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篆額と自虐

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大分県国東市安岐町両子の歳(とし)神社ノボリについて

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令和四年、つまり2年前の202... 令和四年、つまり2年前の2022年に、3名の方(あえて★★で匿名)が出資してノボリ旗を新調されたのですね。その前は「平成十三年/十一月吉日」が右の「其誠」の下。「維明」とあるほうの下に「氏子中」との墨書あり、です。それにつけても、「維明」のすぐ上「淑慝」とある文字、はたして意味なり字体なりをきっちり把握して揮毫されておられるのか、ちょっと気になってます。
 大分県の国東半島は、山でいえば中心にある両子山(ふたごさん)が標高710メートルで最高峰なのです。山頂からだと南に、天台宗の両子寺があり、江戸時代からはこの地区の寺院と僧侶、いわゆる六郷満山(ろくごうまんざん)で中心的な役割をつとめています。
     
 そうした名刹から南へ約5キロ下ると、小ぶりな仁王様1対が西を向いて立つ、安岐町両子の歳神社があります。夏と冬の祭礼日には、県道をはさんだ両子川よりに、8文字ずつの聯句を墨書したノボリが1対かかげられます。2023年は7月28日午後に立て、30日に撤収。冬の例祭は12月10日に掲げられました。
 聯句は左が「禍福在己天顧其誠」、
    右が「日監在上淑慝維明」です。

 だれも教えてくれなかったので、気づかなかったのですが実はこの対句、豊後聖人とも呼ばれる、三浦梅園(1723-1789)の撰、つまり考えアレンジし公表した作品、なのです! そしてその、江戸時代でもっとも独創的な取り組みで天地自然の条理を解き明かそうとしたと評される学者が生涯を暮らした村は、両子の歳神社から南に約3キロ。かぞえどし67で没した旧宅も残っていて国指定史跡(昭和34年指定)となっています。

 さらに書き残した自筆稿本類も200冊を超えた30タイトルが、国の重要文化財として昭和44年に指定。所有者は三浦梅園のご子孫ですが、国東市が管理、公設の三浦梅園資料館で保管、一部が展示されています。
 
 梅園60歳代の自作漢詩を清書した「又乙三」と題した冊子は実質、未公開のままなのですが、
 
    題某神祠之聯
  禍福在己、天顧其誠、日監在上、淑慝維明
 
とあること、確認しました。タイトルは「某神祠に題するの聯」と読むはず。句そのものをどう読むかの訓点はなく、大正元年刊『梅園全集』下巻七三〇頁下段でも、そのまま返り点や送り仮名なしの翻字です(天明五年 1785の作)。活字に組まれたのは、国会図書館がデジタル・アーカイブもしている次の『梅園全集』下巻たった一度だけ。
 
 左右の8文字の連なりを、つとめて同じ構文の句とみて
 
禍福は己(おのれ)に在るも、天顧(かへりみ)るは其の誠。
日監し上に在りて、淑慝(シュクトク)(こ)れ明。
 
 と読めば梅園が伝えようとした次の意味に近づくヵも……
 現代での交通安全の標語っぽくすればいい、との方針ですが!

幸も不幸も本人しだい  まことのおこない報われる
おてんとさまが日々見てる 良し悪ししっかり明らかに
 
 ぐらいに訳すべき、かな?
 
「日監」は『詩経』周頌(シュウショウ)「敬之」の
  「日監在茲」 日(ひび)に監(かんが)みて茲(ここ)に在り
「淑慝」は「善悪」と同じ意味で『書経』畢命(ヒツメイ)
  「旌別淑慝、表厥宅里」 淑慝を旌別し、厥(そ)の宅里に表す
と、ともに代表的な経書、つまり儒教の古典の終盤ちかくに用例があります。特に見慣れぬ「淑慝」との語は揮毫された方も、字体を意識できず、伝来の古いノボリに似せて書いたのかも?
 
 三浦梅園はその著作『玄語』で、中国古典を直接引用することがないのですが、頼まれて神社の鳥居銘やノボリに掲げる対句を撰する場合は、儒教古典の一節をふまえるのです。
 
 なお三浦梅園が晩年まとめた和文の著 『愉婉録(ゆえんろく)』でも、巻下「紺屋町はつ」の章に、四国でお遍路さんをした人から「土佐にて孝子の里に孝行柱」が立っていたと聞き、それが「門閭に旌表す」ということなのだな、と記録してます。
  『愉婉録』巻下 原文《紺屋町はつ 第5節》
https://yuenroku.exblog.jp/19408883/
  《y21-5 諸国の孝子顕彰事情》
 
 この『愉婉録』巻下を読んでもらえる上記ブログは、商用の宣伝が、勝手にかぶってくるのですが、こちら「篆額と自虐」の執筆者が、そっちの編集もやっております。

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