顔写真とかスタイル、信条も載ってれば、直接ご指導いただきたい先生かどうか判断出来るので、いいのにねぇ。
ここにいるジィさん、頼りにならず、ってかぃ!
まあ、そういうこと。結局、ネットで検索しての学術情報集め、してるだけでしょ。
そりゃ、手っ取りばやいのは、やはりネット調べ。ウィキペディアの「則天文字」なんか、よくまとめてあった。参照文献は、蔵中進の著書が直接あがってなかったり、偏りや不足があるように読めたけど。実は則天文字に、これほど文字コードが振られていて入力・表記できるなんて、思ってもいなかった。以上の記事は、すべてウィキペディア「則天文字」の一覧から文字のコピペでの入力でした。
これでおしまい、っと。
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