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篆額と自虐

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楊守敬は正倉院蔵「王勃詩序」を見ていたか

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王勃《夏日仙居觀宴序》での則天... 王勃《夏日仙居觀宴序》での則天文字
写字モノクロ画像は正倉院「王勃詩序」第(11)紙から
「日・年・月」の則天文字(次3字)を桃色あみがけに加工
Ꮻ・𠡦・☮
(☮で代用した「月」は他で𠥱の字体となる)
 今回は、則天文字そのものの字体には、ほぼ触れず。引き続き則天文字が使われていて、正倉院に伝わった慶雲四年(707年)七月廿六日書写という御物「王勃詩序」のことを、ひとくさり。

 過去の「正倉院展」の図録に載ってる、ってお話からね。古本で手に入れたんでしょ。

 昭和58年と平成6年の図録、2冊とも入手。表紙は上の画像の右側に置いたとおり。ともに一部のカラー図版と、王勃「詩序」全巻のモノクロ画像を縮小掲載。
   昭和58年(第35回) 正倉院展
p12上段[出品目録]に「6 詩 序      一巻  中倉 三二」
p26p27に用紙の貼り継ぎがわかる箇所のカラー写真2点と、モノクロでの巻子を巻いた状態でのぢか書きの外題「詩序一卷」という写真。
pp112-126に「6 詩序(全巻)」として(1)から(29)までの番号を付し上下2段にモノクロ写真。
   平成6年 第46回 正倉院展
p7上段[出品目録]に「54 詩序      一巻  中倉 二三【御物目録番号】」
pp89-91に昭和58年とほぼ同じ「 54 詩序 部分(および解説)」 
pp123-137に「詩序 全文図版」として(1)から(29)までの番号を付し上下2段にモノクロ写真。

 あら2度とも、ほぼ同じ写真じゃないの。

 そうなんだ。冊末のほう、モノクロ写真が載った箇所から「年・月・日」の則天文字が見える一篇《夏Ꮻ仙居觀宴序》を、スキャナで読みとってみたんだけど……。

 いかにもの、地がまだら斑点になっちゃってるね。

 うん。楊守敬『日本訪書志』巻十七での翻刻と対照させようと、試みたんだけど。咸亨(かんこう)二年は、西暦671年で唐の高宗の治世につき、則天武后はまだ、おきさき様。この王勃の文章《夏Ꮻ仙居觀宴序》の前半を、明治初期に訪日した清・楊守敬が紹介し、則天文字もそれらしく翻字している。

 で、楊守敬が清国に持ち帰った王勃の遺文、どんな資料だったか推測できたの?

 まだ確信はないんだけど、30枚の紙を貼り継いでいる正倉院の巻物「詩序」の転写本か、あるいは石版という方法での複製を入手していながら、それがあちこち欠けての20枚分だけだった、と推測。

 なぜそう思うの。

 上に挙げた『日本訪書志』【卷十七】八丁での《夏Ꮻ仙居觀宴序》は、次のように句読点を入れ再現できるけど、篇末に割注「下闕」があって終わってる。
  
  咸亨二𠡦𠥱孟夏,龍集丹純,兔躔朱陸。時属
  陸沈,潤褰恒雨。九隴縣今河東柳易。式嵇彜典,
     【▼訪書志卷十七         八】
  歷禱名山。爰昇白鹿之峯,佇降玄虬之液。楊法
  師以烟霞勝集,諧遠契於詞場;下官以書札小
  能,敘高情於祭牘。羞蕙葉,奠蘭英,舞闋哥終,雲
  飛雨驟。靈機蜜邇,景
 下闕

 そして次の篇《至眞觀夜宴序》が続くよね。ところが正倉院の「詩序」では、あえてモノクロ画像に、赤いを置いてみたけど、行末「……靈機蜜迩景」で終わるわけじゃなくて、次行「况始然……」以下に続いてる。実はここが、正倉院の巻物では第(11)紙から第(12)紙への貼り継ぎ箇所なんだ。

 つまり楊守敬という学者さんは、その巻物の第(11)紙に何が書いてあるかは知りえたけど、続く第(12)紙などは未見のまま『日本訪書志』をあらわした、って推測したのね。

 そのとおり。書誌学者・楊守敬がまったく言及していない篇や、「闕前半」「下闕」などと不完全な篇だと注記しているところも、正倉院の「詩序」の特定の貼り継ぎ紙を見ていないと仮定すると、すべて説明できるんだ。

 またまた、そんな考察、優秀な別の学者さんが発表してるんじゃなくて。

 そうだった。やはり王勃研究の専門家で、京都大学大学院人間・環境学研究科にご所属という、道坂昭廣先生が、すでに述べてたと、次の新刊書でようやく確認。
 道坂昭廣 2016.12 『王勃集』と王勃文学研究 研文出版 8,100円

 やっぱり先行研究で触れられてたのね。

 この書での三部構成の最後「Ⅲ 日本伝存『王勃集』をめぐる問題」の二番目
 日・中における正倉院蔵「王勃詩序」の発見
 に、楊守敬がどれほど不完全な「王勃詩序」の複製を、資料として入手したのか述べてあった。実はこのブログの記事を書き終え発表した同じ月末になって、前の月というか昨年末に刊行の、この専著を販元である神保町・山本書店の店頭でめくってみたんだ。

 研文出版、って古本屋街にあるの。

 老舗として漢籍・中国図書の売買をしている山本書店の出版部門が「研文」。地下鉄「神保町」駅(東京メトロ・半蔵門線および都営・新宿線)の、九段下にもっとも近いほうの出入り口を上がってすぐだからね。

 で、お買い求めずみ?

 でへっ、まだなんだ。初出の次の論文集、B5判横書き(横組み)の誌面で内容確認中、ってことで、ご勘弁を。
 日・中における正倉院藏「王勃詩序」の"發見"について (道坂昭廣著)
 2014.6 『[高田時雄教授退職記念] 東方學研究論集 [日英文分册]』pp228-241

 こちら、ネット上での公開がなかったもんで、このブログに記事をさらした当初は、次のオープン・アクセス可能な学術出版物のみに目を通し、「おゃ、ご専門の道坂先生も楊守敬につき突き詰めた考証、されてないのかな」って思ったけど、違った。2016年12月刊行の専著にも収録されている一論文だけど、2015年3月刊行の研究誌「敦煌寫本研究」9号は全編、オープン・アクセス可能。
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~takata/NIANBAO_9.pdf
 最後のほう、pp147-162が道坂先生の論考「日本傳存『王勃集』殘卷景印覺書」。論文トップページに最初の項目「一、正倉院藏『王勃詩序』1 」があって、そこの註1は、脚注に置かれ次のよう。
    1  明治17年(1884)石版景印、大正11年(1922)玻璃版景印。
 さらに、次の論述が続いてる。

『王勃集』殘卷のなかで、最初に發見されたのは正倉院に藏されていた『王勃詩序』である。明治5年(1872)、博物局局長町田久成等による壬申檢査と稱される調査の際に發見された。明治17年に博物局より石版景印され 2 、楊守敬が『日本訪書志』で紹介、佚文を翻刻し廣く知られることとなった。

   2 東京國立博物館資料館と遼寧省圖書館(羅振玉舊藏本)に保存されており、『詩序 唐人書 東大寺正倉院御物』と題されている。また「明治十七年三月二十七日出版屆 博物局藏版」と記されている。

 じゃあ、その明治17年(1884)刊行という石版を閲覧して、原本どおり30枚の紙の貼り継ぎが再現されているか、確認すればいいのね。

 まぁ、もう道坂先生が、正倉院の巻物に貼り継がれた原紙どおり、そのうちの何枚かを抜いての複製がされたバージョンと、原紙ごとに分断せずに全巻を再現した石版があること、報告ずみだったけど。新たに上野の東博・資料室とかに行って「見ぃ~せて」って言えば、閲覧させてもらえるかな。さらに同時期、同じシリーズなのかわからないんだけど「朝陽閣集古」と題されるものにも「第3: 東大寺所傳詩序」という題名が見える。ただし国立国会図書館の「朝陽閣集古」8軸の中には、この「詩序」なし。12集まで揃えているのが東大史料編纂所で、[大蔵省印刷局], 1882-1884とか石版複製・巻子本との注記あり。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB03806532

 あら本郷ね。そのくらいなら無縁というわけじゃないから見に行ってあげましょうか。

 おうおう東大の赤門くぐりぃ~の、史料編纂所で「朝陽閣集古」第3:東大寺所傳詩序、っうのがどんなもんだか見てきてもらおうかぃ。こちとら、古本500円で買った「正倉院展」図録、にぎりしめて待っとるさかい!
#則天文字 #楊守敬 #王勃

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